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 ※黒羽邸の構造は「怪盗キッド シークレットアーカイブス」を参考にしています。



 もうすぐ夏も終わる季節。日々少しずつ冷えていく空気を感じるものの、吐いた息が白くなるほどではなく、早朝でも薄手のカーディガンを羽織るだけで十分なほどだ。
 客人用のスリッパを履いた足を淀みなく進め、訪問を重ねたお陰で慣れた廊下を歩いて1階にあるひとつの部屋に辿り着く。そのままドアノブに手をやり、僅かに動きを止めてドアノブから手を離しノックをするが、中からの返事はなかった。
 部屋の主が寝ていることを知ってちらりと腕時計を見る。今から起こして、朝食を取り登校の準備をしたとしても少しくらいの余裕はあるし、まぁ最悪快斗ならば全速力で走れば間に合うだろう。

 ひと声かけてドアを開ける。マジック関連の書籍がびっしりと納まった本棚、整頓された机、そして壁に埋め込まれたひとりのマジシャンの写真が飾られたパネル。マジック道具があちこちにあるもののきれいに片づけられた部屋の中、こんもりと布団を膨らませたベッドに視線を向けてそちらへ足を向けた。
 部屋の主は起きない。足音は隠していないから聞こえているはずだが、慣れた気配だからかすっかり気を抜いて熟睡しているようだ。何の障害もなくベッドに辿り着き、あどけない少年の寝顔を覗きこむと声をかけた。


「快斗、朝だよ。朝ご飯一緒に食べよう」

「ん…ひじりさん…?どこ……朝ご飯…食べる…」

「ここにいるよ。ほら、起きて」


 誰かを探すように人ひとり分あいたベッドの隙間に手を這わせながら少年がもごもごと呟く。ひじりが少年の頬に指を滑らせると薄っすらと目を開け、ぼんやりとした青が彼女を映して嬉しそうに細められへにゃりと笑った。
 ひじりが快斗以外は分からないくらい僅かに頬を緩めて見下ろす。それにまたへにゃへにゃと緩みきった笑みを広げて眠気にくもった目をした快斗が、自分を起こしに来た人物がひじりであるとようやく認識すると、瞬間大きく目を見開いて飛び起きた。





□ 甘やかし週間 1 □





 あの飛行機の一件から少し経った月曜日、ひじりは快斗との約束を守るために黒羽邸に滞在を始め、早くも今日で4日目だ。
 1週間も泊まり込むということで、どうやら快斗から聞いたらしいコナンは猛烈な勢いで反対していたが、現保護者でもある博士が快活に許可を出し、哀も楽しんでらっしゃいと快く送り出してくれたためひじりは何の問題もなく快斗の傍にいることになった。

 だが、快斗は学生であるため当然平日は学校に行かなければならない。その間ひじりはずっと黒羽邸にいるわけではなく、快斗が学校に行っている間に阿笠邸に顔を出していた。
 元々の気性か猫の特性か、飼い主が不在であろうと特に気にした様子もない名無しの猫の様子を見て、博士の昼食を用意すると雑事を済ませて今度は夕食の準備だ。
 博士と哀はひじりが不在の間自分達で何とかすると言っていたが、哀も料理に覚えがあるとは言え博士が手伝うとしても小さくなった彼女に全てを任せるのは酷で、そもそも家事は私の仕事でもあるのだからと押し切り、彼らの食事の用意を軽く済ませて仕上げは哀に任せている。
 そのあとは黒羽邸に戻って持ち込んだノートパソコンで依頼された仕事をしたり黒羽邸の家事をしたり、快斗の下校が近くなる時間には夕飯の準備を始め、これだけはお願いしますと頼まれた通り家に帰って来た快斗をお帰りなさいと出迎える。ちなみに、登校するときには行ってらっしゃいと触れるだけのキスをねだられて叶えている。
 エプロンをつけていれば尚のこと良し、と言われたので快斗を甘やかすために来たひじりは文句ひとつなく白いエプロンを身に着けて出迎える毎日だ。

 まるで新婚夫婦のようだな、とひじりが思ったように快斗もそれを狙っていたようでいたく満足げで、初日はあまりの嬉しさと照れと興奮とその他諸々の感動により膝から崩れ落ちていた。ひじりもお願いされたからという建前を利用して結構ノリノリだった上に好意を隠しもしなかったのでそれはそれは破壊力がすごかっただろう。感情が振り切れた彼との夜がどうなったかは、ご想像にお任せする。


