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「工藤さん」


 気配は感じていたため驚かずに視線だけを向けると、そこにはにっこりと笑顔を浮かべた新庄が立っていた。


「隣、いいですか?」


 そう訊かれてすぐには答えず、一拍の沈黙を挟んでどうぞと頷く。ありがとうと笑みを深めた新庄が綺麗なウインクしたのを見ても、ひじりの無表情は一片も揺るがなかった。





□ 銀翼の奇術師 10 □





 そろそろコナンはキッドの予告状が解ける頃だろうか。
 キッドが失敗した、とは素直に思ってくれていないことくらい分かっている。劇場での一件は失敗前提であったし、コナンの中で快斗=キッドの方程式が崩れればよかったからキッドが少々手を抜いたことは否定しきれない。
 この機内で盗ることが分かってしまえば、逃げおおせるのが少し面倒かもしれないなと内心で考えていると、ふいに衣擦れの音と共に気配がすぐ傍まで迫り、声を潜めた新庄の声が甘く耳朶を打った。


「大丈夫、あれは偽物でしたから─── いでっ!


 耳元に寄せてきた新庄の顔を反射的に腕を突っぱねて引き剥がすと勢いが良すぎたのだろう、悲鳴が上がり何事かと全員の顔がこちらに向く。
 ひじりは無言無表情、だが分かる人間には少々半眼になって新庄の顔を引き離しており、それが読み取れずとも殆どの人間が新庄がひじりに何かしたのだろうと察した。その中で、些か樹里の目が面白くなさそうだったことに気づいたのはどれくらいいただろうか。


「すみませんが、私は彼氏に浮気をしないよう釘を刺されていますので。する気もありませんが、万が一誤解されては困りますから必要以上に近づかないでいただけますか」

「つ、つれないなぁ…」


 淡々とはっきりきっぱり言い切られ、新庄が苦笑して頬を掻く。
 コナンと蘭と園子からものすごい目つきで睨まれ、さらにそれに哀も混じっていることに気づくと、新庄はハハハと乾いた笑いをこぼしてひじりから体を引きシートに座り直した。ひじりも腕を戻して窓の方を向き深く座り直す。そのまま、新庄が動く様子がないと悟って鋭い視線はひとつふたつと剥がれていく。


(偽物、ね)


 なぜ偽物と判ったのかは、おそらく先程の樹里の指へのキスだろう。本当は指ではなく宝石へ唇を落としたというわけか。
 偽物であるのならキッドは盗らないし、キッドが現れるのを待つコナンは樹里の方を注視していて、新庄に変装したキッドは気づかれないまま逃げることができる。
 相変わらず抜け目がない。内心で称賛したひじりは鞄の中からチョコレートの箱を取り出して開け、個別包装されたそれを無言で新庄へ向けた。新庄が嬉しそうに顔をほころばせてチョコレートに指を伸ばし、ひとつ手に取って包装を軽く解き直接チョコには触れずに口に含む。ひじりもチョコレートをひとつ口にして、じわりと口内で溶ける甘い塊を噛み砕いた。
 その一連の様子は誰にも見られることはなく、出発時刻となり機内アナウンスが流れ、飛行機のエンジン音が強く響いたかと思うとゆっくり動き出した。









 機体が小刻みに揺れながらも安定した様子で空へ飛び立ち、シートベルトランプが消えた頃。
 ひじりはぼんやりと窓の外ではなく前方に座る者達の様子を眺めていた。

 どうやら小五郎がサインを樹里にお願いしたようだがサインペンを忘れて来たらしく、しかし後ろに座っていたなつきがおもむろに立ち上がって樹里へサインペンを渡した。よく気が利く人だ。
 その様子を蘭と英理が窺い、放っときなさいと面白くなさそうに切り捨てた英理が蘭にみんなのことを教えてほしいと言うと、蘭が立ち上がって英理の隣の席へと移る。
 伴が立ち上がって前方のトイレに向かおうとしている途中、ふいに飛行機が揺れてバランスを崩し、彼は床に座り込んでしまったが樹里の席に手をかけて「すまない」とすぐに立ち上がりトイレへ入った。


「洋菓子と和菓子、どちらになさいますか」


 乗務員がカートを押してやって来て、小五郎がビールとつまみを頼むと乗務員はギャレーへと一度戻る。伴がトイレから出てきたところで樹里が立ち上がったが、彼女が行くよりも先に成沢が先にトイレへと入った。同じく席から立ち上がった新庄が後方のトイレへと向かい、それを振り返って目に入れた樹里はため息をついて座り直す。


「……?」


 ぼんやりと機内を眺めていたひじりは、ふと眩しい光が目を焼いて、目を細めると窓へと顔を向けた。
 空も雲の海も等しく赤く染め上げる夕陽。暖かくもどこか哀しい、そんな切ない色を湛えた光を黒曜の眼が映す。そんな感傷的な光景からすぐに視線を外し再び前方へ目をやると、成沢がトイレから出て来て、入れ替わるようにすぐ樹里が入った。
 新庄が戻って来て隣の席に座る。それから数十秒と経たずに樹里がトイレから出て来て、その早さを少しだけ訝ったあと、先程子供達が耳抜きについて話していたことを思い出して納得した。


「工藤さん、何か飲むかい?」

「…お気遣いなく」

「いいからいいから。さっきのお詫びってことで」


 ね、と綺麗なウインクを向けてくる新庄に全くときめかない自分を自覚して、ひじりは新庄の中身はキッドで快斗なのにここまで揺るがないのもある意味どうなんだろうと思いながらも頷いた。


(もしかすると私は快斗の顔が好きなのかな。そりゃあ好きに決まってる。確かに好き。でも顔だけじゃない…はず)


 それに、顔だけなら快斗とそっくりな新一にときめいてもおかしくはないが、新一にときめいたことなど一度もない。また違った意味でドキドキさせられることならばいくらでもあるが。
 となれば、これはもう実際に会って確かめるしかないだろう。快斗の顔が好きなのか中身が好きなのか両方併せ持っているから好きなのか。
 でもそんなことよりも快斗の笑顔が見たいなぁと単純な思いに帰結して内心で呟くと、


「…快斗に会いたい」

「え゛」

「ん?」


 内心に留めていたはずの言葉はどうやら小さく漏れ出たようで、振り返ればコーヒー片手に差し出した体勢のまま新庄がびしりと固まっていた。
 新庄のその頬にじわりと赤みが差す。何とか耐えているようだが耳の方へ熱がいってしまっていて、剥がれかけたポーカーフェイスを何とか腕で覆って隠した。


「…!……!!…あなたって人は、本当に…!」


 完全に不意打ちを食らって低く呻いた新庄は、小刻みに手を震わせながらもコーヒーをこぼすことなく器用に座席の背についたテーブルに置いた。そしてひじりの頬に手を伸ばしかけて、はっとすると慌てて引っ込めてきつく握り締める。
 中身がキッドで快斗だと知っていても、今は新庄である彼に応えることはできず、ひじりは戒めの意味をこめて新庄の額を指で押した。無意識か前のめりになりかけていた体を後ろへ押し戻された新庄は、バッと席から立ち上がって後方トイレへと逃げるように駆け込む。
 それを見送り、ひじりはゆっくりと呼吸を繰り返して最後に深い静かなため息を吐き出し、今の新庄にうっかりときめいてしまったから、結局のところ素の快斗が好きなのだろうと自覚し直した。






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