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 快斗からの依頼を終えてデータを転送し、できるところまで終わらせておこうと自分の仕事にも着手していると様子を見に来た哀に「家事は任せなさい」と食事を渡され、もう朝かと呟けば「昼よ。もうとっくに過ぎてるけど」と呆れられてしまった。

 食べ終わったら廊下に置いててくれればあとで回収しにくると言われてひじりが礼を言い、集中していたせいで手伝ってもらうどころか完全に任せてしまっていることに気づいて頬を掻く。落ち着けば哀と博士の好物を作ろうと心に決め、仕事の手を止めて食事へと手を伸ばした。





□ 絡繰屋敷 2 □





 博士と哀が泊まりで出掛けるときに快斗のもとへとひじりが出向いてそのまま泊まることは珍しくなく、仕事も目途がついたからキャンプの日は知り合いの店でマジックショーを手伝うため前日から快斗の家に行くことにした、と言えば2人は疑問に思うこともなく頷いた。

 当日、夕飯の準備を済ませて荷物を手に快斗に準備ができたことをメールする。と、ひじりが出掛けることを察したか、のそりと猫が玄関へと歩いて来た。
 この猫は全くと言っていいほど手間がかからない。粗相も悪戯もなく、博士が作った自動給餌機を壊して中の餌を食べようとすることもしない、こうして出掛けるときには見送りもする賢い猫だ。飼い主がいれば甘えるが、いなくとも特にストレスを溜める様子もなく大人しく帰りを待っている。


「お留守番よろしくね」

「にゃぅ」


 人間の言葉が分かっているのかただの反射か、ヘーゼルの瞳を細めて返事をする猫を撫でて外へ出る。すると快斗からメールが届き、寺井の運転する車がもうすぐ着くとのこと。それに了解と返し、ふと携帯電話を見つめる。
 コナンが組織のボスのメールアドレスに辿り着いたことは哀には話してある。ひじりから博士に話していないから、きっと明日のキャンプのときにでもコナンは報告するだろう。
 ひじりの話に、哀は少し顔を強張らせたものの「そう」とひとつ頷いただけで冷静だった。

 コナンはそのメールアドレスからボスの正体にも手を伸ばそうとするに違いない。だが、警察関係者に協力を仰げば協力してくれた誰かが、そしてそれを頼んだ自分が、さらに周囲の人間が組織に消されるとはまだ思い至っていない。
 だがそれよりも以前に、ただのメールアドレスだけでは警察は動いてくれない。動いてくれるとするなら余程お人好しの人物となるが、大抵の人間は大犯罪者集団のボスに繋がるものだとは信じてくれるわけがない。もし信じてくれるのだとすれば、あのベルモットと対峙したとき─── “誘拐事件”として処理される前のタイミングだけ。

 ひじりは口を閉ざすことでそれに触れるなとコナンへ意を示したが無駄となった。だからひじりに代わり、哀が釘を刺すだろう。ひじりも組織に関わっていたとは言えいち幹部の“人形”でしかなく、だが哀はコードネームを持つ組織幹部として中枢に携わっていた人間だ、言葉の重みが違う。
 コナンがそれでも思い留まらない、とは思えない。彼はそこまで愚かではない。今はまだ、災厄しか詰まっていないパンドラの箱を開けるときではないのだから。


ひじりさん!」


 ふいに名前を呼ばれて顔を上げる。気づけば門前に車が横付けされており、後部座席の窓から快斗が顔を出していた。
 ひじりは目許をやわらげて荷物を手に車へと歩を進める。先に運転席の寺井に挨拶をして後部座席に乗り込み快斗とも挨拶を交わせば、ひじりが腰を落ち着けたのを確認して車は静かに走り出した。










 ニュースで流れた地図の示す場所は、とある山の深い場所にあった。
 そして奇しくもそこはコナン達がキャンプを予定している場所から然程遠くなく、しかし森の奥の方へ来なければ気づかれずに済む位置だ。さっさと探索を終わらせ“宝”を見つけて撤収できれば気にするほどのものでもない。

