194
ふいに楽屋のドアがノックされ、矢口が「はい」と答えてドアに向かう。ドアの磨りガラス越しに何とか見えるのは、貴族のような恰好をした男。
矢口がドアを開けると、その姿がはっきりと見えた。同時に、男の傍にいるもう1人の女性も。成沢さん、と矢口が呼んだことから、彼が「ジョゼフィーヌ」におけるナポレオーニ・ボナパルト─── 通称ナポレオン役の
成沢 文二郎だと判った。
「毛利さん、いらっしゃったって…?」
どうやら彼は小五郎に会いに来たらしい。新聞に顔を出している有名な彼にすぐに気づき、名探偵の毛利小五郎さんですね?と言いながら小五郎へと歩み寄った。
その成沢のどこか嬉しそうな顔に快斗は軽く首を傾げ、成沢が自分の名を告げて小五郎の大ファンなのだと言ったことで納得したように頷いた。
□ 銀翼の奇術師 3 □
成沢もまたイケメンと言えるほどに顔が整っており、小五郎の後ろからイケメンに目がない園子が笑みを広げて成沢を見つめる。
快斗は成沢を通り過ぎ、彼に続いて続々と楽屋に入って来た者達へと視線を向けた。
(主役級が一堂に会すると、やっぱ壮観だな)
そう内心で呟くと同時、成沢がそれぞれを紹介してくれた。
向かって左端からジョゼフィーヌの親友であるテレジア・タリアン役の田島 天子、その隣、ジョゼフィーヌの恋人であるイポリット・シャルル役の新庄
功、そしてジョゼフィーヌのパトロンであるバラス・ド・ポール役の、演出兼舞台俳優である
伴 亨。
舞台俳優とあるだけあってそれぞれが映える顔立ちをしており、特に新庄に関しては園子が騒ぎそうなくらい美形だ。ちらりと横目に園子を見てみれば、予想通り彼女は目を輝かせて新庄を見つめていた。
その新庄の目が、おもむろに
ひじりを向く。それぞれを一瞥しただけで常の無表情を揺るがさずにいた
ひじりを見て新庄が軽く目を細め、口の端を僅かに吊り上げたのを見て、快斗は
ひじりを庇うように立った。
ひじりの姿を遮った快斗に、新庄が笑みを消して面白くなさそうな顔をする。無言のまま睨み合うように視線を交わしていると、ふと「皆さんお揃いですな?」と聞き慣れた声が耳朶を打って思わず新庄からドアの方へと視線を動かした。
「中森警部」
小五郎が呟いた通り、そこにいたのは中森と数人の警官。加藤もその中にいた。
どうも毛利さんと言いながら中森が小五郎に歩み寄り、握手をするために右手を伸ばして小五郎がそれに応えれば、中森は「この間ぶりで、す!」と言いながら全力で小五郎の手をきつく握り締めた。不意を突かれて走った痛みに小五郎が顔を歪める。
警察よりも先に相談された小五郎のことが気に入らないのか何なのか、とにかく中森は小五郎に良い感情を抱いていないらしい。
「いや…その節は、どうも!」
引き攣った笑みを浮かべ、今度は小五郎が中森の手を固く握り返す。今度は中森の顔が痛みに歪んだ。
いえいえこちらこそ、と言いながら再び力をこめ直した中森と、さらに力をこめ返す小五郎を交互に見て、快斗は呆れたようにため息をついて額に手を当てた。大人げないにもほどがある、この2人。
「中森警部、敵は小五郎さんじゃなくてキッドでしょ。何遊んでるんですか」
「か、快斗君…まぁ、それもそうだな」
いつまで経っても終わりそうにない攻防に水を差すと、中森はようやく手を離し、何てことないとでも言いたげな顔を少々引き攣らせて右手をさする。そしてふと思い出したように、そうそうと話を切り出した。
「今回は特別に、捜査協力をしてくれる人物を連れて来ました」
握り締めた小五郎の手の痕が残る右手を揺らしながら中森が言う。中森自身は必要ないと突っぱねたらしいが、目暮が強く推したものだからと仕方なく連れて来たらしい。
さて、その協力者とはいったい。誰もが気になってドアの方へと目をやる。そんな中、コナンだけは快斗の背中を凝視していたが。途絶えることのないコナンから向けられる鋭い視線にはもう慣れた。
「入りたまえ」
中森がドアを振り返って呼び、小さく靴音を響かせながら楽屋へやって来たのは、1人の少年。快斗が面と向かって会うのはこれで三度目だろうか。そして
ひじりの大切な弟分。
「え!?」
蘭が驚愕の声を上げ、博士も驚きに息を呑む。コナンもこのときばかりは快斗から完全に意識を外し、現れた人物に目を見開いた。
「どうも、工藤新一です」
そう言って微笑んだのは、確かに新一だった。
しかし、ありえるはずがない。新一はコナンとしてここにいるのに。
