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 昨夜のブルー・パロットでのマジックショーは当然と言うべきか、大盛況で終わった。
 店内はいつも通り常連ばかりだったが最近は快斗のショーが口コミで広がっているようで、初めて見る顔─── 新規の客も増えており、寺井も嬉しそうに口元を緩めていた。店主として自分の店が繁盛するのはもちろんだが、「快斗坊ちゃまがとても素晴らしい腕をお持ちなのだと皆様に分かっていただけている」から、が大部分を占めているようだ。
 ひじりも誰もが息を呑んで大きくはないステージを食い入るように見つめる客の顔を見て、今日もすごかった、次はいつやるんだい?と予定を訊かれるたびに自分のことではないのに誇らしくなる。そうでしょうそうでしょう、快斗は本当に凄くて格好良くて素敵なのだと声高に自慢したくてたまらない。


「黒羽快斗以上のマジシャンを、私は知りません」


 アシスタントも務めるひじりの氷の無表情を溶かすには黒羽快斗の話題を出せばいいと常連の間で広がっているほど、そう返すときばかりは微かながら表情がやわらかくなる。
 けれどエンターテイナーとしての涼やかな笑みを浮かべるステージ上と違って、私と一緒にいるプライべートではとても可愛らしい顔もするのだとは、決して教えることはないが。





□ 甘やかし週間 2 □





 瞼の裏に光が射し込む。その眩しさにひとつ唸り、快斗は誰に起こされることもなく自然と目を覚ました。途端朝の光が目を灼いて、きつく瞼を閉じて寝返りを打ち、寝慣れた自分のベッドだというのに探るように横へ手を這わせて冷たいシーツの感触を確かめ何もないことを知る。ぼんやりと目を開けるとやはりそこには誰もおらず、そして部屋の中にも誰の気配もなかった。
 ひじりさんが来るより先に起きちまったか、と寝ぼけた頭で思う。ついでに時間を確かめるべく枕元に置いていた電波式の目覚まし時計に手を伸ばした。
 その画面に表示された、いつもの登校時間をとうに過ぎた数字を見たときの衝撃は言葉にできない。ぎょっとしたのは一瞬、すぐに音を立てて血の気が引いた。


「はっ!? ちっ、遅刻じゃねーか!!!」


 一気に目を覚まして布団を跳ね上げる。何で!?ひじりさんは!?と思いながらもとにかく時計をベッドに投げ捨てて急ぎ学生服に着替える。寝巻からいつもの学ランを着込み、寝癖は直す暇がないので放置して、幸いか昨日のうちに準備していた鞄を手に僅かな距離ももどかしいと走って部屋を出た。
 三段飛ばしで階段を駆け上がり、2階のリビングを通って洗面所に駆け込んで最低限の身なりを整える。跳ね返るように洗面所を飛び出して走るばたばたと騒がしい足音を聞いたか、あとを追って静かな足音と共に階段を降りたひじりが顔を出した。


ひじりさんおはようございますすみません遅刻しそうなので朝ご飯いりません!」

「あ、快…」

「行ってきます!」


 踵を踏み潰すのも気にせず靴に足を突っ込んで玄関を飛び出る。行ってらっしゃい…と小さな声に見送られ、いつもより高い位置にある太陽を睨むように見上げて通学路をひた走った。










 結果を言えば、快斗は間に合った。ギリギリすぎてほぼ担任と同時に教室へ入ったが、出欠を取る前だったからということで見逃してくれたことはありがたい。
 全速力で走って来たために荒くなった息を深呼吸で整える。朝のHRを終え、1時限目が始まるまでの僅かな時間に青子から「遅刻だなんて珍しいね」と声をかけられて「まーな」と返す。言外にひじりさんに起こしてもらわなかったの?と問われたがオレが寝坊しちまったんだよと続けたことでそれ以上の追及を許さなかった。

 慌てていたためにまじまじとは見れなかったが、快斗の後を追って玄関に顔を出したひじりはどこかぼんやりとしていた。名前を呼ぼうとした声も少し掠れていて覇気がなく、あれはどう見ても間違いなく寝起きだった。

 昨日はマジックショー後、遠慮する寺井を快斗が押し通すように閉店作業の手伝いを申し出、ひじりと共に終えてから家に帰ったために当然日付は変わっていて、2人共就寝が遅くなったのは確かだ。それでなくともひじりは快斗より1時間以上早く起きて朝の準備をしているため睡眠時間も短かったはず。ついリビングのソファでうとうととしてしまったであろうひじりを責めることなどできない。そもそも、ひじりに起こしてもらう前提で携帯電話のアラームを切っていた自分が悪いのだ。本当に浮かれきっていて目も当てられず頭を抱える。


「って、弁当!忘れた!」


 よくよく思い出せば、ひじりはその手に何か持っていなかっただろうか。快斗の立てる音で目を覚ました彼女が時間に気づき、朝食は無理だが弁当だけでも、と呼び止めようとしてくれたことに今更気づく。


