215
「こわかった」
ひじりを掻き抱く快斗がぽつりと呟く。
震えた声でそう言われるのは二度目で、快斗の腕の中、
ひじりは僅かに眉を下げた。
ごめんと小さく謝るも返事はなく、おもむろに抱きしめる腕が離れたがすぐに快斗の頭が胸元にうずめられる。
背中と腰に回った腕が小さく小刻みに震えていることに気づいて、もう一度ごめんと謝罪を落とした。
□ 銀翼の奇術師 24 □
狭い救急車の中、何も言わず胸元に顔をうずめたまま動かない快斗の頭をゆっくりと撫でていた
ひじりは、ふと快斗が顔を上げたことで手を止め、泣いてこそいなかったものの、その青い目に涙の膜が張ってあるのを見て瞳を揺らした。
「泣かないで」
「…泣いてない。それに泣いたとしても、それは
ひじりさんのせいです」
「……」
返す言葉がなく黙りこむ
ひじりに快斗は一度きつく目を瞑り、分かってると小さく言った。
「
ひじりさんは優しすぎるから」
「優しくない。現に、こうして快斗を傷つけて泣かせてしまった」
「……優しいですよ。腹が立つくらいに」
腕は回したまま体を少しだけ離し、
ひじりの左手を強く握り締めた快斗は眇めた視線を膝に落とす。
ひじりがあのときキッドに応えなかった理由を、快斗はちゃんと分かっていた。あのまま蘭が操縦しておくより
ひじりが代わった方が生存確率が上がることも分かっていて、それでも
ひじりを失う可能性を万が一でも考えたくなくて、だからキッドに応えてほしかった。
「オレは
ひじりさんが好きだ。愛してる。だから何よりも第一にあなたが生きることを優先させたい」
「……」
「あなたと誰かの命を天秤にかけたなら、迷わずあなたを選ぶ。たとえその“誰か”が、……誰であろうとも」
コナンでも、蘭でも、園子でも、哀でも、子供達でも、博士でも、小五郎達でも。自分自身でさえも。
だから約束したのだ。共に生きて、共に死のうと。少しでも長く傍に。
互いの左手の薬指にはめた指輪に、呪いとも言うべき誓いを立てた。
「……」
再び俯いて凭れるように胸元へ額を押しつける快斗を無言で見下ろしながら、
ひじりは細く息をつく。
快斗がどう思っているのか、
ひじりにだって分かっている。
ひじりも同じだ。誰かと快斗なら、迷わず快斗を選ぶ。実際に一度─── それは心を決めるものにしかならなかったが、確かに
ひじりは快斗を選んだ。
けれど思ったのだ。選んだあと、迎えに来た
ひじりを見て嬉しそうに笑った蘭と園子に小さな罪悪感を覚えて、考えてしまった。
どちらかを選ばなければならない状況に陥ったとき、
ひじりは迷わず快斗を選ぶ。それは絶対的に変わらない。
だがそこまで深く愛してしまっている存在の隣に、大切な者を切り捨て続けた自分は、果たして立っていられるだろうか。
「私は、快斗の隣に胸を張って立っていたい。ただあなたの傍で幸せを感じていたい」
「……
ひじりさん?」
突然口を開いた
ひじりに訝ったのか、顔を上げた快斗がきょとんと目を瞬かせる。
ひじりは快斗の目の端に残った雫を指で拭い、両腕で快斗の頭を抱きしめた。
「私も快斗が好きだよ。愛してる。だからこそ、あなたの目に映るのは、私がまだ許せる私でありたい」
誇りある、とは言えない。
けれどまだ大切な幼馴染や友人達も失っていない自分ならば、たとえ過去に何があろうと、これから何が起ころうと快斗の傍にいたいと思える。
“人形”ではなくなった
ひじりには大切なものが多すぎて、その全てを切り捨ててしまえば、それはもはや“人間”ですらない。
快斗が
ひじりを“人間”へと目覚めさせてくれたのに、それを自らの手で失わせるような真似ができるはずがなかった。