ひじりは無表情のままだが僅かに目を瞠り、快斗はぽかんと口を開けて目を瞬き、コナンを目だけで振り返ってもう一度目の前の少年に視線を向けた。
“協力者”が新一と知って小五郎が「何だ、こいつかぁ」と呟き、他の面々はかの有名な高校生探偵に相好を崩す。
「工藤新一って…」
「あの有名な、高校生探偵の?」
成沢の言葉を田島が引き継いで声を上げるが、楽屋へと淀みなく足を動かして入って来る新一は涼しい顔で、当然だと言わんばかりだ。
「…誰だっけ?」
「何言ってるんですか」
「蘭お姉さんの恋人さんよ?」
元太の呟きに光彦が即座に反応し、歩美がさらりと告げて「違うわよ!」と慌てて蘭が否定するが、蘭の横から園子が悪戯顔で「旦那よ」と肯定の意味の訂正をして、蘭は顔を赤くしながら咎めるように園子の名を呼ぶ。
そのとき、後ろで目を見開き言葉にならない声をもらしていたコナンが新一を指差して叫んだ。
「怪盗キッドだ!!」
その声に、誰もがコナンを振り返る。
コナンは厳しい目で新一を睨んだまま続けた。
「この人、新一兄ちゃんじゃない!キッドが化けてるんだ!」
「キッドが!?」
コナンの言葉を聞いて中森が新一を振り返る。新一は困った顔で笑いながら両手を振って否定した。
しかし、コナンの言葉が本当だとすると、なぜひと目見ただけで判ったのか。小五郎が当然疑問に思って「何でそんなことが判るんだ」と胡乱げに訊くと、コナンは自分を示して強い口調のまま答える。
「だってオレが本当の…!」
「…本当の、何なんだ?」
小五郎が先を促すが、そこから先をコナンが続けられるはずがないと分かっていて、全員がコナンに視線を向けている隙に新一がにんまりと意地の悪い笑みを浮かべる。
案の定、コナンは言葉に詰まり、何も言えないまま一歩後退って誤魔化すように笑った。しかし、その顔がふと
ひじりに向き、コナンは
ひじりへと駆け寄る。
「
ひじり姉ちゃん!
ひじり姉ちゃんは、あの人が新一兄ちゃんじゃないって判るよね!?…快斗兄ちゃんも!!」
だってオメーらオレの正体知ってんだろ、と睨むように見つめてくるコナンに、
ひじりは無言のまま無表情に新一を向き、快斗は困ったように2人を見比べて新一へと視線を据えた。
2人が何か言おうと口を開きかけたとき、ふいに中森が「ハッハッハッハッハッハッ…」と笑い声を上げる。何事かと目を向ければ、中森は成程と頷き、“協力者”である新一がキッドである可能性も無いとは言えないなと新一へと詰め寄った。
それに不穏な気配を感じてか新一が身を引く。あの、と何か言いかけた新一の言葉を遮るように、中森は勢いよく新一の頬へと手を伸ばしてその両頬を引っ張った。
「いっでででででちょっと待ってやめてくだひゃい中森警部…!」
しかし、その顔からは変装マスクは剥がれず、つまり素顔であるということ。ならばイコール、彼は正真正銘の工藤新一であるという事実だ。
中森が新一の顔をつねった際、ぴくりと僅かに指を動かした人物が果たして誰だったのか、それは当人にしか分からない。
ぐいっ
「
っでぇ!?何っ、
ひじりさん、いったい何を…!」
ふいに顔を引っ張られ、快斗は思わず悲鳴を上げて顔を歪める。頬を引っ張る指の先を見れば無表情のままの
ひじりがいて、彼女は淡々と理由を述べた。
「あなたがキッドか、キッドの仲間じゃないかと思って」
「ひどい…オレが
ひじりさんを騙すわけないのに…」
赤くなった頬をさすりながら床に膝をついて項垂れれば、疑ってごめんと軽く
ひじりが肩を叩く。コナンはそれを見て、ますます分からなくなったようだ。
キッドが快斗だとして、新一に化けているのなら頬を引っ張られても変装が崩れないのも判る。
快斗は新一と顔がよく似ている。違うのは髪型くらいで、性格も傍で見ていた以上化けるのは容易い。
だが快斗はここにいて、ならばここにいる快斗はキッドの仲間で、コナンを騙すために変装しているのだろうと思っていたが、今
ひじりが快斗の顔を引っ張って変装でないことを証明した。
それはつまり、快斗とキッドがイコールで結ばれない。別人であるということだ。
(いったいどういうことなんだ…?)
立てていた仮説や推理が崩れ、筋が通らなくなった。
工藤新一ではないことだけが明らかな新一を睨みつけるように見上げるコナンを見下ろし、うっそりと内心笑みを刷いたことを知る者は、やはり当人しかいなかった。
← top →