ひじりさんおはよう~」

「おはよう、快斗」


 まだ僅かに眠気を残しているようだが、しっかり身支度を整えた快斗がダイニングに顔を出して挨拶を交わす。ふらりと体を寄せて肩にすりつけられる頭を優しく撫で、癖毛に寝癖がついているのを見て撫でつけるように梳いた。
 満足した快斗が顔を上げ、誰が見ても緩みきった表情にほんの小さく笑うと触れるだけのキスを送り、耳まで赤く染めた彼の頬に指を滑らせる。お返しにひとつキスをもらえば、この3日間で習慣づいた朝の挨拶は終わりだ。
 直視できなくなったらしい快斗が視線を滑らせて食卓に並んだ朝食を見て目を輝かせる。それじゃあ食べよう、とエプロンを外して椅子にかければ、しみじみと噛みしめるようにそれを見ていた快斗も向かいの席についた。


「「いただきます」」


 声と両手を揃えて朝食に手を伸ばす。他愛もない会話をしながら夕食のリクエストを聞き、今夜ブルーパロットで行うマジックショーに必要なものの再確認を軽く行なって簡単にショーの流れを見直せば、もう快斗が家を出なければならない時間になった。

 食事を終え、ひじりは2人分の食器をシンクに運んで快斗は登校の準備を。とは言っても、自室から鞄を取ってくるくらいだが。わざわざ2階に戻って来てひじりに声をかけた快斗がぱたぱたと階段を下りて玄関に向かう。その背中を追うようにひじりも弁当袋を手に取ってダイニングを出た。


「はい快斗、お弁当」

「ありがとうございます。今日も昼が楽しみだ」


 弁当を渡し、大事そうに両手で受け取って鞄に仕舞った快斗が靴を履き、あとは家を出るだけとなったところで振り返る。
 心得た様子で瞼を伏せたひじりに触れるだけのキスをして、目を開けば顔を赤くした快斗が視線を逸らしたものの「行ってらっしゃい、快斗」とひじりが声をかければ「いっ、行ってきます!」とぶんぶん首を縦に振って頷き家を飛び出して行った。

 パタンと玄関扉が閉まるまで快斗を見送り、朝日の差し込む玄関でひじりは上機嫌に目許を和らげる。
 4日目にしてようやく「行ってらっしゃい」を最後まで聞いてもらえた。昨日まではキスのあと、ひじりが言い終わる前に被せるようにして行ってきます!と叫びながら飛び出して行かれたために、上機嫌になるのも道理というものだ。愛する人をきちんと見送れないというのはさびしいものなのだから。

 触れることに関しては最近躊躇がなくなってきたというのに、いまだキスをするには心の準備がいるらしい快斗が可愛い、などと思っていることがバレると拗ねられるので黙っている。だが拗ねた快斗も可愛いと思うのだから、我ながら重症である。
 しみじみと息をひとつ吐き、ひじりもまた自分のやるべきことをするために踵を返した。





■   ■   ■






「おっはよ~快斗!……うん、今日は腑抜けてないわね」

「おはよ、青子。てか腑抜けって何だよ」


 教室に入って席に着くなりの青子の台詞に快斗は眉を寄せるが、当の青子は気にした様子もなく言葉の通りよと返してびしりと指を差してきた。


「昨日までぼーっとして、心ここにあらずって感じだったじゃない。青子の挨拶にも気づかなかったし!」

「ぐっ…言い返せねぇ」


 青子のばっさりとした言葉に苦虫を噛み潰したように顔を歪める。確かに、言われてみれば昨日までの自分は腑抜けていた。ぼーっとしていた自覚もある。クラスメイトどころか青子の挨拶だってされた記憶すら曖昧で、特に2日前の朝─── ひじりと初めて「行ってらっしゃい」のキスをした日など、耳元で大声で名前を呼ばれて初めて青子の存在に気づいたくらいだ。これはひどい。改めて振り返ると腑抜けすぎていて返す言葉がなかった。


「まったくもう。ひじりさんが来てるからって浮かれすぎなんだから」


 腰に手を当ててため息をつかれ、内心で仕方ねーだろと反論する。
 だって、ひじりがいるのだ。自分の家にいて、帰れば出迎えてくれるし、学校に行くときには見送ってくれる、眠るときには同じベッドでおやすみと言い合い、朝は優しく起こしてくれて。朝食も夕食も一緒で、さらに昼には弁当を用意してくれる。
 今まではデートの延長で泊まってもらったこともあるが、朝から晩まで、そしてその翌日もずっと傍にいてくれることなどなかったのだから、それが1週間も続くとなれば浮かれるのも仕方がない。そのために青子の言う通り腑抜けてしまうことも。

 ひじりが黒羽邸に滞在することは青子にも言っていなかったが、委員会の都合で帰りが遅くなった初日、快斗不在であるはずの家に電気が点いていることを訝った青子が幼馴染特権で訪ね、夕食の準備をしていたひじりが応対したためにあっさりとバレてしまった。
 快斗とひじりが恋人関係─── 口約束ではあるが婚約状態ということもあって青子がそれについて口を出すことはなかったが、まさか1週間も泊まりこませるなんてと快斗に呆れ果てていたのは記憶に新しい。


