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 ライハを捕らえることができなかったコナンはしかし残念な顔ひとつせず、「やったねライハ兄ちゃん!」とさも協力して毒鼠ことあくつを倒しましたと言わんばかりに笑ってみせた。それにライハも笑みを浮かべて頷き返し、白々しい演技の応酬の中、再び視線が合ってばちりと火花が散る。


(オメーここで何やってんだ)

(企業秘密)



 視線だけで会話する2人を訝ることもなく、歩美が沼から光彦を引き上げ、元太が眠る堆を見てあの姉ちゃんがキッドだったとはよとこぼすが、ライハから視線を外したコナンは「いや」と否定し、続けてキッドが誰かを口にしようとしたそのとき─── ふいに飛沫を上げて水面から須藤が顔を出した。
 その手に、闇夜の中でも煌くダイヤモンドを握って。






□ 絡繰屋敷 17 □





 須藤が「仁王の石は頂いた」と満面の笑みを浮かべるが、それは突如響き渡った地鳴りと地震により固まった。
 きたか。ライハの視線の先で屋敷の壁がせり上がる。やはり快斗が宝石を取ったときと同じように玄関から鉄砲水が溢れて今度こそ玄関扉は大破し、千住と子供達を呑み込まんと大量の水が迫るのを見て、ライハは無言でどんどん水嵩を増していくそこへ躊躇いなく飛び込んだ。
 すぐに水面へ浮上して須藤の手から宝石を掠め取り、驚いた須藤が振り返り口を開きかけたのを鋭い視線で制する。須藤越しにコナンと目が合った。


「ライハ兄ちゃん、早く宝石を!!!」


 親指を立て、須藤の首を半ば無理やり崖の上、横たわるあくつの方へ向かせる。知った顔が倒れているのを見て「えっ?」と困惑した声を上げられたが、あとはコナンに任せればいいだろう。ライハは千住に一瞥を送って大きく息を吸いすぐさま水の中へ身を沈めた。

 うまく水流に乗って沼の底へと沈んでいく。滝の裏へと懐中電灯を手に泥を掻き分けて進めば、ダイヤモンドが置かれていたと思しき台座があった。
 迷うことなくそこにダイヤモンドを置くと宝石の重さにより僅かに沈んだ台座が解除スイッチとなり、沼の底に当てていた手の平越しに感じる揺れが小さくなっていく。

 やがて完全に揺れが治まったのを感じ取り、2階部分まで水につかる屋敷を水中で振り返る。コナンには正体がバレていることだし、彼らが逃げ込んだだろう屋敷の屋根に上がる理由もないため、背を向けてその場から離れた。

 大仕掛けは止めた。あとは水が引くのを待てばいい。今頃屋根の上で、千住が怪盗キッドであるとコナンにバラされているだろうから、キッドの仲間野府ライハももう不要だ。

 谷底へと向かう水流に乗って息が続く限り潜水し、やがて顔を出したときにはもう屋敷は遠かった。そもそもここは森の中であるからコナンに見つけられることはないだろう。

 そういえば博士はとふいに思ったとき、少し離れたところで木の上に警官2人と一緒に避難しているのを見て、無事だったことに小さく安堵の息をついた。水さえ引けば下りられるから申し訳ないが今は放置して、気づかれないようさらに森の奥へと泳いでいった。










 博士達からも十分離れたところで太い木に上がる。変装マスクを外し、幹と同様太い木の枝に腰掛けてスイッチを入れた懐中電灯を空に向けて回せば、暫くして漆黒を滑る白が近づいて来るのが見えた。

 キッドが羽をたたんで隣へと降り立つ。「お待たせ致しました」と丁寧に礼をされて目を細め、マスクをつけていれば浮かんでいたであろう微笑みはしかしひじりの顔に浮かばず、けれど確かに微笑んでいることをキッドは読み取れていた。


「もう少し水が引いたら行きましょう。ひじりさんは特に早く帰って医者に診てもらわないと」


 ひじりが懐中電灯をシザーケースに仕舞うと同時、キッドの衣装を解いた快斗が眉を寄せて木の下を覗きこむ。だいぶ水嵩は下がっているが胸元まではあり、今飛び込むのはよろしくない。
 喉が痛むだけで熱は出ていないのだからそう心配することはないとひじりが首を傾けると、快斗がむぅと眉を寄せた。


