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 話を終え、夕食の準備の時間が迫っていることに気づいたひじりと千影は、快斗を荷物持ちに近所のスーパーへ食材を買いに行き、帰宅するなり2人で並んでキッチンへ立った。
 何か手伝うかと声をかけた快斗を「今は男子禁制よ」と千影が追い出し、2人でキッチンに並ぶのは初めてだったが特に問題なく夕食を作り終えた。

 ひじりは過去にやり取りしたメールで千影に快斗好みの味付けは聞いていたが、レシピの文字として見るより実際目の前で調理過程を見た方が分かりやすく、真剣な眼差しでメモを取るひじりに千影が嬉しそうに笑い、「本当に快斗のこと好きでいてくれるのね」「私は毎日快斗に恋をしていますから」なんて会話をしてダイニングの外でドアに耳をつけて聞き耳を立てていた快斗の顔を真っ赤にして悶えさせたりしたことは余談だ。

 3人でダイニングの食卓を囲んで和やかな夕食を終え、順番に風呂を済ませれば、夜も良い感じに更けて大人の時間─── 即ち、


「飲むわよ!」


 酒盛りである。





□ 甘やかし週間 7 □





 リビングに移ってそれぞれグラスを持つ。千影のグラスにはワイン、ひじりがテーブルに並ぶ酒を示され好きなものを選んでと言われて手に取ったのは甘い酎ハイ、そして未成年の快斗は当然のようにオレンジジュースだ。
 あと3年待ちなさいねと言われて注がれたジュースとひじりのグラスを見て少し悔しそうな顔をした快斗に「あと3年、待っててくださいね」と乞われてひじりは頷いた。

 千影の音頭に合わせてグラスを軽く寄せ、口をつける。ひじりが持つグラスに入った、缶に微炭酸と書かれていたそれは口の中で僅かに発泡しただけで抵抗なくするりと喉を滑り落ちていった。プライベートで殆ど酒を口にせず飲み慣れていないひじりでも飲みやすい、ジュースのような酒だ。ちらりと他の酎ハイに目をやればどれも同じようなものばかりで、スーパーで酒を選んだのは千影であり、つまりさりげなく気を遣われたことに今更ながら気づく。

 内心千影に感謝し何らかの形で返そうと決め、つまみと酒をちまちま口にしながら千影の海外での話を興味深く聞き、快斗が自分の日常を話してひじりが時に補足を入れたり、ひじりも水を向けられれば口を開いた。

 千影がふと快斗のマジックを見たがって始まったマジックショーに見入り、紳士な口調ときれいな礼で締めた快斗に千影と共に称賛の拍手を送る。そして盗一の若かりし頃の話を惚気混じりに千影から聞いて─── と、気づけば日付が変わっていた。

 ことりと空のグラスがテーブルと軽く触れ合う音がする。隣を見れば快斗がテーブルに突っ伏して瞼を閉じていて、そういえば先程から頬杖をついてうとうととしていたし、どうやら寝落ちしてしまったようだ。力の抜けた手にはグラスがあり、倒して中の氷が転がる事態は免れている。


「あら、寝ちゃったのね」


 千影が声を潜め、ひじりはひとつ頷くと快斗の肩を揺らした。


「快斗、寝るなら部屋に行こう」

「んん……ひじりさんは…?」

「私も行くから、ほら立てる?」


 先に立ち上がり快斗の手を引く。余程眠いのだろう、むにゃむにゃ言いながらぼんやりと糸のように薄く目を開けるが、意識は殆ど夢の中のようだ。
 何とか快斗を立ち上がらせるが、足に力が入らないようでふらりとひじりの方に倒れ込む。しかしそれを難なく支え、千影にひと声かけて快斗を引きずるようにリビングを出て快斗の部屋へと向かった。

 快斗ひとり程度ならばたとえ眠っていても運べる自信はあるが、快斗の部屋は1階であり、2階のリビングから向かう途中に階段があるので完全に寝落ちしかけている快斗に声をかけて何とか階段を下りさせた。快斗大好き、愛してる、可愛い、素敵、階段を下りきれる格好良いあなたが見てみたい、ひゅー格好良い流石かわいい、と最後の方はだいぶ適当だったが。お酒が入っているから仕方ないね、と誰に言うでもなく内心言い訳した。
 そうこうして辿り着いた快斗の部屋のドアを開け、ひじりは快斗を支えたまま真っ直ぐベッドに向かう。