「いいだろ別に。1週間しかひじりさんうちにいねーんだから、少しくらい」


 ひじりが来た初日、夕飯の良い匂いを漂わせた家で白いエプロンを身に着けて出迎えられ「お帰りなさい」と頬を緩めて言われ膝から崩れ落ちたことを思い出す。
 何あれすごい、やばい、オレにしか分からない笑顔だけどあれは確実に笑ってる、ひじりさんから好き好きオーラ見える、エプロン超似合ってる、新婚さんみてぇ、幸せすぎる、叶えてくれたひじりさんいっぱいしゅき…と内心は大荒れ模様だった。このあとキスもしたものだから色々振り切れた。夜?ご想像にお任せしておこう。


「少しぃ?あれがぁ?」


 腕を組んで目を眇める青子から無言で顔を逸らす。
 だがさっき青子が言った通り、今日は大丈夫なはずだ。4日目となればひじりが家にいるのも甘やかしてくれるのも多少慣れるものだし、今朝もきちんと行ってきますと言えて行ってらっしゃいを最後まで聞けたのだから。

 快斗が「目一杯甘やかして」と言った通り、ひじりはこれでもかと甘やかしてくれる。夕飯はリクエストを聞いてくれるし、昼には弁当を用意してくれて、見送りも出迎えも欠かされたことがない。顔を寄せればキスをくれるし、頭をすりつければ撫でてくれる。膝枕をしてほしいと頼めば頷いて膝を貸してくれて、優しく髪を梳かれるのはとても気持ちがいい。眠るときは一緒のベッドで、朝は先にベッドを抜け出ているのが少しさびしいが、やわらかな声で優しく起こされるのも代えがたい至福だ。
 快斗が学校に行っている間に用事や仕事は済ませているようで、帰宅以降は快斗と一緒にいる間全ての時間を使ってくれているのが分かる。快斗のお願いにだって躊躇いなく頷いてくれて、一昨日かかってきた赤井からの呼び出しだってひじりが即答して断ったのも目の前で見ていた。甘やかされている、そしてこれ以上なく愛されていると疑いようもなく実感する日々だ。


(けど、これもあと3日かぁ)


 1週間、と初めに期限を区切ったのだからいずれ終わるものだと最初から分かっていたが、思っていたよりもずっと甘くて優しくて、幸福に満ちていて、永遠に続けばいいのにと快斗に思わせる。ただただ愛し愛され、何も考えなくていい夢のような日々。
 けれどそれがずっと続いてはならないことも、快斗は分かっている。目的を終えるまで怪盗キッドは続けなければならない。宝石を狙う組織とはいずれ片をつけなければならない。
 夢のような日々はあと3日、もしくは新しいビッグジュエルの情報が入ってくるまで。それが終わればまた以前の日常だ。分かっているとも、夢は終わらせなければならないことなど。だから束の間の夢にひたるくらい、許してほしい。


「はぁー……ひじりさんに会いてぇ」


 思わずため息と本音がもれ、教室の掛け時計を半眼で見つめる。まだ1時限目どころか朝のHRすら終わっていないのに呟かれた言葉に青子は呆れ、「授業さぼったりしたらひじりさんに愛想尽かされるわよ」と忠告をして自分の席へと戻って行った。
 わーってらぁと青子の背中を見ながら言葉を返す。滅多なことでは怒らないが叱られるのは間違いなく、さすがに授業をさぼったりはしない。それにちゃんと授業を受けて学校を終えたら褒めてくれるのに、せっかくの機会を無駄にするなどとんでもない。


ひじりさんに会いたい。触れたい。優しく触れてほしいし、キスだってもっとしたい)


 そんな欲求もこの1週間で少しは晴れるかと思ったが4日目になっても全くそんなことはなく、むしろもっともっとと欲は積もり深くなるばかりだ。
 ひじりを前にすれば早まる鼓動も頬に集まる熱もまだまだ持て余すことが多く、同時に胸の内には獣欲が湧く。甘い唇を深く貪りやわらかな体を開いて自身の熱を注ぎ込んで、どろどろに溶けた彼女の全てを食らいたい。髪の毛ひと筋ですらオレのもので、誰に渡せるものではなく。
 きっと彼女はそんな自分を受け入れてくれるだろう。だから抗うなと責める衝動が自分のものであるはずなのにあまりにも凶暴で、耳元で吼え立てるこれを支配欲と言うのだと、快斗は知っている。
 けれど今は、独占欲というベールに覆い隠して、甘やかされる1週間で宥めておこう。今はまだ、それでいい。


 キーンコーン カーンコーン…


 響く予鈴を聞きながら窓の外、自分の家がある方角へと目を向ける。
 今日は木曜日で明日が金曜日。明日学校を終えれば週末となり休みだ。休みであるなら朝食も遅れていいし、何なら昼と一緒にしてもいいから遅くまで一緒に寝よう。やっぱり起きたとき腕の中にいないってのはさびしい。そう内心で呟き、教室に入ってきた担任を視界の端に入れた。






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