208





 怪盗キッドが黒羽快斗であることは認めよう。
 けれど、それ以上こちら側に踏み込んできてはならない。一線を越えてはならない。
 所詮は怪盗と探偵。領分が違い、互いに相容れぬ存在で、今のように一時的に手を組むことはあっても、どちらからもどちらへも踏み込んではいけない。


「…じゃあ最後に、もうひとつだけ。お前はひじりのことを、本当はどこまで知ってる?」

「オレは何も知らねーよ。知ってるのは…あの人が、どっかの誰かに、ある場所に閉じ込められてたってことくらいだ」


 さらり、怪盗は淀みなく嘘をつく。過去の事実を混ぜた嘘を、コナンは見破れない。
 キッドの言葉全てを信じてはいないだろうし、いつかはキッドの正体を見破ったように確信するかもしれない。
 けれど快斗が既に深入りしてしまっていることだけは、決して認めるわけにはいかなかった。





□ 銀翼の奇術師 17 □





 キッド扮する新庄とコナンがコックピットで何を話しているのか、それが決して和やかなものではないことだけは分かりながら、ひじりは無言で窓の外を眺めていた。


(少し前にハワイで粗方操縦法は学んだけど…あれは地上での話で、実際に飛ばしたわけじゃない)


 ひじりと快斗を誘い、教えてくれたのは優作だ。
 ある日突然、妻子にも内緒で個人的にコンタクトを取ってきた優作が、快斗がキッドだと知っているとは明確に口にしないながらも、「ヘリもそうだが、飛行機の操縦くらいは知っておいた方がいいだろう?」と悪戯げなウインクを見せてくれたのは記憶に新しい。
 小型ヘリくらいなら操縦できるひじりもそのときに教えてもらったが、やはりそれも地上での話。


(…キッドが私を副操縦士席に座らせなかった意図は、いったいどこにあるのやら)


 ひじりに経験があると周囲に知らしめないようにするためか、それとも。
 優作から新一も同様の教習を受けたと聞いていたから、あの場で操縦桿を握って機体を安定させたこともあってコナンを選んだのかもしれない。
 そう自己完結して、窓の外、眼下に広がる雲の海を眺める。


(さて…天気予報で雷雨だと言ってたけど、無事に降りられるかな)


 あと十数分で着くとは言え、陽は完全に落ちいまだ雲の上であるため天気を窺うことはできない。とにもかくにも、今は新庄─── キッドとコナンを信じるしかない。

 機体が徐々に高度を下げ、雲の海へと潜る。やはり天気は最悪のようで、一瞬で窓に大量の水滴が貼りつき、視界の端で鋭く青白い光が横切った。風も強く機体が揺れる。


「…快斗」


 無意識に呟かれた小さな声は、誰にも届かず霧散する。
 雲の海を抜け、窓の外に街の明かりが見えてゆるく息をついた。

 しかし、まだ完全には気を抜けない。
 ISLに着陸までインプットされているとは言え、この悪天候の中しっかりと地上に降りられるかが問題だ。天気予報通り外は雷雨で、今も嫌な音を立てて稲光が走っている。


「いよいよ着陸ですね」


 窓の外を見ていた光彦が呟くのが聞こえて、ひじりもまた徐々に近づいていく地上をじっと見下ろす。空港が少し遠目に見えた。
 このまま順調に─── そう、思ったときだ。



 ドガァア────ン!!!!!!



 唐突に強烈な閃光が目を灼いて、反射的に目を瞑ると同時に鼓膜を轟音が叩く。衝撃を耐え光が治まってから目を開ければ機内の照明全てが消えていて、どうやら雷が飛行機に落ちたらしいと悟った。この分ではコックピット内も同じように電源が落ちているかもしれない。
 しかし照明はすぐに回復した。突然照明が落ちて乗客がまたパニックに陥りかけていたが、光が戻ったことに誰もがほっと安堵の息を吐く。
 だが───


「きゃあっ!?」


 機体が上昇したかと思えば突然大きく左に揺れ、誰かが悲鳴を上げた。ひじりも席にしがみつきながら窓の外を見て状況把握に努めようとするが、夜の闇と大量の雨粒が邪魔をして風に煽られたのだろうということくらいしか判らなかった。
 さらに大きく揺れて機内に悲鳴が響き渡る。それを流し聞きながら眼下を窓越しに見やると、すぐ傍に空港のフェンスが迫っていてひじりの顔が僅かに強張った。


(─── 何が、起こってる?)


 落雷、突然の上昇、風に煽られた機体、さらに今にも管制塔に突っ込みそうになっている。もしかすると、さっきの落雷で何か─── オートパイロットが解除されたのか。
 そう思い至ると同時にひじりの背筋がぞくりと冷える。そうだとすれば今、この巨大な鉄の鳥は彼の細腕によって支えられているのだ。


「きゃあぁああ!!」

「な…何が起こって…!」

「うわっ!?」


 もうひと際大きな衝撃と轟音と共に機体が揺れ、機内に悲鳴が響き渡る。ひじりは黒曜の目を鋭くして音がした方へ視線を滑らせ、左─── 第二エンジンが落ちていることに気づいて眉間に小さなしわを刻んだ。
 今の衝撃は管制塔を完全には避けきれず、第二エンジンが引っ掛かってしまったものだったのだろう。案の定、第二エンジンが落ちた影響でそれぞれドミノが倒れるように連鎖的な爆発を起こし、滑走路が炎で染め上がった。嵐でけぶる中、闇に浮かぶ赤い炎がいやらしく嗤う。


「い、今のいったい何だったんですか…?」

「……」


 呆然と光彦が呟くのを耳に入れながら、ひじりは無言でシートベルトを外した。
 機体はまだ少し揺れているがバランスを保ち始めている。その中をコックピットに向かって歩き出した。


ひじりお姉ちゃん?どこに…」

あーっ!エンジンがひとつ取れてる!!」

「何だって!?たたた大変だ!コナンに早く教えてやんねーと!!」


 蘭の声も耳に入れず歩いていると背後で歩美が気づいて声を上げ、元太が慌てて飛び出して光彦と歩美と共にコックピットへ走り出す。ひじりを追い抜いて行った3人が大慌てな様子を見て、少しだけ逸っていた心が落ち着いた。


(…いけない。冷静にならなきゃ。大丈夫、まだエンジンはあと3つ残ってるはず)


 たとえ予測通りオートパイロットが解除されていたとしても、滑走路が元に戻るまで旋回し続け、その間にISLが復活すれば再び着陸は可能なはずだ。焦ることはない。
 意識して長く細い息をつき、慌ててコックピットに飛び込んだ子供達を追ってひじりも入ると、新庄が座る機長席の後ろから計器を覗きこんで、やはりオートパイロットが解除されていることを知った。
 子供達が声を揃えてエンジンがひとつ落ちたことをコナンに伝えるが、コナンが冷静に「心配すんな」と言った通り、エンジンはあと3つはあるし、燃料だって───


「……!」


 しかし、メーターを見たひじりは目を瞠って息を呑んだ。
 計器に表示されている、1秒毎に減っていく数値は燃料の残量を示している。

 それが─── もう、ほとんど底を尽きかけていた。






 top