ひじりさんー」

「可愛い私の快斗、ここに寝れるかなー?そうそう布団もかけてー、うんうんうまく寝れましたねー?よーしよしよしかわいいかわいい」

「えへへへへ」

「なにこのこてんしかな???」


 お酒が入ってるから仕方ないね!ともう一度心のどこかで誰かに言い訳してベッドの布団に入っておやすみ3秒した快斗を撫でる。何だか年下扱い通り越して子供扱いしたような気がするがきっと気のせいだろう、うん。


「……おやすみ、快斗」 


 規則正しい寝息を立ててあどけない寝顔をさらす快斗の頬を指で撫で、ひじりは音もなく立ち上がると部屋の電気を消してドアを閉めた。

 リビングに戻ると静かにグラスを傾ける千影がいて、無表情を崩さないまま向かいに腰を落とす。千影はひじりに視線を向けることなくグラスを回し、ひじりのグラスからカランと溶けた氷がぶつかる音がして、それを合図に口火を切った。


「快斗に睡眠薬を盛ってまで私と話したいこととは、何でしょう」


 カラン、ともう一度氷が鳴る。


「…まずはお礼を言わせてちょうだい。口裏を合わせてくれてありがとう、ひじりちゃん」

「嘘はついてません」

「けど全部ほんとうじゃなかった」


 千影の微笑みを、やはりひじりは無表情のまま静かに見返す。
 嘘ではない。千影は寺井を通じてひじりの存在を知り、彼女の方からコンタクトを取った。そしてひじりに取引を持ち掛け、快斗に千影と交流を持っていることを隠し続けられれば秘蔵の写真をあげる、と言われて乗った。千影に背中を押されてプロポーズを決めた。
 けれどそれは事実の表面上の一部、言うなれば上澄みだ。そしてひじりは、千影が敢えて口にしなかった事実を代わりに言うこともなく合わせた。─── 嘘ではないが、全部ほんとうでもない。


「あのとき張られた左頬が痛んだ気がして、口を開けなかっただけです」


 そのときのことを思い出しながら抑揚なく言えば、何がおかしいのか千影はくすくすと笑みをこぼす。酔ってますか、と問えばそうねと返事があり、ふと真剣な目に射抜かれて反射的に姿勢を正す。


「これをあなたに」


 短く言い、おもむろに千影がテーブルに置いた黒いUSBメモリを一瞥して正面に視線を戻す。あなたに、と言われたのだから当然ひじりに関するものだ。中身が何なのかは今のところ判別がつかないが、さて。


ひじりちゃんのお父さん─── 工藤優哉さんが昔、盗一に預けたものよ」


 予想だにしていなかった名前に息を呑む。一瞬呼吸すら忘れてUSBメモリを凝視するが、物言わぬそれはただ沈黙するのみで。
 どんな経緯でこれを預かることになったのかは分からないけど、と千影は言葉を続ける。

 これをひじりの父、優哉が盗一に預けたのは、今から約10年前。手渡しではなく郵送で、当時の消印が押された封筒に預かっていてほしい旨を簡潔に書いた手紙と共に入れられて保管されていた。
 千影が見つけたのはつい最近のことで、盗一が生きていたときに使用していた海外にあるいくつかの拠点のひとつに、まるで隠すかのように置かれていた頑丈な小型金庫の中にあったと。金庫の鍵は生前から盗一が肌身離さず持ち歩いており、死後もそれを何となく捨てられず千影が持ったままにしていたため開けることができたらしい。


「悪いとは思ったけど見てみたの。中にあったのは音声データだったわ。『愛しい我が娘へ』ってタイトルだったから、聞いてはいないけれど」


 右から左へ流れていきそうになる千影の言葉を何とか掴まえる。USBメモリの中身を見られたことは構わない、音声データを聞いていないという言葉は嘘ではないだろう。
 父が娘に残したのもの。盗一に預けた意図は分からないが、これはいずれひじりの手に渡るはずだったもので、つまりはひじりのものだ。
 ひじりは無意識にUSBメモリに手を伸ばし、その指先が震えていることに気づいた。恐れているのかと自問しても答えは出ない。ただ、これを手にすれば確実に何かが変わる─── そんな根拠のない確信があった。


「……」


 USBメモリを手に取る。何の変哲もないただの記録媒体だ。けれど中身は果たして。良い予感はまったくしないけれど。
 ツキン、とふいに頭が痛んだ。沁み出るように痛みを訴えるこめかみを指で押さえると同時、脳裏に男の声が響く。


