231
「それじゃあ」
快斗が口を開きかけたそのとき、ギギギギギィ…と一段と鈍く低い音が耳朶を打った。
ダイヤモンドを戻したから水が溢れる大仕掛けが止まり、水は谷底へ流れるだけのはずだが、そういえば屋敷自体せり上がっていたことを思い出して、屋敷が元に戻る仕掛けの音かと2人が気を逸らすと同時、突如ドパァッ!と水面から何かが勢いよく躍り出た。それは快斗の背後で上がり、
ひじりは思わず振り返って快斗に迫るものに黒曜の目を鋭くする。
ひじりが懐から銃を取り出してゴム弾を放つも飛んでくるそれの勢いをいくらか削いだだけで砕くことは叶わず、自分が避ければ
ひじりに当たることを懸念して足を動かせずに
ひじりを庇う快斗の側頭部にそれは当たり、人体に固いものがぶつかる嫌な音が響いた。
□ 絡繰屋敷 7 □
飛んできたものは赤子の頭ほどある石だった。おそらくダイヤモンドの仕掛けによって水が噴き出す場所がいくつかあり、長い年月が経っている間にいつしか石が詰まっていたのだろう。それが今日作動し、先程大仕掛けは止めたが詰まった石によって堰き止められた水の勢いは内部で止まっておらず、今ようやく押し出されて水面から飛び出した。
そうしてものの見事に石を食らってしまった快斗の体がぐらりと揺れる。全身から力が抜け、バッグが肩から滑り落ちて水に沈み、反射的に
ひじりが快斗の手首を掴んだときには2人共半ば屋根から体が浮いていた。
ドボォン
2人して飛びこむような形で水に沈む。
ひじりは固く目を閉じて気絶している快斗を水中で抱え直し、沈んでいくバッグを何とか掴んだ。
すぐに水面から顔を出して快斗の怪我の具合を簡単に見れば、どうやら血は出ておらず強く打っただけのようだ。それにひとまず安堵して息を吐くと、だいぶ水嵩も減り1階の壁が見えるくらいになっていた。
快斗を運ぶのに水の浮力も借りることにして、水に顔がつかないよう快斗を背中に背負い、バッグを斜めにかけて泳ぎようやく見えてきた玄関をくぐる。屋敷から飛び出した水の勢いに開かれた玄関扉は壊れこそしなかったものの、あと一発鉄砲水を食らえば次こそ粉砕するかもしれない痛み具合だ。
(確かこの辺りに隠し扉が…)
1階を探索しているときに見つけた、廊下の曲がり角にある隠し扉の場所を探ってある一点を押すとぐるりと回転したそこから隠し部屋へと入る。
仕掛けも何もない、安全地帯と言ってもいい6畳ほどの部屋だ。この部屋を見つけたときにはあまりに何もなさすぎて念入りに探索してしまったが、その結果「何もない部屋」ということが判っただけで肩透かしを食らった。
しかし、今の状況では休ませてもらうには最適な場所でありがたい。外にいれば誰かに見咎められるかも判らないし、寺井に迎えに来てもらうにしてもその間身を潜めておかなければならない。森の中はさすがに遠慮したかった。
水が完全に引き、床に快斗を寝かせた
ひじりはバッグの中を見て、特にバッグまでは防水加工もしていなかったためタオルが全滅していることにため息をついた。仕方がないのできつく絞って水気を取り濡れた快斗の顔を拭く。そのあと自分も拭った
ひじりが寺井に連絡をしようと携帯電話を見てみればそれもやはり水没により故障していて、これでは快斗のものも同じだろう。たとえ壊れていなかったとしてもここは圏外で、しかし電波が届くところまで快斗を置いて離れることはできないから、結局
ひじりは快斗が目を覚ますのを待つしかなかった。
「っくしゅ」
ふいにくしゃみが出て、ふるりと体を震わせた
ひじりが腕をさする。
今の季節は春。まだまだ寒さが残る時期だ。溢れた水は春にしてはぬるかったが濡れた体は容赦なく体温を奪っていく。しかも今は明け方が近い夜であるためさらに冷えていき、このままでは2人揃って風邪をひいてしまう。
ひじりは部屋を改めて見回し、屋敷の裏側を臨むよう作られた窓から裏手に広がる森を一瞥した。
「快斗、ライター借りるね」
聞こえていないと分かっていながら快斗の上着からライターを、バッグから小型ナイフをそれぞれ取り出し、ライターは火が点くことを確認してその場に置いた。代わりに懐中電灯を手に立ち上がる。
「少し待ってて、すぐ戻るから」
濡れた髪を梳いて囁き、隠し部屋から出た
ひじりは5分後、屋敷の裏手から集めた枝を両腕に抱えて部屋に戻った。枝は水に濡れて湿っているが、芯まで濡れそぼっているわけではないから何とかなるだろう。
バッグに入れておいた屋敷周辺の地図が載った本の濡れたページを数枚破って床に敷き、ナイフで割り箸程度に削った枝を盛る。さらにその上にひと回り大きな枝を置いて、あまり火勢が大きくなりすぎないよう計算して調整しライターで火を点けた。
焚火は然程大きくないが2人を温めるには十分だった。本と補充用の枝を近くに置き、焚き木を挟んで反対側に置いたバッグに濡れたタオルをかけるようにして干して乾かす。そして窓がある壁に背をつけ、快斗の頭を膝にのせた
ひじりはようやくそこでほっと息をついた。
