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コナンが子供達に三水吉右衛門の暗号を解説し沼の滝をライトで照らしたときには、ライハは滝が流れる、そう高くはない崖の裏にいた。
堆が崖の上から滝へと向かってくる子供達を見下ろしているのを見て気配を殺しながら近づく。どうやらライハには気づいていないようで、崖の真下、上からでは死角になる位置に身を潜めた。
(ひとまず持ち物を検めさせていただきますね)
内心で呟き、彼女が傍に置いているバッグに手を伸ばす。滝の音に紛れた微かな音には気づかれず、堆はこちらを振り返ることはなかった。
手元に引き寄せたバッグの開けて手早く中を探る。何もなければそれでいいと思っていたライハはしかし、バッグの中に後付けで縫いつけられたホルスターに拳銃が納まっているのを見つけ、黒曜の目に鋭さを宿した。
□ 絡繰屋敷 16 □
拳銃をバッグに戻し、崖越しに滝の前にいるらしい子供達の声を聞く。
堆に滝の裏を見てごらんなさいと言われて光彦がそこをライトで照らし、何かカードがナイフで留めてあることに気づいたようだ。
「に、仁王の石は頂いた…怪盗キッド!?」
そんなぁと声を上げる子供達の声に紛れさせてバッグを元あった場所に戻す。
子供達はあからさまに肩を落としていることだろう。せっかくここまで来たのにごめんねと思いはするものの、あれは目の前にあっても決して手にしてはならないものだ。怪盗キッドに盗られたと思って諦めてほしい。
沼のほとりから「流石天下の大泥棒じゃ!!」と千住の笑い声が聞こえる。あちらも森から戻って来たか。こっそり崖の陰から視線だけで屋敷を見やれば、いつの間に屋敷を出たのか須藤もいた。
と、ふいに気づく。沼のほとりに横たえられていた男の遺体がない。コナン達が動かすはずがなく、須藤がついさっき屋敷から出て来たのだとすれば、それができたのは先に屋敷を出て沼を探した堆ただひとり。成程、犯行を誤魔化すために隠したのか。
ドボォン…!
ふいに重い水音が聞こえて、音の大きさからおそらく子供─── 歩美が「光彦君!?」と叫んだから、沼に落ちたのが光彦だと知る。
この沼はなかなかに深いが、子供達はカナヅチではないし沼にあるのは泥と鯉くらいだから、足は着かないが浮き上がることはできる。思った通り、数秒置いて光彦が水面に顔を出した音を聞いた。
キッドに宝石を盗られたと知り、撤収だ撤収!と須藤が声を上げる。ぜひそのまま振り返ることなく帰っていただきたい─── そう思っていたのだが、そう簡単に事は進んでくれないもので。
「あ、ありました…」
光彦が呆然とこぼす声にライハは目を細める。無意識に手に力がこもり、握りしめた右手の中身がきしりと鈍い音を立てた。
「泥に隠れていましたけど、沼の底に確かに光る石が!!!」
そういえば博士が作って子供達にあげた腕時計は防水性。水の中でもライトは持続し、泥の奥に隠れたダイヤモンドに反射してしまったか。
光彦の言葉にこの場にいる誰もが目の色を変え、一番最初に動き出したのは須藤だった。「もらったぜぃ!!!」と興奮と喜色の浮かぶ声を上げて水に飛び込む音、そして千住が引き留めようとする焦りの滲んだ制止の声が響く。
「取ってはならん!」
思わずその言葉が口をついて出てしまったのだろう千住を責める気はない。しかし、怪盗キッドが残したカードと裏腹に盗られていないダイヤモンド、そして今の言葉を屋敷の状態と合わせて考えてみれば、コナンは容易に千住の正体に辿り着く。そして「昔からの謂われ」の意味さえも。
視界の端で何かが動いたことを察して視線を上げたライハは、暗がりにいるためこちらに気づかないまま静かにバッグから拳銃を取り出す堆を視界に捉えた。
「おっと、動かないでよ!」
彼女が持った銃口はさて、誰に向けられたのか。子供達ならば許しはしないし、コナンであれば尚更痛い目を見てもらうことになる、ましてや千住─── 快斗ならばさて、どうしてくれようか。いずれにせよ、銃を構えた時点で彼女の末路は決まった。
沼のほとりに一列に並ぶよう命じ、宝石を手にして上がってくる須藤と共に仲良く水浴びさせてあげようと笑う彼女にライハの目から温度が消えて剣呑な光が宿る。音もなく崖に手と足をかけて跳び上がろうとしたそのとき、耳朶を打つコナンの声に動きを止めた。
「フン…やっと尻尾を出しやがったな、怪盗キッド!!」
