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 そのメールに気づいたのは、着替えを取りに行ったときだった。
 ちかちかとランプを光らせて着信を知らせる二つ折りの携帯電話。画面を見てメールが届いていることを知り、メールボックスを開けば1件のメール。
 差出人を見て中身を確認する。あ、と思わず小さな声がもれた。


「……今夜は快斗の好きにさせよう」


 ぽつりと小さく呟き、ひじりは携帯電話を閉じるとその場に置いて風呂場へと向かった。





□ 甘やかし週間 4 □





 控えめなアラーム音に意識が浮上する。朝か、とぼんやりしながら目を開ければ快斗の寝顔が目の前にあって、あどけない顔で静かに寝息を立てる愛しいひとに目尻が下がる自分を自覚した。
 抱きしめるように背中に回された、脱力しきった腕を優しく下ろして上体を起こしたひじりは一度大きく伸びをし、あくびをこぼすと少し大きめのシャツに包まれた身をよじって鈍く痛む腰を無意識にさする。

 枕元に置いていた自分の携帯電話から鳴るアラームを切り、今の音では微塵も覚醒の片鱗を見せなかった快斗の頭を撫でて髪を梳く。これが赤井との訓練中であれば大問題だが、今は快斗にとって自分の家の自室─── 一番落ち着ける場所で、さらにひじりが起きてもやはり目を覚ますことがないということは、ひじりを含めてそれだけ安心しきっているということ。快斗が心から休める場所が自分も含まれているという事実を実感してくすぐったさを覚えた。

 まだそれほど冷える季節ではないとはいえ朝はさすがに肌寒さを感じるほどであり、加えてひじりに自分のシャツを着せたせいで上半身が裸のままの快斗が布団をめくられたことでふるりと震え、体を縮こませる。ベッドから下りて快斗に布団をきちんとかけ直したひじりはふと、昨晩情事の最中に「お願い」されたことを思い出した。


「ね、ひじりさん。明日は朝メシいらないからさ、オレが起きるまで一緒にいて?」


 そんな、可愛い「お願い」だ。聞かない道理はなく、さらに快斗から与えられる熱と深い快感に頭がバカになっていたために壊れたおもちゃのように何度も頷いた自分も思い出して頭を抱える。
 快斗と体を重ねた回数は多くないが、元来の頭の良さと観察眼、貪欲に学ぶ姿勢に、そして何よりキッド業もこなす現役高校生との体力の差もあって最近のひじりは応えるだけで精一杯だ。
 加えてひじりの反応をよくよく見ているせいでいポイントは外すことはなく、またくしたいという思いから素直にド直球の質問という名の言葉責めをしてくるためにその口をふさごうとキスをすれば、なぜだか余計に燃え上がらせるのだと気づいてからは別の方法を考えているが、今のところ妙案は浮かばないまま。
 初めてのときの可愛い快斗はどこにもいない。その分だけ格好良さに磨きがかかっていてときめきがやばいと本気で考えるくらいにはひじりの頭には花が咲いている。これぞまさしく恋の花。やかましいわ、とどこぞの関西探偵に突っ込まれた気がしたがたぶん気のせいだろう。


「…かーいーと」

「んむ…ひじりさん…」


 頬をつつきながら名前を呼べばむにゃむにゃと呼び返されて微かに頬が緩む。とても可愛い。
 アラームが毎日鳴るように設定したまま解除しないうちになだれこんだために先程鳴ってしまったが、いつもは朝食の準備をするためまだ早朝で、二度寝するには十分な時間だ。
 何より快斗の「お願い」を無碍にできるわけもなく、布団をめくって素早く快斗の隣にもぐりこむのとほぼ同時、にゅっと腕が伸びてきて背に回されて軽く引き寄せられる。甘えるようにぐりぐりと頭を胸元に埋められ、首筋を髪が掠めてくすぐったい。
 もしかして起きたのかと様子を窺うも満足げなため息をついたあとに繰り返される規則正しい寝息は間違えようがなく、薄い布越しにふわふわとやわらかな双丘に頬をうずめる快斗の寝顔はこの上なく幸せそうだった。大変素直な男子高校生である。


(かわいい…!)