「こじらせたりしたら大変ですし…それに、ひじりさんが目の前にいるのに声が聞けないってのは、何つーかその、……さびしい」


 ぽつりと呟いて俯く快斗の頭に手を置いたのは無意識だ。そのまま前後に動かしてよしよしと撫でてやれば、何笑ってるんですかと半眼で上目遣いに睨まれる。頬を赤く染めているのだろうとは思うが、残念なことに月明りだけではよく見えない。
 この暗さでよく表情が読み取れたものだと感心したが、心を見抜いたように「見えなくたって分かりますよ」と拗ねた色を浮かべた声がして、けれどもっととねだるように微かに身を寄せられたから、ひじりは胸に灯るあたたかさに促されるまま好きだなぁと唇だけで呟いた。
 しかし当然言葉は音となって快斗に届かず、つまり想いが届かないわけで。それはよろしくないとひじりは快斗の肩を叩いて顔を上げさせた。快斗が項垂れていた体勢も戻したため今度はひじりが上目遣いになり、背を伸ばして顔を寄せると快斗に触れるだけのキスをした。
 瞬間、暗闇にでも分かるほど快斗の顔が赤く染まる。完全に不意を突かれた快斗はしかし木の上から落ちるような無様な真似はせず、「ひじりさんのっ、そういう、ところ…!マジでずるいっ…!」と天を仰いで唸った。どうやらきちんと想いは伝わったようだ。
 満足げに頷いて声が利けない分を態度で示そうと快斗の腕に抱き着く。頬を寄せてすりつければ情けない声が響いて少し面白い。


「~~~ひじりさん半分くらい楽しんでるでしょ!」

(バレたか。でも好きだって気持ちを伝えたいのは本当)

「んぐぅ可愛いオレも好き!」


 上目遣い+自然な微笑(快斗ビジョン)+密着+目に見える大好きオーラに快斗は唇を噛み締めた。オレの恋人が可愛すぎて生きるのが幸せ。

 ひじりから向けられる好意を快斗はきちんと汲み取るし疑いはしない。だがちょっとした呟きに全力で応えてくれるのは心臓に悪かった。
 頭を撫でられるくらいで十分だったのに、10打ったら100返ってきては振り回されるだけで、愛されているなと思い知ると同時にもう少しドンと受け止めて同じだけ返せるだけの自分になりたいと思う。


(でもまぁ、振り回されるオレを見て楽しそうなひじりさんを見るのも悪い気はしねーから、もう少しこのままでもいっか)


 けれど一度胸に灯った情欲の火がどうにも消えそうになくて、深く息を吐いてうずめたひじりの肩から香る甘い匂いが鼻孔をくすぐり快斗の心を掻き乱す。


(……ちょっとくらい、いいよなぁ)


 ひとり何やら決めたらしい快斗に気づかぬまま快斗の頭をよしよしと撫で続け、ふと下を見たひじりは水がだいぶ引いていることに気づいた。これならばもう下りられるだろう。

 声が出ないため行動で快斗に知らせようと手を伸ばしたとき、ふいに肩にうずめられていた顔が上がる。静かに見下ろしてくる青い目にはとろりとした熱と情欲が宿っていて、ひじりの心臓が微かに震えると同時、瞬く間もなく唇が重なった。

 ちゅ、ちゅ、と繰り返される濡れたリップ音は谷底へ向かう水音に掻き消されずひじりの耳朶をいやらしく叩く。舌先で固く引き結ばれた唇をノックして開けてとねだられるが、さすがにそれはダメだと目を開けて抗議するも、熱を帯びた睨むような強い視線に射抜かれて思わず体が跳ねた。
 その隙を突きうなじに手が回って強く引き寄せられる。ぐっと顔を上げさせられれば反射的に口が開き、慌てて閉ざす前にぬるりとしたものが侵入してきて、目を瞠ったひじりは無理やり顔を背けた。


