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 さぁ、ネタばらしをしよう。





□ 銀翼の奇術師 7 □





 音量の絞られた音楽が流れる店内で、静かにカウンター内に1人の女が立っている。
 ゆっくりと紅茶を飲んでいた女の耳にふと閉店しているこの店へ確実に近づいて来る足音が聞こえ、次いで入口の扉が開かれてカランと鈴が鳴り1人の少年が飛び込んできた。


「ジイちゃん、冷たいジュースちょーだい!」

「お疲れさまでした、坊ちゃま」


 カランカランと鈴を鳴らしてドアが閉まり、疲労を滲ませた顔で軽く頷いた快斗は、どっかりとスツールに腰掛けてすぐさま出されたジュースを一気に呷った。
 ジュースを飲み干して大きく息を吐き出す。礼を言いコップを置いてカウンター内に立つ人間をジト目に見やった。


「…で、何でジイちゃんは今もひじりさんの格好してんだよ」

「おや。たまにはこういうのもよろしいかと」


 敬語を使い、ことりと首を傾けて吐息のような笑みをこぼす女に、うっかり顔を赤く染めかけた快斗は「これはジイちゃんこれはジイちゃん」と頭を振ってぶつぶつと呟く。
 咳払いをひとつした快斗の前に新しくジュースを注いだコップが置かれ、今度はそれをゆっくりと飲んで快斗はきょろりと視線を動かした。


ひじりさんは?」

「目の前に」

「いやだからそれはジイちゃ……え?」

「目の前にいますよ、快斗坊ちゃま」


 ふわり、快斗だから分かるくらい小さくだが、やわらかくひじりが笑う。穏やかな光を宿した黒曜の瞳が悪戯げに細められたのを見て、快斗は2秒ほど呆然と固まり、3秒目をひじりが数えたときに今度こそ真っ赤に顔を染めた。どうやら目の前にいるひじりが誰の変装でもない、正真正銘の工藤ひじりだと気づいたようだ。


ひじりさん!?え、何で!?ジイちゃんは!?」

「変装を解くついでにシャワーを浴びていますよ」

「ちょ、待っ、えっ!?ああああああの、その……キッドじゃないときの敬語はやめてください…」

「それは残念」

「楽しんでるでしょ」

「もちろん」


 真っ赤な顔でカウンターに突っ伏す快斗の癖毛を撫でるひじりは、傍から見ると微かに笑みを浮かべているように見えて、けれど分かる人には分かるくらい、この上なく楽しそうな顔をしていた。それを見て快斗がくそう可愛いと内心で呻き、深いため息をつく。


「あーくそ、やられた」

「先入観って怖いね」

「ええ本当に」


 顔の赤みが取れないまま頬杖をついて快斗が半眼でひじりを見やると、ひじりは快斗の額を指で軽くつついた。


「まぁ、この悪戯を思いついたのは寺井さんなんだけどね」

「ジイちゃん…!!!」


 スタッフルームの奥にあるシャワー室にて、ひじりの変装を解いているだろう寺井に快斗が唸って頭を抱える。
 つい先程までキッドとしてコナンをおちょくっていた快斗は、今度は自分が遊ばれていることにもうひとつ深いため息をこぼした。


「そういえば、やっぱり新一はパラグライダーを使ったの?」


 ぽつりとひじりからかけられた問いに、快斗はジュースを飲みながら頷いてそのときのことを説明する。
 わざと屋上に追い詰められ、蘭の声やトランプ銃を使って軽く遊んでいたら、コナンが転んで屋上から落ちてしまったのを見て思わず助けようとしたが、ふとコナンが背負ったリュックがパラグライダーであること、そして落ちる前に唇を舐めて風向きを確認していたことを思い出して動きを止めた。
 おそらく罠だろうと判断して、それでも一応気をつけながらキッドも飛び降りて様子を窺ってみると、腕時計型麻酔銃の射程圏内に入って来ないキッドに舌打ちしたコナンは痺れを切らしてパラグライダーを広げた。
 そのあとの追走も問題なく躱したが、本当、よく追ってくるものだと感心し直したのはついさっきだ。