ひじりさんに電話して持ってきてもらったら?」

「そうだな……あ、ケータイ持って来んの忘れた…腕時計も…」

「何やってるのよバ快斗!」


 青子の罵倒に反論の言葉もない。しかも弁当を受け取り損ねた上に、携帯電話のみならず腕時計すら家に忘れていることに気づいて机に突っ伏すしかなかった。
 これでは連絡の取りようがない。昼休みに家へダッシュで帰ったとしても往復している間に昼休みが終わってしまうし、ひじりが弁当を届けに来てくれる可能性を考えると、行き違いになったりしたら目も当てられない。詰んだ─── いや、待て。


「青子!オメーケータイ持ってんだろ!?ひじりさんの電番とか…!」

「前に青子がひじりさんと電話番号交換しようとして独占欲からさりげなく邪魔してくれたの、どこの誰だっけー?」

「オレですその節は大変申し訳ございませんでした…」


 詰みである。こんなことならあのとき邪魔しなけりゃよかったと思うが後悔先に立たずとはよく言ったもので。ガキかオレ、間違いなくガキだわ。
 机に額を打ちつけてどんよりと暗雲を背負う快斗に青子が深いため息をつく。「これに懲りたら少しは反省してよね」と苦言を呈して制服のポケットから携帯電話を取り出した。


「ていうか、本当変なトコ抜けてるわよね快斗」

「?」

「自分の家の電話番号くらい、覚えてるでしょ」

「あ…!」


 確かに、携帯電話が普及しきってからは固定電話を使うことも少なくなってその存在を忘れがちだが、黒羽邸にももちろんある。普段はライブチャットで母親の千影と近況を報告し合うために使うことは稀で完全に忘れていた。
 だが問題は、ひじりが電話に出てくれるか否かだ。滞在初日、家の説明をするときに固定電話については何も言っていなかったから出てくれるかは分からないが、それでも一縷の望みをかけて青子が差し出す携帯電話を受け取る。


「もうすぐ授業始まるし、早く済ませちゃってよ」

「わーってるよ。サンキュ」


 素早く自宅の電話番号を打ち込んで通話ボタンを押す。耳元に寄せればコール音が耳朶を打った。
 ちらりと教室の壁にかかる時計を見ながら、この時間ならまだひじりは家にいるはず、いてくれと願いながらコール音を聞き続けるが、5コール目を数えたときにはさすがに出てはくれないかと諦めかける。
 だが粘って8コール目に差し掛かったとき、ガチャリと音がして誰かが出た。


『…はい、黒羽です』


 ひじりの声だ。抑揚の少ない、だが穏やかな声で紡がれた己の苗字に、思わず真顔になった快斗の口が滑る。


「イイ…」

『……快斗?』

ひじりさん、今のもう一回」

『はい、黒羽です。何かご用でしょうか、主人はただいま外出しておりますが』

そんなオプションつけてくれるとか聞いてないひじりさんだいすき!」

『快斗が喜んでくれたのなら嬉しい』


 喜色の滲んだ声音がくすぐったい。ひじりさん超好き、愛してる。校舎中を駆け回り大声で叫びたくなったのをぎゅんぎゅんと唸る心臓を押さえるように胸元を握りしめてぐっと耐えた。オレの(未来の)嫁最高。


『今朝はごめんね、私も寝ちゃってて』

「いえ、それはオレが寝坊したのが悪いんで!ひじりさんは悪くありませんから!…えっと、それよりもちょっとお願いが」

『お弁当と、携帯電話、あと腕時計?』

「話が早くて本当助かります…」


 ひじりの方も眠気はとっくになくなっているようで、淡々と紡がれる言葉はスムーズに発される。そして快斗が寝坊してしまったために忘れてきたものを把握しているということは、快斗の部屋を覗いたのだろう。つまり、ベッドに放り投げた目覚まし時計や脱ぎ散らかした寝巻も当然ばっちり見られているわけで。けれどそのあたりをスルーしてくれていることはありがたかった。恋人の前ではいつだって格好つけたいお年頃なのである。


『お昼に届けるよ、昼休みは何時から?』

「ありがとうございます。昼休みは…」


 昼休み開始時刻を告げ、『分かった、それじゃあまたあとでね』と返事をもらって通話が切れる。快斗も電話を切って携帯電話を返すために青子の方を振り返れば、彼女は呆れたように小さな笑みを浮かべ、けれど甘ったるい砂糖漬けのコーヒーを無理やり飲まされたかのように頬を引き攣らせた、何とも形容しがたい珍妙な顔で口を開く。


「クラスメイト全員の前での公開告白、ごちそうさまでした」

「……あ」


 電話の途中、うっかりつるっと恋人の名と共に愛を叫んだ自分に気づいたが撤回するはずもなく、快斗は「お粗末さまでした」としかつめらしい顔で返す。

 そういえば家の電話ではなくひじりさんの携帯電話に直接かけた方が早かったなと快斗が思ったのは1時限目を終えたときで、だがおいしい思いをしたのだからあれでよかったのだと、にやけそうになるのを何とか真顔に保ち、早く昼が来ないかと教室にかかる時計を見上げた。






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