 阿笠邸を出発する頃から少しずつ宵闇が空を覆っていたが、その場所へと着いたときには既に辺りは暗くなっていた。目的地へは森を通ることになるから車で行くことはできず、帰りがいつになるか分からないため寺井を先に帰して後程迎えに来てもらうことにして、暗視ゴーグルをつけた2人は森の奥へと進む。コンパスで迷わないように方角と現在地を確認しながら歩いて行けば、ふいにドドドド、と水音が耳朶を打って顔を見合わせた。


「これは…」

「滝…にしては小さいような?」


 だが方角は合っているため水音がする方向へと歩いて行くと、ふいに拓けた場所に出た。


「あれか。ってうっわ、すっげー荒れてんじゃねぇか…」


 快斗が呟き、ひじりは無言のまま沼のほとりに建つ朽ちて荒れ果てた屋敷を見上げる。夜になっていて周囲は暗いが、三日月とは言え多少の月明かりがあるために大体の外観は判る。
 築数十年、否、三水吉右衛門が存命の頃に建てたのであれば100年以上も経つ3階建ての木造屋敷は見るからにぼろぼろで、使われなくなって随分と経っているようだ。窓ガラスはなく細長い木の板が格子のようにはめられているだけで、外壁も漆喰も殆どがはげてひび割れ、瓦も所々落ちている。
 そして屋敷の前に建つ、玄関を挟んで左右に2つずつ並んでいる古ぼけた4つの石灯籠。先程から聞こえてくる水音はと後ろを向けば、沼の奥に小さな滝が見えた。


「…ん?ひじりさん、ここに何か書いてます」


 振り返り、暗視ゴーグルを外す快斗に倣ってひじりも外す。灯籠の傘を外して火袋の穴が天を向くように地面に置き、ショルダーバッグから懐中電灯を2つ取り出し1つをひじりに渡してスイッチを入れた快斗が穴の内側に光を当てると、何やら文字が刻まれていることに気づく。どうやら持ってきた暗視ゴーグルの精度では見えにくかったようだ。
 ひじりも懐中電灯を点け、地面に膝をつく快斗の横に並んで穴を覗く。自然と近くなる距離に快斗がひじりの肩に手を伸ばしてよく見えるよう引き寄せ、思わず顔を上げると懐中電灯の光に照らされた快斗の頬は少し赤くなっていたのでいっそのことくっつくと密着した体がびくりと跳ねた。どうやらもう暫くひじりは快斗を振り回すことができそうだ。
 んんっ、と気を取り直すように小さく咳払いをして、改めて穴の内部を覗いた快斗がそこに刻まれている文字を読み上げる。



 仁王のねぐらは日輪と咫尺しせきの間
 長老あまた集へる甚だしき殷賑いんしんの地
 其処に仁王の石は在り
 仁王の忿怒ふんど、畏怖せざる者よ
 拳に溢るる其の石を手中に収め
 万古よりの理を識得しきとくすべし

 三水吉右衛門



「……成程」

「仁王の石、か。これは何としてでも見つけねーとな」


 口の端を吊り上げて快斗が笑い、膝を伸ばして荒れ果てた屋敷を見上げる。すっかりスイッチは入ったようだ。
 三水吉右衛門が遺した“宝”。「其処に仁王の石は在り」の“仁王の石”。仁王とは金剛力士のことであり、その石ならば金剛石─── 即ち、ダイヤモンド。ダイヤモンドが日本に伝わったのは幕末の頃で時期的にも合うから偽物ではないだろう。
 そしてそれが「拳に溢るる」ほどのものであるならば、ビッグジュエルと呼ばれるに相応しいものに間違いなく、つまりは怪盗キッドの獲物である。


