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 それは、突然のことだった。
 ジンから解放されたばかりのひじりと再びブルーパロットにて寺井と顔を合わせ、何かあったときのためにと電話番号を交換した数日後。

 平日であるためコナンは学校に行っており、阿笠邸にて博士は研究及び開発、ひじりが昼食の準備をしていたそのとき、ふいに着信音を鳴らした携帯電話の画面に浮かぶ、「寺井 黄之助」の名前に思わず目を瞬いた。
 もしや快斗に何かあったのではとすぐに通話ボタンを押して耳に当てると、予想外にも落ち着き払った声音で寺井が手早く用件を告げたのだ。


『奥様…快斗坊ちゃまの母君が、お会いしたいと』


 大変急ではありますが本日の午後にでも、と続けられた言葉で止めていた息をゆっくりと静かに吐き出す。構いませんと返した言葉は抑揚がなく淡々としていて、それではと詳細な時間を窺われて頷く。
 気づけば切れていた通話と、頭の中に残った用件と時間。鍋が噴きこぼれそうになる音にようやく固まっていた体を動かして火を止めたひじりは、行かなくちゃ、と誰に言うでもなく呟いた。





□ 甘やかし週間 8 □





 指定の時間にブルーパロットへ着き、「Close」の札がかけられた扉を軽く押す。扉は抵抗することなくすんなりと開き、カランと涼やかな音を響かせて店内へいざなう。
 開店前ということで照明は絞られているが、陽が落ちるまで時間があるため店内は明るい。カウンターに立つ寺井と目が合って無言で頭を下げると同じく下げ返された。


「突然のことだというのにわざわざご足労いただき、ありがとうございます」

「いいえ。…むしろ、機会をつくっていただいて感謝しています」


 そう言うひじりが意外だったようで、寺井は驚いたように目を瞠る。だがひじりはそれ以上何も言わずカウンターへ近づいて辺りを見渡すが寺井と自分以外の誰の気配もなく、視線を向けると「道が混んでいるようで」と不在の理由を告げられた。頷き、紅茶を勧められありがたくいただくことにしてスツールに腰を下ろす。

 それから暫くの間─── 紅茶が淹れられるまで2人は言葉を交わすこともなく、ひじりは目の前に出されたお茶に礼を言って口に含む。文句なしにおいしかった。
 そしてまた沈黙が続き、どれだけ経っただろうか。ふいにカランと軽やかな音と共に扉が開かれ、ショルダーバッグを肩にかけたひとりの女が店内に足を踏み入れた。


「ごめんなさい、呼び出したのは私なのに遅れてしまって」


 扉を閉めて眉尻を下げる女を視界に入れると同時、ひじりは音もなくスツールから下りると「いえ、構いません」と首を横に振った。
 女は短く切り揃えられた髪を揺らしてひじりに微笑みかける。カウンターへ近づいて来る彼女に合わせてひじりも数歩彼女に向かって足を進めた。


「初めまして、私は黒羽 千影。快斗の母親よ」

「初めまして、工藤 ひじりです。…快斗君とはお付き合いをさせていただいています」

「ええ、知っているわ。寺井に聞いたもの」


 にこりと笑って千影が足を止め、ひじりもつられて足を止める。握手をするにはやや遠い距離をあけて2人は視線を合わせた。
 ─── その、瞬間。


 パシンッ


 唐突に左頬に走る衝撃。視界が強制的に右へと傾けられ、左頬を張られたと気づいたのは、じわじわと滲むように痛みが湧いてからだった。痛い、と素直に思って頬の痛みを自覚した。
 張られた頬を手で押さえて顔を上げる。ひじりを貫くように強く怜悧な目をした千影と目が合い、しかし彼女はふいに目許をやわらげて吐息のようなため息をついた。


「あの子の母親として、とんでもないことに巻き込んでくれたあなたにはどうしても一発くれてやらなくちゃ腹の虫がおさまらなかったの」

「受け入れます。言い訳はしません。……寺井さん」

「私はあなたのことを詳しくは存じません。ただ…彼ら・・に坊ちゃまがついて行き、ひじりさんを取り戻しに行ったこと。これを奥様に黙っていることはできませんでした」


 かつて盗一の付き人であり、孫に対するように快斗のことを近くで見守る老人の表情にひじりは何も言えなくなった。
 寺井は悪くない、悪いはずがない。心から快斗を想い案じる彼が、あの晩のことを千影に報告を入れたことは当然であり、どうして話したのかと責められていいはずがないのだ。
 巻き込んだのはひじり。突き放して、それでも来るというのならと道を残したのは自分自身なのだから、責められるべきは己ただひとりだ。