ひじりさん」


 咎めるように耳元で低い声が名前を呼ぶ。あなたからしたことなのに、と不満げな響きがやんわりとひじりを責める。だって、と言い訳をしたかったが、開いた口からははくりと空気を食む音しかせず、また唇を寄せられてはたまらないと慌てて閉じた。このときばかりは機能しない喉が憎らしい。

 万全であれば応えるつもりはあるが、今はダメだ。ひじりは自分の喉と快斗を交互に指で差し、唇の前でバツを作る。風邪がうつるかもしれないからダメ、と示して確かに伝わったはずだろうに、にっこりと笑った快斗の笑みが決して納得のものでないと分かって背筋が震えた。


「ちゃんと言ってくれないと分かりませんね」

(しれっと言った!)

「うんうん、拒否するなら口でちゃんと伝えるべきですよひじりさん?ほら沈黙は肯定って言うだろ?」

(今この瞬間だけサッカーボール飛ばして新一ただし快斗に当てちゃダメ!)

「はははひじりさん今誰のこと考えました?」

(こっっっわ)


 ぎらりと剣呑に光る目からそっと視線を外す。無表情は崩れていないはずなのにひじりに関する察知能力が高すぎる快斗から夜空に浮かぶ月を見て、今日も月が綺麗だなぁと内心呟いた。もちろん現実逃避だ。
 しかしこのまま逃げていては押せ押せで押されまくってからのしょんぼり顔で引かれて即陥落する自分をよく分かっているひじりは、すぐに快斗に視線を戻すととにかくダメだと自分の唇を手の平で覆って意思を示す。眉を寄せ不服そうな顔をした快斗にどうしてもダメです?と首を傾けられて内心「うっ可愛い」と悶えて揺れたが首は横に振った。


「ふーん……じゃ、ひじりさんの体調が万全になったら─── オレが満足するまで付き合ってくれるよな?」


 にっこり。輝く満面の笑みが問うのは「Yes or はい」だ。ここで「No or いいえ」を口にしようものならその瞬間ひじりの抵抗など容易く抑える気満々な快斗に、ひじりは「誰が快斗をこんなふうにしたんだろう……私だ」とひとり自業自得を悟りながら神妙に頷いた。

 最近、快斗の遠慮がない気がする。振り回していると思えばいつの間にか笑顔で捕えられていて、けれど悪い気はせずむしろ何だか楽しいから、まったく敵わないと唇を覆う手の平の下に小さな笑みが浮かんだ。快斗の言葉を借りるなら「快斗のそういうところマジでずるい好き」だ。
 それはそれとして、ひじりは内心で後日の自分に手を合わせた。頑張れ、数日後の私。


「水も引きましたし、そろそろ下りましょうか」


 内に燻る熱はそのままだろうに、一切表に出さず涼しい顔をする快斗に手を取られて頷く。
 水が引いて濡れているだけの地面に下り、2人はコンパス片手にキャンプ場へと向かって歩き出した。





■   ■   ■






 闇夜に飛んで消えて行った怪盗キッドを見送り、殺人事件も奇妙な屋敷に眠る宝石の件も落着となり深い息を吐いたコナンは、「あーっ!」と突如光彦が声を上げたことで驚きに肩を跳ねさせた。


「ライハさんがいませんよ、コナン君!」

「ええっ!?まさかライハお兄さん、溺れてるんじゃ…!」


 光彦と歩美が揃って顔を青くする。2人の言葉で初めてライハの不在に気づいた元太と哀も顔色を変えた。
 確か宝石を戻しに沼の底へ潜っていったのを見たのが最後で、辺りを見渡すも屋根の上にその姿はなく、そして水面にも顔を出している様子がない。水は徐々に引いているから宝石を戻してくれたのが確かな分、子供達は親切で優しい青年の不在に慌てている。それに、コナンは落ち着けよと声をかけた。


「あの人はキッドの仲間だよ。宝石を戻したあと、この水に紛れて逃げたんだ」

「えっ、そうなんですか!?」


 驚く一同に頷き、青年─── 野府ライハと名乗った人物をコナンは思い出す。短い黒髪、黒い目、整った顔に穏やかな微笑みを浮かべていた初対面の彼はしかし、その正体はコナンがよく知る人物だった。