「それにしてもあの暗号、ダイヤの在処を示してるんだろうけど」

「要約すると『ダイヤモンドがあるのは太陽に一番近く、老人達がたくさん集まるとても賑やかな場所』ですが…まだ情報が足りませんね」

「そして『仁王の怒りを恐れない者、ダイヤモンドを手に入れて古くからの謂われを理解しなさい』か…」


 これは一筋縄ではいかなさそうだ。
 三水吉右衛門は絡繰人形師だが、人形のサイズは問わず精巧なものを作ることができたという。また人形以外の絡繰にも通じていて、それを踏まえれば、この屋敷にも何らかの仕掛けがあったとしてもおかしくはない。
 そういえば他の石灯籠には何かないかとひじりが順番に覗いていくと、一番左端の石灯籠の火袋に何かあることに気づいた。
 手に取って見れば石でできた勾玉だった。普通は穴が空いているはずの場所に“炎”の文字が刻まれていて、横からひょいと覗き込んだ快斗が小さく首を傾げる。


「勾玉…炎?」

「一応持って行こうか」

「そうですね」


 さして荷物にもなるまいとひじりがポケットに仕舞い、他は目ぼしいものも特にないため屋敷に入ることにする。
 2人は懐中電灯を消して暗視ゴーグルをつけ直す。快斗が先に立って屋敷の玄関扉に手を当てれば、鍵もかかっていなかったようで扉は簡単に内側へと開かれた。
 中は暗く、照明のスイッチを軽く探してみるが見当たらない。燭台すらないのは撤去されたのか元から置いてなかったのか。窓が格子のようになっているから隙間から月明りが入り込んでいるが、これでは新月の晩は何も見えないだろう。

 屋敷内へ足を踏み入れると軽く埃が舞う。だが100年以上放置されていたにしては薄いことから、数年置きくらいには誰かが侵入していたのかもしれない。それこそ、どこかであの地図を知ったか三水吉右衛門を追って来たかのトレジャーハンターが。彼らの間でも三水吉右衛門の名前は有名なようだから。


ひじりさん、三水吉右衛門ってかなりのひねくれ者、でしたよね」


 無言で屋敷の床や壁を叩いていた快斗がおもむろに口を開き、三水吉右衛門についての情報を集めたひじりは肯定して頷いた。
 あの三水吉右衛門の名が刻まれた石灯籠があったのならば、やはりこの屋敷は彼が建てたことになる。かなりのひねくれ者なカラクリ吉右衛門が建てた屋敷、となれば仕掛けのひとつやふたつは当然だ。
 2人の視線の先には2階へ続く大きな階段がある。玄関を入ってすぐ目の前、まるで上ってくださいと言わんばかりに。


「そんじゃま、軽く試しで…」


 笑みすら浮かべて階段へ向かい、罠と判っていながら快斗は一段目に足を置いて体重をかけた。


 ガコ


 足を置いた1段目が下がる。それがスイッチだったようで段が同時に全て斜面となり、さらに階段の足元に人ひとりは簡単に呑み込めるほどの落とし穴が開く。
 だが快斗は慌てず1段目が下がった瞬間には階段の手すりを掴んでいて、軽い身のこなしで手すりを越えてひじりのもとへと戻って来た。


「罠だね」

「罠ですね」


 しかも落とし穴の中には錆びてはいるが真剣の槍が用意されており、さらに骸骨が数個刺さっているということは過去に訪れた誰かはまんまと引っ掛かってしまったようだ。
 おそらくこの先々も同じように命が危うい仕掛けがあるだろう。簡単に死んでしまうような鍛錬は受けていないが、慢心すればさっくり死ぬかもしれない屋敷に慎重にならざるを得ない。
 快斗が階段の半ばを踏んで形状を元に戻す。ひじりはここのどこかに眠るダイヤモンドに、あなたを手中に収めたのなら果たしてどんな怒りがもたらされるのやら、と目を細めた。






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