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 部外者であるため校内に入ることはできず、校門の前まで来てもらったひじりと会って弁当、携帯電話、そして腕時計を受け取った快斗は、わざわざ届けてもらった弁当を無駄にできるわけがなく、けれどせっかくの逢瀬を名残惜しく終え、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く教室へと戻った。

 校内に入ってから教室へはダッシュだ。道中教員にたしなめられたが生返事をして、教室へ入り窓へと駆け寄る。快斗の教室はどこ、と訊かれたから校門から見える位置にある自分の教室を教えていたのだが、期待通りひじりはまだ校門前に立っていて、快斗が窓から顔を出したことに気づくとひらりと手を振った。
 快斗も大きく手を振り返せば、無表情のままなのにどこか満足そうな顔をして背を向けられる。徐々に遠ざかっていく小さな背中を見えなくなるまで見送り、早く帰りてーなとぼそりと呟いた。

 そんな快斗を見て、恋人っていいもんだな、とクラスメイト全員が心を一致させたことなど、全く知る由もなく。





□ 甘やかし週間 3 □





 放課となり挨拶もそこそこに快斗は教室を飛び出して家路を急ぐ。本日は花の金曜日、明日明後日は土曜日曜で休みが続き、つまり思う存分ひじりとふたりきりを楽しむことができる。今までもそうしてただろうがオメー、とどこかからツッコミが入った気がしたが無視だ。眼鏡の探偵ボウズなど知らん知らん。

 何をしようか、レンタルショップで映画を借りて2人で観るのもいいし、ゲームをするのもいい。マジックの練習にだって付き合ってくれるだろう。街へ出てみるのもいいかもしれない。ひじりさんがまだ買い物してなかったらデートついでにスーパーに行きたい、とつらつら考えながら自分の家に辿り着き玄関ドアを開けて「ただいま!」と声を上げた快斗は、


「お帰りなさい快斗。ご飯にする?お風呂にする?それともわ・た・し?」


 玄関で待ち構えていた、お玉を片手に小首を傾げて問いかけてきた白いエプロン姿のひじりに膝から崩れ落ちた。
 だが初日と朝の電話のことがあって耐性はついている。すぐに我に返って耳まで真っ赤に染まった顔を上げ、裸エプロンではないことを残念に思った一抹の自分を脳内で殴り飛ばしてあくまで健全を装いとんでもないことをしてくれたひじりを涙目で睨む。だがひじりは睨まれても何のその、玄関に膝をつく快斗にやわらかく目を細めて頬を緩め、こたえた様子が全くない。


ひじりさんホンットずっるい…」

「嬉しくなかった?」

「めちゃくちゃ嬉しい」


 振り回されてるなぁと快斗はこういうとき強く感じる。けれどひじりは快斗が疑似新婚生活を求めているらしいと判断して、心から喜ばせようと行動しているにすぎない。うん、分かりにくいがちょっと悪戯げな顔をしていてもきっとそうだ。決してただからかってやろうなどとは思っていない、はずだ。たぶん。
 だが快斗の言葉にそれならよかったと両手を合わせて常の無表情をやわらげて喜ぶから、やはり快斗のためにしてくれたのだろう。それにしてもノリノリな気はするが。
 いったいどこで覚えてきたのかと思わず半眼でひじりを見上げ、立ち上がって膝を払う。まー間違いなく園子ちゃんの入れ知恵だろうなぁと、頭の中でにししと笑う少女を思い浮かべた。


「それじゃあ改めて。お帰りなさい、快斗」

「ただいま、ひじりさん」


 どちらからともなくキスを交わし、靴を脱ぎ玄関を上がって2人でリビングへと向かおうとしたところでひじりが「そうだ」と声を上げる。


「本当はご飯はまだできてないんだ。お風呂はいつでも入れるようにしてあるけど」


 確かに、今の時刻はまだ18時にもなっておらず、夕食には早すぎる。下拵えは済んでいるが炊飯器にセットした米が炊き上がるまでは時間があるから、もう少しの間ゆっくりしておいてと促された快斗は、それじゃお言葉に甘えてと短く返しひょいと危なげなくひじりを抱え上げた。


「……?」

「夕飯はあとでオレが作ります。風呂もあとで入りましょう。だから、先にひじりさんをいただきますね?」


 突然抱き上げられて目を瞬かせるひじりににっこりと笑ってみせる。横ではなく縦に抱き上げてがっしりと腰を掴んで支え、熱を帯びた青い目をギラギラ光らせて絶対ぇ逃がさねぇと言わんばかりに見つめれば、鈍くはないひじりも察したようで視線を逸らした。


「まだ明るいのに?」

ひじりさんが言ったんだ。言質は取ってあるし、今更『やっぱりナシで』とかつれないこと言いませんよね?」


 にっこにっこと笑顔のままの快斗に詰められ、ひじりが喉奥でぐぅと唸る。
 ノリノリで快斗に訊いたのはひじりで、快斗を甘やかすためだけに今はここにいる彼女が首を横に振れるわけがないことは分かりきっている。本気で嫌がるようならもちろん快斗も無理を通すつもりはなかったが、抱き上げられたまま快斗の部屋に運ばれているというのにろくに抵抗もしない様子から結局はOKをもぎ取れることを確信する。
 思った通り、観念したように小さく息を吐いたひじりが快斗の耳元に唇を寄せ、「どうぞ召し上がれ」と囁いた。










 情事を終えたときには既に外は真っ暗になっていて、ひじりも完全に落ちてしまったし、盛り上がりすぎたと快斗はひとりキッチンが設えられたダイニングで反省する。いやでも白エプ最高、と周囲に誰もいないことをいいことに拳を握って噛み締めた。