本当はいつ人が来るか分からない状況であまり火を使いたくはなかったが、背に腹は代えられない。実際こうして火に当たることで肩の力が程よく抜けたのだからよしとしよう。夜が完全に明けるまでには服も多少は乾くだろうから、せめてそれまでは。
赤々と炎を上げる焚火を
ひじりはぼんやりと眺める。この屋敷に入ってから罠だらけで休む間もなかったため、いくら鍛えているとはいえのしかかる疲労感は拭えない。
快斗を見下ろして起きる気配がないことに無意識にため息をつき、今は閉ざされて見えない青い目に自分を映してほしいと思いながら快斗の濡れた髪を梳く。
ぱち、と薪が爆ぜる音を聞きながら、
ひじりは快斗が目を覚ますのを待った。
頬に感じる熱に意識の浮上を促され、快斗は小さく声をこぼすとゆるゆると瞼を開いた。するとぼやけた視界に入るのは見慣れた女の顔で、
ひじりさん、と反射的に呼ぶと黙って自分を見下ろしていた彼女の目が微かに細められる。安堵の表情なのだと読み取ることはできたが、覚醒したばかりの頭ではどうしてそんな顔をするのかが理解できなかった。
「オレ…?」
「頭に石が当たったの、覚えてない?」
「石…?あっ、そういえば」
気絶する直前、右側頭部に感じた衝撃を思い出して手を当てるが特に痛みは感じず、他人が見ればただの無表情が心配で気遣うそれだと判って快斗は大丈夫ですよと笑ってみせる。
「
ひじりさんのお陰でほとんど勢いはなかったんです。手の平で受け止めてもいましたしね。ただ、ちょっと当たり所が悪くて気絶してしまいましたけど」
背に庇われていたから快斗の動きまでは把握できていなかったようで、納得したように頷かれ本当に痛みはない?と問われてありませんと答える。ならよかった、庇ってくれてありがとう。そう囁くように礼を言われ、あなたが無事でよかったと返した言葉は本音だった。
「ところで…この状況は?」
「膝枕だけど?」
目を覚ませばそこにある愛しいひとの顔と頭の下にあるやわらかい感触にそうだろうなとは思っていたが、さらりと肯定されて頬に熱が集まる。優しい手つきで髪を梳かれてとろりと眠気が再び襲ってきたが、ここでまた眠るわけにはいかなかった。まだキッドとしてもやることが残っているし、約束のご褒美は後でのお楽しみだ。
名残惜しく後ろ髪を引かれながら頭を浮かせると、頬に赤みを残しつつも真剣な顔をする快斗に意図を察したのだろう、何も言わずに姿勢を正した
ひじりに自分が気絶した後の話を聞き、携帯電話が壊れていることに顔を苦くしたもののどこかで公衆電話を借りようと切り替える。ここから然程離れていない場所にキャンプ場があったはずだから、その近辺に公衆電話もあるはずだ。
服もタオルも
ひじりが焚火を熾してくれたことでほとんど乾いていて、窓の外を見れば月はとうになく、紺色を薄くした東の空は白んでいるが完全な夜明けはまだのようだ。
快斗が目を覚ましたからか、焚火を崩して火を消す
ひじりがふと喉に手を当ててさすったことに目敏く気づいた。
「
ひじりさん?喉、どうかしましたか」
「……少し痛くて」
「えっ、まさか風邪を!?か、風邪薬…!」
ひじりの言葉に慌ててバッグをあさるが、用意していないものは当然なく。奇術愛好家のオフ会のときは別人に変装し医大生という設定だったから薬も持ち歩いていたが、今回はまさか水につかることになるとは思っていなかったため風邪薬など用意していなかったことを後悔した。
そして膝枕をしながら焚火の熱が一番当たるよう配慮されていたことにも気づく。気絶さえしていなければ他に方法はあっただろうが、完全に落ちてしまっていた以上どうしようもない。せめてこれ以上体を冷やさないよう、快斗は消えかけている焚火を再度熾すと
ひじりを火の近くに座らせてバッグから出したキッドのマントを巻きつけた。
「早くすること済ませて帰りましょう、これ以上悪化させるわけにはいきませんから」
「うん。……あったかい」
焚火に当たっていたバッグの中で温められていたマントに頬をすり寄せてほぅと息をつく
ひじりに、マント今すぐそこ代われと真面目に思ったが何とか言葉は呑み込む。しかし表情は隠しきれなかったようで、ちらりと目だけで見上げる
ひじりが「帰ってから、ね」と小首を傾げるのでこれはキスのひとつは許されると顔を寄せ、マントが触れる頬を手の平で包んで引き寄せ触れるだけのキスをした。唇を離せば、風邪がうつるよと今更な忠告をされる。
「
ひじりさんが煽るのがいけない」
「…安心したかったから」
ぽすり、マントに包まれたまま胸元に顔をうずめられて反射的に背筋が伸びる。甘えるように額をすりつける珍しい
ひじりに、せっかく下がった頬の熱が再び上がってきたことを自覚しながら手の置きどころを迷った結果、そっと背中に回して引き寄せた。
ひじりさんは強いひとだ、と快斗は思う。けれど同じくらい脆いひとであることも知っている。快斗が突然目の前で気を失い不安になったことは想像に難くなく、オレはここにいますよと囁いて恋人を引き寄せる手に力をこめた。
「ねぇ快斗。もう一回だけ、キスをして?」
喉が痛むだろうに、声を掠れさせてねだる愛しいひとの願いに返すのは当然、Yes以外にあるはずがなかった。
← top →