 寺井がひじりに関して知っていることは多くない。快斗も赤井達について行って以降のことは話していないと言っていたし、嘘をつく理由もないから本当に知らないはずだ。
 けれどひじりが関わった“5年前の事件”、そして再度攫われ、現場で出会った正体不明の男女は本物の銃を所持しており、無事に帰って来た快斗はしかし、煌く青い目にもうひとつ覚悟を決めていて。ひとつ残らず不穏でしかない報告を寺井から聞いた千影が顔を青くしたのは容易に想像できた。
 正面から顔を合わせれば、何らかの感情をぶつけられると確信すらしていた。だから来た。自分に向けられるそれを甘んじて受けるために。


「けれど私は、今更快斗を手放すことはできません」


 恋に落ちてしまったから、オレに恋をしてほしいと乞われて応えたから、どんな仕打ちをされても、ナイフのような言葉で心を刺されても決して違えたりはしないと、あの日病院で目覚めて快斗を見たときに決めた。それだけは何者であろうとも阻ませはしない。

 ひじりは赤く腫れた頬から手を離し、強い光を宿した目で千影を見据える。
 真正面からひじりと向かい合う千影はそれを静かに見返し、ああ、とぽつり内心嘆きのような声を上げた。


(どうして、出会ってしまったのかしら)


 ひじりの黒曜の目は雄弁だ。が、その表情は動かない。この手で頬を平手打ちしたときでさえ、痛みを感じているだろうにその表情の変化を千影は読み取れず、まさしく人形と言っていいほどのそれに背筋が寒くなる。

 “5年前の事件”について、千影は報道された以上のことを知らない。けれど寺井に聞いた話と合わせて考えれば、彼女を取り巻くものが不穏にゆったりと鎌首をもたげ、深入りを拒むかのように警鐘を響かせる。それが分かるのに、自らひじりに巻き込まれに深みへ足を踏み入れたであろう息子が抱く想いと覚悟を否定することはできなかった。

 快斗は賢く聡い子だと千影は過大評価なく断言する。まだまだ未熟な子供でお調子者、けれど一度固めた決意は絶対に曲げることがなく、覚悟が揺らぐことはない。
 そしてひじりが他人を己に巻き込むことを是としない性格であることも、少ない寺井からの話とひじりとの今までの短い会話からでも判った。千影の平手を避けることなく甘んじて受け、抗議の声ひとつ上げず、快斗を巻き込んだ弁明も全くしないのは、やはりそういうことだろう。

 その2人が、互いに手を取り合った。決意と覚悟を共にして隣に並び立つと決めたのだと否応なく察してしまった。それに気づいていないふりを通すこともできたが、今回ひとりの母親としてひじりに手を上げると決めた千影にはできるはずがない。
 ─── 受け入れましょう。この子がそうしたように。きっとそのために、彼女を呼び出したのだから。


「……そうでないと困るわ」


 ふ、と囁きのような声で千影が呟く。肩の力を抜き、苦笑混じりに笑う彼女に一歩近づかれてひじりは目を瞬いた。


「あの子の想いも覚悟も、否定するつもりはなかったの。けど、あなたの方もそうとは分からなかったから、試したくもあってね。お陰で知れてよかったわ」


 これで臆する程度なら二度とあの子と関われないようにしなきゃいけないところだった、ところころ笑いながらそら恐ろしいことを言われ、嘘ではないな、とひじりは内心呟く。千影の目はどこまでも本気だ。


「ねぇ、快斗のこと、好き?」

「はい。愛しています、心から」


 唐突の問いに惑うことなく真剣な目で即答すれば、千影は嬉しそうに笑みを広げてありがとうと礼を言う。こちらこそとひじりも返し、張り詰めていた空気が綻んだことで無意識に頬に手を当てれば、千影が寺井に顔を向け、寺井は心得たとばかりにひとつ頷いた。


「まずはお座りください、お茶をお淹れしましょう。ひじりさんにはこちらを」

「ありがとうございます」


 促されて千影と並んでスツールに腰掛け、渡された冷タオルを熱を持った頬に当てる。じんわりとしみる冷たい心地好さにほぅと小さくため息をついた。
 暫く冷やし、寺井に用意された湿布を貼ろうとすれば横から貸してと手を伸ばされて素直に渡したひじりは大人しく千影に身を任せる。爪が切り揃えられ、勢いと衝撃は確かなものであったのに皮膚には全く傷をつけることはなかった指先が湿布の上から頬をひと撫でして離れた。


ひじりちゃん」


 ふいに名前を呼ばれて振り向く。いいことを思いついたとばかりに笑う千影の「いいこと」は「悪戯」とイコールにしてもよさそうなほど無邪気にして蠱惑的だった。脳裏にウインクする有希子が思い浮かぶ。ああこの人も同じ系統の人か、それはそれは快斗はさぞ振り回されてそうだな…と思ったことは口に出す前に呑み込む。


