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 事はうまく進んだ。それこそ目論見通りに。
 いくら鉄壁の要塞を築き上げようと策を練って何重にも罠を張ろうと、それらを自在に使える存在とすり替わってしまえば何ら問題は無い。
 そしてそのトップは、腕に覚えがあるという自負でボディガードひとりつけていなかった。


(ケケケーッ…油断大敵ってな、次郎吉のジイさんよ)


 まんまと掠め盗った“大海の奇跡ブルー・ワンダー”を腕に、次郎吉の顔の下でキッドは笑う。





□ 大海の奇跡 9 □





 途中、思いがけず雨は降ってしまったが通り雨だったようですぐに晴れ、博物館の裏側からは大きな月が雲の間から顔を出していた。それに宝石を翳して見てみるが、またハズレ。まぁ今回は次郎吉の挑戦を返り討ちにして“奇跡”を見せられたのだから文句は言うまい。


『…キッド』


 ふいに耳にはめた片耳イヤホンから聞き慣れた声が聞こえ、ゴミ袋に丁寧に包んだ“大海の奇跡ブルー・ワンダー”をサイドカーに乗せるとヘルメットを被りながら彼女の言葉を聞く。


『サイドカーに名探偵が潜んでいますよ』


 淡々とした表情の窺えない声音にサイドカーの膨らみを一瞥する。確か次郎吉の愛犬がそこで眠っていたはずだが─── 成程、確かにこの気配は人間だ。
 しかし何も言葉を口にすることはなく、ハーレーに跨ってエンジンをかけ、アクセルを回すと同時にある細工を作動させた。


 ガコ


 エンジン音に重なり、鈍い音が立ってハーレーとサイドカーを結ぶ金具が外れる。それは次郎吉が以前言った、スピードアップのために施された細工。
 “大海の奇跡ブルー・ワンダー”と共に置いて行かれ、慌ててコナンが身を隠していた布を取り払って顔を出した。


「くそっ、待てキッド!!」


 誰が待つかよ、と言いたいところだが悔しがるコナンの顔を見るのもまた一興か。
 次郎吉の顔のまま意地悪く口の端を吊り上げ、十数mは距離を取って腕時計型麻酔銃の射程範囲外へ至りハーレーを停めて振り返った。


「じゃあな名探偵、その宝石は預けたぜ!結局目当ての宝石じゃなかったし、今回は売られたケンカを買っただけだからよ!まぁ本音は、女神を長く傍に置いて眠り姫が嫉妬しちまったら困るからなんだがな」


 コナンのことだ、中森を始めとした警察を呼んでいるに決まっているから長くここに留まる理由はない。
 奥歯を噛み締めて悔しげな顔で睨んでくるコナンに満足して背を向けかけると、身を乗り出したコナンが吼えるように叫ぶ。


「キッド!!! やっぱりオメー、もしかして…!!」

「……」


 無言のまま目だけでコナンを振り返ると、コナンは腕時計型麻酔銃を構え、しかし撃つことはなくただ眉間のしわを深く刻んで出かかった問いを無理やり呑み込んでいた。
 時間は長くないがそこそこの付き合いだ。元々他人の感情の機微にも長けたキッドには、コナンの心情など手に取るように分かる。


 ─── オメーは本当は、黒羽快斗じゃねぇのか。


 そう、問いたいのだろう。そしてそれを否定してほしい。
 …甘ぇな、お前は。そういうところは嫌いじゃねーけどよ。
 内心で呟き、コナンから視線を外してアクセルを回しハーレーを走らせる。


(探偵は真実を追い求めてこそなんだろうがよ…)


 コナンから十分に離れた所で、キッドはゴーグルをつけ変装マスクを剥がして素顔を夜気に晒した。


「世の中にゃ、謎のままにしといた方がいいこともあるんだぜ?」




■   ■   ■





 ひじりはただ、一連の様子を黙って眺めていた。
 コナンが呆然と次郎吉に扮したキッドを見送ると、コナンが呼んだのだろう、慌てて中森が裏口へとやって来た。
 キッドの姿を捜す中森に、コナンは逃げられたけど宝石は取り返したよと笑いかけ、逆に「キッドの仲間は」と問うが、寺井の乗る7番機は、同じく7番の数字が印字されたヘリが無数に現れたことでパニックとなり、捕まえるどころの話ではない。

 キッドは逃げおおせ、寺井の方もまた問題はない。今回の仕事は終わりだ。
 それにしても、コナンの存在を教えていなければ少し危なかったなと、その場から離れながら内心で呟いた。


(…さて、快斗と合流して新一を騙す算段をつけようか)


 おそらく、コナンは既にキッドが快斗だとほぼ確信しているはずだ。それなのに問い詰められなかったということは、決定的な証拠を手にしていないのか、何かしらの感情が邪魔をしたのか。
 いずれにせよ、何らかの手は打つ必要がある。コナンの疑惑を晴らし、また快斗がキッドとして動きやすくなるための策を。


(そういえば今度行われる舞台に、スター・サファイアが使われるってニュースで言ってたっけ)


 公演自体はまだ先だが、それはキッドの次の獲物になるだろう。
 そしてキッドが来るなら、コナンも当然来る。次まで時間はあまり長くはないが、一手二手くらいは考えられる。

 早速頭を回転させながら人混みを抜けたひじりは、ふと足を止めて夜空を仰いだ。
 先程までどれがキッドの仲間が紛れるヘリかと混乱を極めていたヘリ部隊も、キッドに逃げられたこともあって、とりあえず一度引き下がることにしたようで既にいなくなっている。
 そのため夜に浮かぶ月がよく見えて、“大海の奇跡ブルー・ワンダー”を掲げる女神像のように、ひじりは左手を月に伸ばした。
 きらりと細い指にはまった指輪が煌めく。その手を、後ろから誰かが取って指を絡めた。さらに帽子も取られたが驚かず、むしろゆっくりと後ろに立つ人間に体重をかけて凭れる。


「…私は今回、少しでも役に立ったかな」

「ええ、予想以上に」


 指を絡め、背後から腰に腕を回して軽く抱き締めてくる快斗に、そっか、とひじりは息をついた。
 コナンの追走がなかったためあっさりと警察を撒いてハーレーを乗り捨てここへ戻って来たのだろうが、それにしても思った以上に早かったなと振り返ると、快斗はにやりと口角を上げて得意そうに笑う。


「実は途中でUターンして来て、この近くに乗り捨てたんです。まさか怪盗が現場に戻って来るとは思ってもいないでしょうからね」

「成程」


 周囲の人間はキッドの余韻にひたっていて誰もひじりと快斗に目をくれない。そもそも顔を寄せ合って小さな声で会話していたのだから、聞こえることもなかっただろうが。
 2人は体を離し、手を取り合って帰路につく。途中、蘭と園子へ先に快斗と共に帰る旨をメールで伝えて。


「快斗の役に立ててよかった」


 ひじりが唐突に心からそう言えば、快斗はきょとりと目を瞬かせ、やわらかく相好を崩して目を細める。
 そして彼は、あなたがいて良かったと、心からの言葉を優しくこぼした。



 大海の奇跡編 end.



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