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通路は一本道だが長く、地下の異様な広さが窺い知れる。屋敷より随分と離れた場所に来ていることは判るが、今ここはどの辺りだろうか。
この屋敷を向かう道中に教えてもらった最新の地図と周囲の地形、そして屋敷の構図を思い返しながら進んできた方角を当てはめ、確か屋敷から少し離れたところが深い谷になっていたからその手前くらいかと推測する。
今ここで落とし穴にはまったり急斜面になって転がり落ちたら大変なことになりそうだがその心配は杞憂となり、2人は何事もなく木でできた扉の前に着いて足を止めた。
罠がないか扉を調べる。何も仕掛けのないスライド式の木製扉だ。
「ところで快斗、聞こえてる?」
「もちろん。さーて、この先には何があるのやら」
先程から微かに耳朶を打ち続ける鈍く重い音が、すぐそこにあった。
□ 絡繰屋敷 5 □
扉を開けた瞬間ぶわりと迫りくる熱気を感じると共に視界が白く染まり、目の前で手を振るが視界は白いままで、レンズがくもっていることに気づいた2人は暗視ゴーグルを外して懐中電灯に切り替えた。光に照らされた先はやはり白く、それはゆらゆらと不規則に揺らめいて上昇し溶けるように消えていく。湯気だ。
「…ん、この匂い、温泉?」
「水が赤いね、鉄分が多く含まれてそう」
鼻をひくつかせた快斗の呟きに、
ひじりは左手側にある8本の滝を見て続ける。おそらく三水吉右衛門が掘ったものなのだろうが、いったい何のために。
扉を出てすぐは足場がなく崖のようになっており、湯気に気を取られて足元を疎かにすれば真っ逆さまだ。それほど高さはないが、だからと言って油断していいわけもない。
右手側の階段を降りて2人は下へ向かい滝壺に近づく。だが階段の先は行き止まりで、滝の水が8本の支流となって支流の先の穴を流れていくだけ。まさかこの穴を潜って行け、などと言うつもりではないだろう。
絶えず流れる滝の水が一定量以上留まっていないと言うことは、この穴は水を排出するために外に繋がっている。適当に潜って行けば谷底へ一直線だ。
まずは安全に先へ行く通路を探すことにして、
ひじりは階段を下りて滝の方へと足場に沿って歩き、足場が途切れた先にある飛び石を越えて階段の真下の扉を見つけた。成程、温泉を掘ったのは湯気でこの扉を隠すためか。
「快斗、あったよ」
「ええ、オレも見つけました」
ひょいと階段の陰から顔を出せば、いつの間にか支流の中央の足場に立っていた快斗がこちらを─── 正確には8本の滝を見て不敵に笑っていた。
ひじりもつられて視線を上げるがここからでは快斗が何を見ているのかよく判らないため、支流の方へと向かい足場をいくつか越え、快斗の傍に立って同じように仰ぎ見る。
懐中電灯の光に照らされた滝の赤い水が吐き出される穴は一部が出っ張っていて、それぞれが天へ向かってあぎとを開く大蛇のようだ。それなら足元の支流はもしかすると八つの尾か、と続けて脳裏に浮かぶものは、伝説の大蛇“
八岐大蛇”。
日本神話において
素戔嗚尊が退治したその魔物の尾から出てきたのは“
天の
叢雲の
剣”だが、後の世では違う名となった。それが草薙の剣だ。つまり、いまだ2人が見つけられていない三種の神器、最後のひとつはこの場所のどこかにあるはず。
どうやら温泉を掘って滝壺を作った本当の理由はこれのようだ。そして結果的に扉を隠す役割をも担ったというわけか。
「で、この支流のどこかに仕掛けがあるんだろうけど…
ひじりさん、日本神話に詳しかったりします?」
「んー、八岐大蛇の伝説か…」
天照大神の弟、素戔嗚尊はもうすぐ大蛇の怪物に食べられてしまうと嘆く
奇稲田姫との結婚と引き換えに大蛇退治を引き受け、奇稲田姫の両親が作った酒を八岐大蛇に飲ませて酔わせたところを退治したという。このとき、確か奇稲田姫が食べられないよう、
湯津爪櫛に姿を変えさせて己の髪に挿したのだとか。
そして素戔嗚尊は眠り込んだ大蛇に斬りかかり、真ん中の尾を斬ったときに自分の剣が少し欠けたため尾を切り裂いてみると中からひと振りの
剣が出てきた、と。
確かこんな話だったと思い出しながら教えると、流石
ひじりさんと快斗に褒められて目許をやわらげた。
「私も昔教えてもらったんだ、まだ小さかった私に分かりやすく…」
そこまで言いかけて、ふいに言葉が止まる。
今からずっと昔、小さい頃。当時の
ひじりにはまだ難解な、八岐大蛇の話が載っている日本書紀を広げて一緒に覗きこみながら教えてもらったのは確かであるはずなのに、隣にいたその人のことが思い出せない。
─── 誰に教えてもらった?