唐突なコナンの言葉に子供達が驚き、堆が「はぁ?私がキッド?バカね、私は…」と己の正体を口にしようとしたところにコナンが声をかぶせる。
「組んだ相棒を殺して宝をひとり占めするトレジャーハンター、毒鼠なんだろ?」
「え?」
まさか正体を見抜かれているとは思っていたようで堆が目を見開いて驚く。コナンが堆=毒鼠であると推理する声を聞いていたライハは、その声が徐々にこちらへ近づいていることに気づいた。しかし、飛び石に乗る音は聞こえない。千住が引き留めたのか、コナンに言い聞かせる声が聞こえる。
「待て小僧、あやつは拳銃を持っておる、近づくでない」
「バーロ、オレは…、───!」
耳に寄せた腕時計から、『……成程な』と笑みを含んだコナンの小さな声が聞こえた。
コナンが何を言われたのかまでは分からなかったが、千住に従いその場に留まることにしたらしいコナンが推理を再開して堆を追い込んでいく。
堆を犯人だと決定づけたのは、コナンが見つけた石の神器が勾玉だと知っていたから。沼に沈められた男の手帳、その破り取られたページには文字が刻まれた勾玉の図面が描いてあり、つまりコナンが見つけたものが“炎”と刻まれた勾玉と知っている人物が犯人となる。
どうして手帳に勾玉の図面が描いてあったと分かるのかと堆が問い、鉛筆で書かれていたために裏写りして薄っすら残っていたからだとコナンが答えて、流石は名探偵とライハは無音で拍手をする。
─── さて、もういいだろう。
崖に手をかけ、地面を勢いよく蹴って跳び上がる。微かな音は滝に紛れて消え、数度崖を蹴って登れば、そこには堆の後姿があった。堆越しにコナンと一瞬目が合う。
「へぇ~。少しは賢いようだけど、賢いだけじゃダメよ…だってあなた達はこれから」
堆の声を聞きながら、ライハは胸元に掲げて下に向けた右手を開き、握りしめていた物をその場に落とす。カツン、と金属が岩にぶつかってこすれる音が複数鳴り、内いくつかが軽い音を立てて沼に沈んでいった。
「─── え?」
目を見開いた堆が首だけで振り返る。そこで彼女が目にしたものは、ゆぅらりと亡霊のように背後に立って僅かに身を屈め己を覗きこむ、青年の姿だった。
月の光がかかる、作り物めいた顔にはこの状況だと言うのにどこまでも穏やかな深い笑みが浮かんでいて、しかしその細められた目はおぞましいほど冷ややかだ。黒い前髪の下から覗く漆黒は深淵の色をしている。
音も無く後ろに立つ、まるでよくできた人形のような青年を真正面から目にして、背筋を凍らせた堆の顔が恐怖に強張った。
ライハは唇だけを動かし「こんばんは」と挨拶をするが返事はなく、我に返った彼女に銃口を向けられ引き金を引かれたが、弾の入っていない拳銃などただの鉄クズでしかない。ガチンガチンと音が鳴るだけのそれを蹴りひとつで弾いたライハが呆然とする堆の腕を掴んで地面に押さえつけ、後ろ手に捻り上げる。時間にして僅か数秒の早業に、我に返った子供達がわっと沸いた。
「兄ちゃんかっけー!」
「すごいすごーい!」
「いつの間に拳銃から弾を抜いてたんですか!?」
子供達にやわらかい笑みを向け、シザーケースから取り出したロープで堆の手首を縛り上げていると「ま、待たんか!」と慌てる千住の声と共に飛び石を越える軽い足音が聞こえ、同時に「ちょっと離しなよ!」とようやく状況を呑み込めたらしい堆が暴れ出す。それを無視してぎっちりと縛り上げ、聞こえていた足音が止まった瞬間、半ば本能的に堆の体を無理やり起こして盾にすることで飛んできた麻酔針を躱した。
麻酔針が撃ち込まれ弛緩した女の体を支えながら崖下を見下ろせば、鋭い光を湛えたコナンと目が合う。
はたから見れば連携を取って堆を大人しくさせたように見えただろうが、あの一射は間違いなくライハに向けられたものだ。眠らせて、捕らえるためのもの。
コナンは真っ直ぐこちらを睨むように見つめている。どうやら“野府ライハ”の正体にも気づいていると見て間違いない。
─── 気づいていて、撃ったのか。
真正面から向けられる、容赦のない眼差しを受けて背中に冷や汗が伝う。
(こっわ)
早鐘を打つ心臓を自覚しながら内心そう呟きはしたものの、顔に浮かんだマスクのものだけではない笑みと細められた目に宿った熱は偽りではなく。
怪盗キッドとしてコナンに対峙するときどこか楽しそうだった快斗の気持ちが、少しだけ分かった気がした。
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