「だから私はきっと、これからも私が許せる私であるためにあなたを傷つける」
何て身勝手でわがままで自己中心的なのだろう。
愛してしまったからこそ、愛した者を傷つけなければならないだなんて。
「ごめん」
囁くように謝罪をこぼすと快斗が身じろぎ、抱きしめる腕を解いた
ひじりを見上げた快斗はその青い目に嫌悪も侮蔑も何も浮かべてはおらず、ただ少々機嫌を損ねたようにそっぽ向いた。ずっと胸元に抱きしめていたせいか、その頬を赤くしてゆっくりと唇を開く。
「
ひじりさんは正直すぎます。そんなにはっきり言われたら…怒ることだって、できなくなる」
「…怒っていいよ?怒られて当然だと思ってるから」
「だから、怒りたくないんです」
だって怒られたがってるでしょ、と図星を突かれて黙る。
怒ってほしいのは本当。自分は間違っているのだと実感したくて、快斗を傷つけたことを思い知りたい。
「
ひじりさんは勝手だ。わがままで、自己中心的で、オレを振り回して、傷つけて」
「……うん」
「…だから、償いをしてほしい」
「もちろん」
「何でも聞いてくれる?」
「うん、何だって快斗が望むままに」
即答で頷いて顔を上げ、真剣な目で快斗を見上げれば─── 彼は一転してにんまりと深い笑みを浮かべていて思わず目を瞬いた。
青い目と唇がそれぞれ弧を描く。「今何でもって言いましたね?絶対ですよ?」と念を押して言質を取られ、先程までの不機嫌そうな顔はどこにいったのだろうと思いながらも頷くと、快斗は「よっしゃ!」と隠すことなくガッツポーズをした。
(………待って)
上機嫌に笑う快斗。まるで計画通りとでも言わんばかりに。
これはちょっとあれだ、もしかすると───
「謀られた…?」
「失礼な。駆け引きってやつですよ」
ひじりの左手を握ったままにこにこと笑う快斗に、先程までの傷ついた顔の余韻など一切ない。かもしれない。何となく言い切れないでいるのは、あの表情が嘘だったとは思えないからだ。
無表情を僅かに崩し戸惑う様子を察したのだろう、相変わらず敏い快斗は笑顔のまま
ひじりの顔を覗きこんだ。
「嘘じゃないですよ?表情も言葉も全部本当。でもそれをちょっと利用させてもらったんです」
「……」
「
ひじりさんはオレを傷つけたって思うに違いないって。今更なのに、そんなこと」
「死んでほしい」と言われたあの日から、傷つけられる覚悟だってとうに決めていて、全てを受け入れるから傍に置いてほしいと願った。だからキッドに応えなかったことに対して、確かに少し傷ついたのも本当だが、怒るほどではない。
でも簡単に許してしまうのも面白くない。どうせならこの機を使ってわがままを言ってみたい。そう思って、悲劇のヒロインよろしく深く悲しみながら、その陰で快斗の思う通りに
ひじりを誘導して望む言葉を引き出した。
「1週間、オレの家でオレの傍でオレだけを目一杯甘やかしてくださいね?」
「……負けた。完敗。ああもう…本当に、あなたって人は」
左手を取られたまま両手を上げて完全降伏の意を示し、頷いて快斗の望みに応えることを約束する。
無表情に僅か呆れの色が滲んでいたのは、
ひじりを騙すために全力でかかった快斗のその強い意志と、あっさり快斗の望むままに言葉を吐き出してしまった自分自身に対してのものだった。
「オレだって、傷つけられてばっかりじゃないんですよ」
そう朗らかに笑う快斗に、
ひじりは眩しいものを見るかのように目を細め、自分に振り回されているようでその実一枚も二枚も上手な年下の恋人に小さな笑みをこぼした。
それは苦笑するようでいて、確かに安堵を滲ませていたことを、当然快斗は知っている。
← top →