 だが頭に花が咲いたまま枯れる様子のないひじりは、羞恥も嫌悪も感じるどころか恋人のあまりの可愛らしさに胸の内から愛しさを溢れさせるだけで無言で受け入れ、普段年上であるひじりに釣り合うよう、快斗が格好良くスマートな自分を見せようとしていることを知っているために無意識下でこうして甘えられるのは言葉にできないほどで、ひじりの胸をきゅんとさせる。なにこのこめちゃくちゃかわいい。ついに語彙力まで溶けてきた。

 快斗の頭をゆるく引き寄せて頬を寄せる。やわらかな癖毛に唇を落とし、穏やかなぬくもりに落ちていく瞼にひじりは抵抗しなかった。
 このまま快斗が目を覚ましたら、飛びのくようにして起き上がり顔を真っ赤にするのは間違いない。とうに一線を越えているのにまだまだ慣れないところがとても可愛いからもう暫くは慣れないままでいてほしいというのは、ひっそりとしたひじりの望みである。
 やがて快斗の寝息に合わせてひじりも穏やかな寝息を立て、2人は誰に邪魔されることもなく互いに寄り添い合った。





■   ■   ■






 メールを打ち終えた携帯電話をポケットに仕舞い、カバンから航空チケットを取り出した女は電光掲示板へ視線を滑らせて自分が乗る便を確認する。
 目的地は日本、成田行き。海外への渡航経験は少なくないため、特に迷う素振りもなく女は小さく鼻歌をこぼしながらキャリーケースを引いてチェックインを済ませるためにカウンターへと向かった。
 するとふいにメールの着信を知らせて携帯電話が震える。もう一度ポケットから携帯電話を取り出し、送信者の名前を見て微かな驚きに目を瞬かせた。


 (あら?今はあの子を甘やかすから大体ずっと一緒にいるって言ってたのに…早いわね)


 日本時間だと確か夜のはずだ。夕食には少し遅い時間で、だからこそ今は2人きりで返信は遅くなるだろうと思ったのだが。
 それなのにこんなにすぐ返信があったことが意外で、ふむと顎に指を当てて我が子を頭に思い浮かべる。
 週末の金曜日、恋人と2人きり、男子高校生。それと、メールの送信者たる彼女の性格。そういえば1週間程前に彼女に入れ知恵したことを思い出した。まあそのときは既に別の誰かに同じことを吹き込まれていたようで「やはりそれをすれば男の子は喜びますか」とライブチャット越しに無表情なくせにやたら真剣な顔で返されたが。
 つまり彼女がそれを実行したのだとしたら、健全な男子高校生たるもの据え膳はおいしくいただくだろう。彼女にその意図がなかったのだとしても自らまな板に上ったのだから結局は食べられているはずだ。


「あの子はしつっこいわよ~、何てったって私とあの人の子供なんだから」


 思わず声に出して呟き、くすくすと笑みをこぼす。メールに書かれている文はたった一行、「分かりました、道中気をつけてください」とだけだが、それは彼女の性格と、短くない付き合いからによるものであるため気にすることはない。むしろひと言こちらの身の安全を気遣う言葉を入れているあたり、女が乗る飛行機にトラブルが起きないことを真剣に祈ってくれているのだろう。それが分かる程度には彼女のことを理解しているつもりだ。


(さーて、快斗はどんな顔をするかしら)


 きっとものすごく驚いて、ものすごく慌てた顔をして、そしてもう一度ものすごく驚いてくれるだろう。
 うふふ、と音にせず美しい微笑みを浮かべ、女は鼻歌交じりに歩き出した。






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