 キッドは地下に、ライハは地上にそれぞれ別れてコナンを含む子供達が罠にかからないよう待っていたのだろう、自身の危険を顧みずに。とんだお人好し達だ。灰原の言葉を借りるなら「ハートフル」か、とコナンは小さく苦笑する。

 でもどうして分かったの?と歩美に問われ、「あの人、草薙の剣のところでオレの代わりに文字を見に行ってくれただろ」と返す。
 あのときライハは最後尾を走っており、草薙の剣がある部屋に着いたのも当然最後。一番前を走って仕掛けに引っ掛かった千住の姿は見ていなかったはずだ。それなのにコナンを制して自分が行こうとし、初見であるのに刃の仕掛けを何の問題もなくクリアしてつるぎが刺さる台座に辿り着けたということは、知っていたからだ、あの仕掛けを。キッドと共に。

 それに気づいたのは千住が怪盗キッドだと見抜いた後。そのときまでは本当に怪盗キッドがこの場にいることを知らなかったし、ライハが仕掛けを知っていたのは、コナン達に合流する前に見ていたのかと思ったからだ。実際、須藤とてあの滝壺を通っていたために可能性は十分にあった。
 一番の決め手は彼が筆談に使っていた紙。あれは滝の裏にナイフで留められていたキッドのカードと同じものだった。つまりはキッドと繋がる者ということ。


(ま、ほんとは“野府ライハ”の中身に気づいたからなんだけどな)


 嘘ではない表向きの推理を話して納得させ、コナンはひとり胸の内で呟く。推理は話した通りだが、コナンはカードを実際に見ていない。飛び石を越える前に千住に止められ、滝に近づいたときはライハと向き合っていて、須藤が水面に顔を出すまでよそに視線を向ける余裕はなかった。つまり、見てもいないカードでライハがキッドの仲間だと見抜いたわけではない。

 野府ライハがただのトレジャーハンター見習いではないことは疑っていた。だがそれだけで、千住が怪盗キッドであると気づいた瞬間、バラバラだったピースがひとりの女の形を取ったのだ。

 野府ライハ。のふらいは。のーふらい は(と)。
 飛べないノーフライはと、は過去にひじりが使ったハンドルネームだ。
 話せなかったのは単純明快、変声術が使えないから。宝石を確かめたのに去らずに屋敷にいたということはコナン達が来ることを想定してこの屋敷に留まっており、それは突発的なものだったはずだ。ならば宝探しに不必要な変声機は持って来ておらず、口が利けない設定でいくしかなかったのだろう。剣に刻まれた文字を読むときに無意識に唇を動かしていたのは、つい最近まで口が利けていた証拠。
 須藤が持っていた宝石を掠め取ったのは堆を頼むためではなく、単純に逃げるためだった。コナンに正体がバレていると気づいていたようだし。


怪盗キッドの影にもうひとり、ね…面白ぇじゃねーか)


 ひじりとキッドが組めば向こうの有利は確実。しかしコナンはそのことを誰にも明かすつもりはない。ひじりがいようがいまいが関係なく、怪盗キッドもその影も己の手で捕まえる。
 ひじりがキッドと手を組むのは、捕まるリスクも想定した上での行動だ。なのにひじりがいるからと手を抜いてみろ、きっと彼女は「何だその程度か」と、失望こそしないが今まで以上の期待もしなくなる。コナンが─── 彼女の“弟”の工藤新一がそこで頭打ちになってしまう。それは我慢ならなかった。

 2人まとめて絶対ぇ捕まえてやる。口の端を吊り上げて不敵に笑うコナンの後ろで、ライハに抱き上げられたときのやわらかさを感じた自分の手をじっと見下ろしていた哀はぽつり、「まさか…ね」と小さな声で呟いた。

 ちなみに、ひじりが喋らなかったのは風邪をひいていたため声が出せなかったからだとコナンが知るのは翌日のことだが、それはまた別の話。



 絡繰屋敷編 end.



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