 振り回された意趣返しできっちりひじりを裸エプロンにしてやったらさすがに「変態」と軽く罵られたが、掠れた声と熱に潤んだ目で睨まれても興奮しかしなかった。ひじりさんがエロいのが悪い。それに、ひじりさんだって自分からオレのシャツ1枚だけでベッドにいたことがあるのだからひとのこと言えないでしょうと言い返せば、「あれはだって、……快斗に抱いてほしかったから…」と目を伏せて頬を赤く染める恋人を見て理性が飛ばない方がおかしい。あれ、オレ悪くないな?と反省を撤回したくなった。


「んー…ま、こんなもんか」


 ひじりが下拵えを済ませてくれていた夕食の味見をして妥協する。ひじりと一緒に料理をした回数は少なくないため手際は悪くないと自負しているし実際出来上がった料理はまずくもないが、やはり彼女には及ばない。ひじりは「おいしいよ、ありがとう」と言ってくれるだろうが、できることならおいしい料理を食べてほしいと思うのは当然のことだろう。

 コンロの火を止め、そろそろひじりを起こそうか思案する。一緒にお風呂、はひじりが起きる気配がなかったため叶わず自分だけが先に入り、ひじりの身は最低限だが快斗の手で清めた。
 メシより先に風呂をすすめた方がいいかと結論を出そうとしたところで自室のドアの開閉音が聞こえた。トン、トン、トン、とゆっくり階段を上る音も聞いてひじりが目を覚まし快斗がいるダイニングへ向かって来ていることを知る。


「……色々、ありがとう快斗」

「いいえ、当然です」


 ダイニングへ入っての第一声に快斗はにっこりと笑みを返す。夕食の準備も後始末もひじりが身に纏うシャツを着せたのも快斗で、それらをひじりが自分でできなくしたのは快斗なのだから言葉通り当然のことだった。ちなみにひじりに着せたシャツは快斗のものなのですらりとした生足が見えてとっても眼福である。下?洗濯機行きにしてナイナイした。
 イスを勧めて座らせたひじりの気だるげな様子は少し目に毒で思わず頬を染める。腹の奥が熱を持って欲がぞろりと舌なめずりをするが、さすがに今からもう一度とはいくらひじりが相手でも言えない。
 部屋着に着替えた快斗の髪がしっとりと湿っているのを見てもうお風呂に入ったの、と少し残念そうな声をされたのはきっと気のせいだろう。


「そうだ、ひじりさん」


 平静を装い、決して欲を高めかけていることなど見抜かれないよう気をつけながら笑顔でひじりを振り返る。
 ベッドに入る前に没収したお玉も何も持ってはいないが、にんまりとした笑みを刷き、小首を傾げて問いを口にした。


「ご飯にします?お風呂にします?それともオ・レ?」


 ひじりが微かに目を瞠り、無意識かはくりと開いた口はけれど何も言葉を紡ぐことなく閉ざされ、代わりにゆったりとした吐息がこぼされる。
 夕食は先程出来上がった。風呂もあたたまっている。もう一回、と望まれるのならば応えよう。夜は長く、家にはふたりきり、そして時間は有限なのだから湧き上がる欲に従ったところで誰にも咎められまい。
 快斗を甘やかすために来たひじりから無表情のままのくせに器用にも物言いたげな目をされたが笑顔でかわすと、少しの沈黙のあと、ひじりはほんの僅か、快斗が気づく程度に小さな笑みを浮かべた。


「それじゃあ、お風呂を先にもらおうかな。遅くなるけど、そのあと一緒にご飯食べよう」


 言うが早いかひじりが立ち上がる。その際シャツの隙間からちらりと胸元に浮かぶいくつもの紅い斑点が見えた。
 “オレ”が選ばれなかったことが残念ではないと言えば嘘になるが、想定内であったしこれ以上ひじりに負担をかけるのもどうかと思うので分かりましたと素直に頷くに留める。胸の内を見せないよう、待ってますねと笑って続けようとしたとき、逸らすことなくじっと見つめてくるひじりと目が合った。


「……快斗の望みのままに。それを叶えるために私はここにいて、あなたに応えたいと思ってる」


 今度は快斗が目を瞠る番で、絶句する快斗を置いて背を向けたひじりはダイニングを出て行った。


「はぁ~~~~~」


 着替えを取りに行って風呂場のドアが閉まる音が聞こえるまで固まっていた快斗は、深々とため息をつきながらその場にしゃがみこんで頭を掻きむしった。髪の合間から覗く耳は赤い。
 ああもう本当にあの人は、


「オレを甘やかすことしかしねーのかよ」


 ぼそりと呟かれた言葉は低く唸るようなものになった。喉の奥でぐるぐると腹をすかせた獣の唸りがする。
 「待て」をされたらいくらだって待つのに、「ダメ」と言われればすぐに伸ばした手を下ろすのに、「いいよ」と両腕を広げられるのだからあとは快斗次第なのだ。
 ひじりは快斗を甘やかすけれど、したくないことはしない人なのだと知っている。だから本当に快斗が望むのであればいくらでも聞いてくれることは間違いなかった。

 甘やかしてくれと頼んだのは快斗の方だ。けれどここまでとは思っていなかった。こんな際限なくどろどろに溶かしてしまいかねないほどだなんてまったく想像もしていなくて、完全に読み違えてしまっていたのだと今更気づいても後悔することはなく、なら許してくれるだけ甘えてしまおうと快斗は開き直ったように笑い、ひじりが戻って来るのをその場から動かずに待った。






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