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 あなたは死なせない。


 誰もが皆、そう思っている。





□ 銀翼の奇術師 21 □





 園子の戸惑う声とコナンの鋭い制止の声を無視し、ひじりの手首を掴んで引きながらコックピットを出た新庄の顔からは既に笑みが消えている。
 無言で歩く新庄と同じように、ひじりもまた無言のまま歩いていた。


「…危ないからそこに掴まってて」


 さすがに片手では操作できず、一旦ひじりの手を離した新庄は座席をひじりに掴ませるとすぐに非常用のドアに向かい合った。


「ちょっと!ひじりお姉様を連れていったい何を…」


 新庄とひじりを追いかけコックピットから出て来た園子に、しかし新庄は答えることなく何かに掴まってろとだけ返した。訳が分からないと困惑する園子の体を、ひじりは新庄が非常ボタンを押すと同時に強く引き寄せる。


「きゃぁあああ────!!?」

「園子、大丈夫落ち着いて」


 片手で座席を掴み、もう片方の腕で烈風を浴びて悲鳴を上げる園子を抱き締めながら声をかけると、園子はひじりに強くしがみつきながらも薄っすらと片目を開けた。
 風はまだ強いが耐えられないほどではない。落ち着きを取り戻した園子の髪を軽く払ってやり、彼女が顔を上げて開かれた非常ドアの方を見るのと同じくひじりもまた振り返った。


「─── え!?」


 園子が大きく目を見開いて声を上げる。そこにいたのは、純白のマントをなびかせシルクハットが飛ばないよう押さえた怪盗キッド、その人だった。
 ひじりがついと目を細める。新庄の変装を解いたキッドと目が合い、彼はやわらかく笑った。


「さぁ、眠り姫。こちらへ」


 左手はドア近くのグリップを掴み、右手はシルクハットを。
 ひじりに向けて伸ばす手はないため穏やかな声で誘うキッドを、ひじりは静かに見返した。

 キッドは何も本当に、自分とひじりだけが助かりたくて飛び降りようとしているのではない。
 先程見た地上の光景。赤い光の帯。それを埠頭に連れて来ようとしていることくらい、分かっている。
 そして同じように、乗客全員を助けるために手を尽くそうとしているキッドが、確実にひじりだけは助かるようにしようとしていることも、分かっている。


(私は、死ぬわけにはいかない)


 まだやらなければならないことはたくさんあって、快斗ともまだまだ先まで生きたくて、だから確実に助かるためにキッドに応えることが正しいのだろう。
 分かっているのに、ひじりは園子を抱きしめたまま無表情に迷っていた。
 それは本当に正しいのか。間違っていないか。白い鳥の腕に身を任せることが、果たして正解なのか。
 この飛行機にはたくさんの人間が乗っている。特に死なせたくないと思う人間が、多すぎる。その全てに背を向けて、大切な妹分である蘭の両肩に全てを押しつけて自分は安全な地上から見ているだけ。それでいいのか。


「……」

「眠り姫。…私と共に」


 共に生きて、死ぬと約束した。
 その約束を、反故にするわけにはいかない。けれど。


「─── 行って、ひじりお姉様」


 迷うひじりの背を押すように、静かに園子がそう言ってひじりから体を離した。園子はやわらかく笑みを浮かべ、ひじりの体を軽くキッドに向けて押し出す。


ひじりお姉様だけでも確実に助かるんだったら、わたしは迷わずそっちを選ぶわ」

「……園子」

「蘭なら大丈夫。わたしがついているし、コナン君だっているもの。それに、ひじりお姉様が下で待っててくれるんだったら、意地でも降りなきゃって思うし」


 そして無事に降りたら、頑張った蘭を抱きしめてあげてくださいね。
 もう一度ひじりの背中を軽く押して笑う園子の手は微かに震えている。ひじりは口を開いて何かを言おうとし、けれど何も言わずに閉じた。
 園子がひじりからキッドへと視線を向けて叫ぶように言う。


「キッド様!ひじりお姉様に傷ひとつつけちゃダメですからね!お願いします!!」

「もちろん。さぁ眠り姫」


 園子に即座に頷いたキッドがひじりを見据えてもう一度呼ぶ。
 ひじりは園子からキッドを振り返り、座席を掴んでいた手を離すとキッドに歩み寄って、非常口近くの出っ張りを右手で掴んだ。
 背後でほっと園子が息をつく。キッドもまた、ひじりにだけ快斗の顔で安心したように笑ってみせた。


「…ごめんね」


 ぽつりと呟いた言葉に、園子が即座にいいんですと笑って返す。
 ひじりは振り返らず、出っ張りに手をかけたままもう一歩キッドに近づき、あいた左手をキッドの胸元へ寄せて口を開いた。



「─── 私は、ここで降りるわけにはいかない」



 え、と目を見開いたのはキッドと園子、両名共だろう。
 しかしひじりはただ目の前のキッドだけをしかと見据えてさらに続けた。


「私は私にできることをする。だからあなたは、あなたにしかできないことをしてください」

「眠り、姫?」

「それに、私を抱えて飛び降りればあなたの左腕が壊れてしまうかもしれない。そんなこと、他の誰よりも何よりも、私が許しはしない」


 淡々と、しかし決して譲れない意志をこめた声で続けたひじりは、そしてね、ともうひとつ付け加えて小さく笑った。


「浮気なんかしたら、私の可愛い恋人が妬いてしまうかもしれないから」


 ─── だから、地上したで待ってて。


 必ず生きて、あなたのもとへ帰ってくる。それに、約束したでしょう。あなたを置いていったりはしないと。

 言葉にしなかった思いは、けれど確かに伝わっただろう。
 黒曜の瞳をいつになく強く煌めかせ、目を見開いたキッドの胸をひじりは軽く押した。
 白い体が容易く宙に投げ出される。瞬時に視界から消えたキッドが、見えなくなる直前、強く唇を噛み締めていたことには気づいていた。

 また、彼を傷つけてしまっただろうか。
 その贖罪はあとでいくらでも、何だってしよう。だが今は、ただこの飛行機を無事に降ろすことだけを考えるべきだ。
 外れた非常ドアの外、ひじりの視界の端を、白いハンググライダーが飛んでいった。






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