 ─── いいか、ひじり


 それは、誰の声だったか。ふと意識が遠のく感覚に陥る。懐かしい、落ち着いた低い声が耳朶を撫でた。


 ─── 大事なのは取捨選択だ。必要な情報こと、知るべき情報こと、知らないでいい情報こと、きちんと見極めて己の手で選べるようにしろ。


 そうでなければ、簡単に壊れてしまうからな。そう、教えてくれたのは─── ああそうだ、父だった。

 優しいひとだった。同時に厳しいひとでもあった。けれど愛してくれていることを疑えないほどに愛してくれたひとだった。だからその言葉も正真正銘ひじりを思っての忠告であり、こうして揺らぐ娘の背中を叩いてくれる。

 工藤優哉は、組織と何らかの関係がある可能性が高い。“5年前の事件”は仕組まれたものだったのかもしれない。
 ベルモットと対峙したことで得られたそれから逸らしていた目がもう一度据えられる。

 「愛しい我が娘へ」なんてタイトルをつけて、家族愛を伝えるためのもののようにも思うけれどその実、愛しく思っている娘へ、知りたいのならば教えてやると覚悟を迫っているのだ。目を背けたければそれでいい、と許してくれてもいる。

 気づけば頭の痛みは既になく、ひじりはUSBメモリをもう一度見下ろすとキャップを外しコネクタを露出させた。これをパソコンに差してフォルダを開き、音声データを再生すれば父の声が教えてくれるだろう。ひじりの知らない“真実”が、ここにある。

 だが───



 バキッ



 何とも呆気ない音がひじりの手の中で鳴った。コネクタ部分をてこの原理で破壊され完全に分断されたそれは、小さな欠片をテーブルに落とす。
 もはやただのゴミとなったそれを躊躇いなくゴミ箱へ入れる。ひじりの動向を黙って見守っていた千影はUSBメモリが壊されたときに軽く目を瞠ったものの、何も言わずにゴミ箱を一瞥した。


「私の望みは快斗の傍で生きて、死ぬことだけ。…これは、必要ありません」

「……そう」


 夫が長年預かっていたものを無碍にしたひじりに、しかし千影は小さく笑うだけ。あなたならそうすると思ったわ、と納得したように微笑まれた。


(そう、これでいい。そうでしょう、お父さん)


 実の父親である工藤優哉には何かがある。ひじりはもうそれを知っている。

 そして当然─── 赤井も知っているはずだ。

 知らないはずがない。むしろひじりより詳しく彼のことを知っていて、それでもひじりに何も言わずに口を噤んでいる。鈍くはないのだ、ベルモットと対峙したときにはそのことに気づいた。
 否、本当はもっと早く気づけるはずだった。ジンを追っていたとは言え、工藤優哉と異母弟の大和を保護したタイミングはただのFBIいち局員ではありえないことで。
 ジンの捕縛ではなく危険を承知でひじりを檻から解放することを優先したのは、2人が繋がっていたからだと。
 そうでなければ、組織の確信に至れるような重要な情報を持っているわけでもない、“餌”としか使いようのなかった女など捨ておいているはずだ。

 目を逸らして考えることをしなかったから見えてなかったことを、けれどひじりは後悔も反省もしない。知らなければならなかったことならば赤井が無理やりにでも聞かせただろう。それは容易にできたはずで、しかし彼は口を噤み続けた。察しつつあるひじりに今も尚無言を貫いているのは、選択をひじりに委ねていて、そうやって彼なりに護ろうとしてくれているからだ。ひじりの中にある父親─── 工藤優哉を壊すか否かは、いつだって決めるのはひじり自身なのだから。
 だがひじりの望みはただひとつ。快斗の傍に、それだけだ。そのためには“真実これ”など、必要ない。


「知らないことで護られるものがあるのなら、私はいつまでも目を逸らしましょう」

「そうね、ええそうだわ、その通りよ。けれどひじりちゃん、覚えていて」


 千影が小さく笑い、忠告とも言える言葉を紡ぐ。


「隠されていることに気づけたのなら、恐れる必要はないわ。けれど本当に怖いのは、隠していることすら気づかせないことよ」


 たとえば、あちこちに繋がりを持ちながらもただの医者だったと思わせ続けることができた優哉のように。
 たとえば、自身が怪盗キッドであったと死後息子に自ら明かすまで微塵も感じ取らせなかった盗一のように。
 そんなことは可愛い方で、気づいたときには逃げられないよう押さえつけられて首を掴まれてることもあるのだから気をつけなさい、と続けた千影に、ひじりはゆっくりと頷いた。






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