「よくやる」


 快斗からコナンの追走劇を聞いたひじりがぽつりと呟き、快斗が大きく頷いた。


「おや、お戻りになられましたか、快斗坊ちゃま」


 ふいに奥から出てきた寺井に快斗が半眼でひじりを横目に見て無言の抗議をするが、寺井はほっほっほと朗らかに笑って流した。
 寺井に場所を譲り、ひじりがカウンターから出て快斗の隣のスツールに腰掛ける。宥めるように癖毛を撫でると気持ち良さそうに目が細められ、ひじりもまたやわらかく目を細めた。快斗の頭が揺らいでこてんとひじりの肩に乗り、とろりとまどろんだ目が数度瞬く。


「……ねむい」

「ほとんど寝てないからね」

「いやはや、さすがに全身フルメイクは大仕事でしたなぁ」

「快斗にも寺井さんにも、無茶をさせたかな」

「それはひじりさんもですよ。坊ちゃまのふりをするのは大変だったでしょう」


 確かに快斗のふりをするのは大変だったけど寺井さんほどではなかったと思う、とひじりは内心で呟き半分夢の中な快斗の頭を撫でる。
 今回、快斗はキッドとして新一に、ひじりは快斗に、そして寺井はひじりにそれぞれ変装した。総入れ替えせずとも寺井が快斗に化けるだけでもよかったが、敢えてそうしなかったのは、「ひじりと一緒にいる快斗は本物の黒羽快斗である」とコナンに思わせるためだった。

 ひじり扮する快斗が変装マスクではないのかと疑われるのをどう防ぐか。
 色々と試した結果、頬部分を僅かに厚くして強度をつけた変装マスクを強めの接着剤で張りつけ、マスクをつけていないと証明するために、その厚い部分を引っ張ってもらうのが一番自然だった。当然それだけならまだ寺井が快斗役をやってもよかったが、ほぼ力をこめずに頬を引っ張ってもらってからのリアクションはひじりの方が向いており、満場一致で決まった。
 寺井が変装したひじりに無理やりではなくひじりが変装した快斗の頬を引っ張ってもらうまでの流れは、中森の性格を熟知している快斗にとって組み立てるのは簡単であったし、頬を赤くするには直前に頬を引っ張る指に薄めの塗料を塗っておけばよく、その指も楽屋を出る際に逆の手に隠した小さなメイク落としでこすり落として証拠隠滅。案の定うまくいった。


「私は大丈夫ですよ、快斗になるのは楽しかったですし」

「ええ、私も。ひじりさんを演じるというのは滅多にない機会で、年甲斐もなくはしゃいでしまいました」


 そう言って寺井がほっほっと微笑む。
 ひじりは常が無表情のため変装しても表情を作らずに済み、声は変声機を使ったが基本的に録音を流したもので、行動も控えめでも問題はなく、代わりにひじりが変装した快斗がその分多く喋ればよかった。
 ひじりと快斗は恋人同士であるため仲睦まじくなければならなかったが、それも事前に練習していたお陰で特に不審には思われなかっただろう。
 快斗とひじりの服の襟に仕込んだ変声機は大いに役に立った、と博士の研究室からこっそりくすねてきたひじりは内心口の端を吊り上げる。

 しかし、寺井がひじりに変装するにはひとつ大きな問題があった。
 顔は当然として、肌も若々しくなければいけなかったことだ。
 今は半袖の時期なのでズボンはともかく長袖は着れなかったため、どうしても隠せない腕と首にも特殊メイクで若い肌を再現せねばならず、けれどうっかり袖や裾から素肌が見えても困るため、殆ど全身フルメイクとなり、寺井もそうだがその作業を行う快斗も仮眠は取ったがほぼ徹夜という大きな負担を課してしまった。ただでさえ、キッドという大切な仕事があったのに。


(…さて、あの名探偵の目は誤魔化しきることができたかな?)


 肩から膝へとずり落ちた快斗の頭を撫でながら内心で呟き、微笑ましそうに口元を緩めた寺井が車を表に回して来ますと言って裏へ消えて行ったのを見送ったひじりは、寝息すら立てそうな快斗を優しく起こしにかかった。






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