「まずは連絡先を交換しましょ。私はまた日本を離れなきゃいけないから、その間何かあれば逐一報告してほしいの」

「分かりました。私も快斗について相談したいことができるかもしれませんし、そのときはお願いします」

「もちろん」


 手を差し出されたので素直に応じて携帯電話を渡す。互いの電話番号とメールアドレスを交換し、アドレス帳に名前があることを確認していると「そして、私とひじりちゃんが会ったことは内緒よ」と続けられて顔を上げる。千影はにっこりと笑った。


「だってその方が、バラしたとき面白そうじゃない?あの子、ひじりちゃんのこと何ひとつ私に話さなかったんだもの、これくらいの意趣返しは当然よね」

「私も直接お会いするまで知りませんでしたから、とても驚きました」


 寺井にもしみじみと呟かれ、思わず目を瞬く。
 まだ“人形”であったときはまだしも、正式に付き合いを決めた以降は口を噤むこともないだろうにと首を傾げるが、快斗には快斗の考えがあるのだろうとそれ以上考えることをやめる。快斗本人に対してもわざわざそこをつつくつもりはないため、そうですか、と返した言葉は何の色もなく淡々としていた。

 しかし、意趣返しか。正直なところ、ひじりが千影に付き合う必要はない。快斗をこちらの事情に巻き込んだ負い目はあるが、だからと言って千影の言うこと全てを無条件に聞くつもりはなかった。
 確かに千影との関係を黙っていて後からネタばらし、とすれば驚かせることくらいはできるだろうが、それだけだ。へたをするとひじりに対して不信感を持たれてしまうことを考えれば頷く道理はないように思う。ひじりに何ひとつ益がないどころか、損する可能性とてあった。


「物事はギブアンドテイク。ひじりちゃんが快斗のことを好きなのはよーっく分かったわ」


 だからこれよ、と微笑んで千影がバッグから取り出したのは、手帳サイズの小さなアルバム。ページをめくって抜き取られた写真の1枚がカウンターを滑ってひじりの前に置かれる。
 そこに映っていたのは、コナンと同じくらいの年齢の子供─── 幼い快斗だった。
 無邪気に満面の笑みを浮かべ、カメラに向かってダブルピースをする快斗。新一ならたとえこれくらいの年齢でも絶対しないだろうポーズと笑顔は言葉にできないくらい愛らしいが、それだけではなく。何より、彼が着ているもの。


「うさ耳パーカー」

「これを、私が快斗にバラすまで気づかれなかったらひじりちゃんにあげる。コピーなんかじゃない、正真正銘の生写真。あとはそうね、報告をくれるごとに昔の快斗の笑えたり泣けたり可愛かったりするエピソードとか」

「のりましょう」

「ちょろすぎない?」


 食い気味に身を乗り出してしっかりと頷くひじりに千影がいっそ感心したように呟く。無表情なくせに大真面目な顔をしていると分かるのに、ひじりの心の中は「可愛い快斗」を求めて煩悩まみれである。事実、先程までの後ろ向きな気持ちなど吹っ飛んでいて、これから手に入るだろう報酬快斗に心は弾むばかりだ。

 何はともあれ、取引は成立した。2人は無言で固い握手を交わし、かくしてこれから数ヶ月間秘密裡の交流を持つことが決定され、同時に数ヶ月後快斗を驚愕させることも確定となった。
 ひじりはすぐさまアドレス帳に登録されている千影の名前を架空のものに変えた。素早い手の平返しとやると決めたときの徹底ぶりは見事である。


「早速ですが千影さん、ひとつご相談が」

「あら、何かしら」


 二つ折りの携帯電話をたたみ、ポケットに仕舞ってからのひじりの言葉に千影が首を傾げる。快斗のことでしょうねと疑いなく千影は予想して、その通りにひじりは快斗についてですがと前置いて続きを口にした。


「快斗と、愛するひとと共にあるために私ができることは何でしょう」


 ひじりから快斗を突き放すことはもうできない。逃がすことだってできそうにない。だから自分ができることの全てをしたかったし、渡すことのできるものなら何だって渡したかった。
 真っ直ぐな目と率直な問いに、人差し指を立てて「いいこと教えてあげる」と千影は笑う。


「プロポーズ、する気はない?」


 目を見開いて無表情を崩すほど驚くと最近は逆も珍しくないしと続けられ、さらに選ぶのはあなたよと重い選択を眼前に突きつけられたひじりは、けれどさして間を置くこともなく無言で頷いた。
 一緒に死んでほしいと言ったのはひじり。同じくらい生きてほしいと言ったのも、ひじり。そして死ぬまで共に生きると約束したのは、快斗だ。死ぬまで─── ひじりのこれからを、共にと。

 ああ、ならばあとは、選ぶだけだろう。


「詳しい話をお願いします」


 そうしてひじりと千影の秘密の交友が始まったことを、当の快斗は想像すらしていなかった。



 甘やかし週間編 end.



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