隣に座っていたのは父親だったか、それともたまたま訪れていた父の友人である優作だったか、もしくは小学校の上級生だったか職場体験で来た高校生だったか。ツキン、と頭の奥底が一瞬鋭く痛んだ。
「
ひじりさん?」
快斗の声にはっと我に返る。どうやら突然黙りこんだ
ひじりを不思議に思ったようで、どうかしましたか?と首を傾げられて何でもないと首を横に振った。
思い出せないということは大したことがないということだろう。そもそも、
ひじりに教えてくれたのが誰かだなんて瑣末なことだ。それに記憶というものは案外脆いもので、簡単に忘れてしまう上に何らかの原因によって捏造改変されることも珍しくない。
とにもかくにも、今は草薙の
剣だ。神話をなぞって三水吉右衛門が仕掛けを施したのであれば、それは支流の真ん中、4本目か5本目のどちらかということになる。
だが2分の1の確率に賭けるわけにはいかない。今までの罠から鑑みても、外せば間違いなく死へ一直線だ。となれば、やはり今までの罠と同様、正解へと至る仕掛けがどこかにあるはず。
「お、見ーっけ!」
足元や壁を調べるとどうやら快斗がスイッチを見つけたようで、腰の位置よりやや下にあるそれを手の平で押した。
すると滝の音に紛れそうなほど小さく鈍い音が重なりゆっくりと支流の底から石がせり上がってくる。石はしっかりと水の流れを堰き止め、溜まっていた水が全て奥の方で排出されたようで支流の底をあらわにした。そうして水路は大人ひとり十分に通れるほどの通路となり、ぽっかりと開いた穴の先へと探索者を促す。
2人は顔を見合わせると軽く手の平を合わせて叩いた。
ひじりさんの話のお陰です、と言われて快斗がスイッチを見つけてくれたからねと返し互いの成果を讃えた。
「滑るので気をつけてください」
「ありがとう」
先に通路へ下りた快斗に手を取られて
ひじりも通路に足をつけ、懐中電灯で先を照らすが奥は浅くないようでよく見えない。ひとまず進むしかないようだ。
今までの仕掛けは大体時間経過により自動で元に戻るものが多かったため、今回の堰止め石もどれだけあのままでいてくれるか判らない以上あまり慎重に動きすぎて時間を浪費することはできず、時間オーバーで水に呑まれてお陀仏となる事態にならないよう、2人は神経を研ぎ澄ませながら足早に奥へ進む。
通路はやはり一本道で迷うことはなく、先を歩いていた快斗が足を止めたことで
ひじりは着いたことを悟った。
通路の先にあったのは正方形の部屋。中心に構えられた大人の背丈ほどの台座以外に目立ったものは何もなくだだっ広い空間があるだけで、唯一存在感を示す台座に刺さるのはひと振りの
剣。あれが草薙の剣に間違いない。
「あれが草薙の剣か…さーて、どんな仕掛けがあるのやら」
簡単に歩いて取りに行けるのならここまで来るのに苦労しない。必ず何か罠があるはずだ。しかし罠を知るためにはまず踏まなければならず、
ひじりが無言で通路に下がるのを横目に見てどれどれと快斗が一歩踏み出した。
ガコン、と抵抗なく床が沈んで「お?」と快斗が声を上げ、次いで四方から空気を切り裂く鋭利な音を聴く。やっぱり罠かとのんびり
ひじりが内心で呟くのと、快斗が軽く後ろへ下がって飛び出してきた鋭い刃を避けるのは同時だった。
4つの刃は床の僅か上を撫でるとまた四方に収まり、それきり静かになる。どうやら仕掛けが施された床に重さが加わると四方から刃が襲ってくるようだ。剣に近づくことが難しい厄介な仕掛けだが、それはあくまで普通の人間なら、の話。
「
キッドには簡単すぎるな」
ワイヤー銃で肩を叩いて快斗が呟く。彼ならワイヤーを使えば床を踏むことなく容易に剣のもとに辿り着けるだろう。
「それでもいいけど、それじゃあ面白くない?」
黙って見ていた
ひじりは首を傾けて問いかけ、内心を見抜かれた快斗が目を瞠って振り返る。だが快斗はすぐに唇を吊り上げて挑戦的に笑った。
ワイヤー銃を必要としない攻略法は既に見抜いている。床にかかる重さに反応して四方から襲いかかる刃はしかし、どれともぶつかることなくきちんと四方に収まった。それはつまり微妙にタイミングをずらしているということで、しかも刃に取っ手がついていることに2人は当然気づいていた。ただの意地悪でひねくれただけの罠ではない。
「そんじゃまー、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
軽く言葉を交わし、ワイヤー銃を仕舞って荷物を
ひじりに預けた快斗がもう一度仕掛け床を踏む。快斗は先程と同じく四方から迫りくる刃を冷静に眺め、刃につけられた取っ手を掴んで流れに乗り台座へと飛び移った。お見事、と
ひじりが拍手を送る。
「竜、と書いてます」
剣に書いてある文字を聞いて
ひじりは口元に指を当てる。
揃った三種の神器、それぞれに刻まれた文字は“炎”と“永”と“竜”。
三水吉右衛門は我に神器を供えよ、と言っていたが今まで探索した場所に集めた3つをはめこむような場所はなく、だからと言って次にそれら神器をはめこむような仕掛けを探すというのは違う気がする。
草薙の剣は台座から外れるようで、持って行けないことはないが、敢えて持って行く必要性も今は感じなかった。あくまであの墓石に書かれていたものはヒントであり、“仁王の石”に辿り着くために必要なものではない。三種の神器そのものは、別に必要ではないのだ。では、必要なものとは何か。
「我に供えよ…三水吉右衛門に…」
「三水…さみず…さん、みず…」
「「さんずい!」」
声を揃えて部屋に響かせ、台座の上と部屋の入口にそれぞれ立つ2人は目を合わせてそれだと頷き合った。
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