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 陽が暮れ、空に墨汁をぶちまけたかのような闇が広がる。
 そのさなか、満月からひとすじ欠けた月が自分の存在を知らしめるように煌々と輝いていたが、その月に影を落とす薄い雲が徐々にその色を濃くしていた。


(……んー、これはひと雨くるかもしれないな…)


 キッドコールに沸く観客を横目にひじりが内心で呟く。
 鈴木財閥関係者が直々にばらまいた、キッドファンを呼び込むチラシが昨夜よりも人の数を増やした。そうなれば警察も一人一人チェックする余裕はなく、ファンも予告時間が迫っていることでいい加減入れろと暴動になりそうだ。
 だが、中森はそのうちノーチェックで入れてもいいと許可を出す。どうせキッドは空からやって来るから、と。





□ 大海の奇跡 8 □





 コナンがビルの屋上の壁に真新しい傷を見つけ、さらにその向かい側のビルの屋上を調べてもらうと、やはりそこにも同じ傷があった。
 しかしそれが何を意味するかは分からず、ひじりと快斗も現れないまま予告時間が迫る。テーブルに据えられた液晶テレビにこの騒動の原因である次郎吉が映った。


「……」


 ちらりと腕時計で時間を確かめる。キッドの予告時間までもう30分もない。ひじりと快斗は現れないまま。
 蘭に抱きかかえられ膝に乗っていたコナンはもう一度博物館のCMを流す液晶テレビを一瞥し、髪を煽る風に目を軽く瞠り、ふとある考えが浮かぶと持ち前の俊敏さで蘭の腕から逃れた。


「ちょっとボク、次郎吉おじさんのとこに行ってくるねー!面白いことに気づいたから!」


 慌てて蘭が面白いことって?と問いかけてくるが内緒と返し、屋上からビル内へと入ったコナンは階段を駆け下りながらポケットから携帯電話を取り出した。
 短縮ダイヤルに登録しておいた番号を呼び出してかける。トゥルルル、とコール音が3回ほどして相手が出た。


『…どうしたの、新一』

ひじり、オメー今どこにいる?黒羽と一緒なんだろ?」

『どこって、今地上…そっちに向かおうとはしてるんだけど、ちょっと人混みがすごくて動けない』


 ひじりの言う通り、後ろから人のざわめきとキッドコールが聞こえてくるから地上にいることは間違いないだろう。黒羽も一緒にいんのか、ともう一度問うと、代わったのか通話口から知った声が聞こえてきた。


『んだよ工藤。オレに何か用か?』

「…いや…オメー、今ひじりといるんだな?」

『たりめーだろーが。それがどうした』

「……」


 快斗の声の後ろに聞こえるざわめきとキッドコール。それに加えてテレビ局のリポーターの声。


「……いや、何でもねぇ。ひじりと一緒にいるんならそれでいい」

『…?相変わらず探偵の考えてることは分かんねぇな』


 訝しげに呟いた快斗がひじりへ携帯電話を返したようで、今度はひじりの声がもしもしと耳朶を打った。


『何を確かめたかったのかは知らないけど、まぁ頑張って、探偵君』


 それを最後にぷつっと電話が切れる。
 コナンは携帯電話を一瞥してポケットに仕舞い、ビルから大通りへと飛び出ると真っ直ぐにワゴン車へと向かって走り出した。




■   ■   ■





 人混みをすり抜けてワゴン車へと走る小さな背中を見て、ひじりは手に持っていた変声機をバッグの内ポケットへと仕舞う。
 思った通り、コナンはひじりが本当に快斗と共にいるか確認するために電話をかけてきた。博士のところから変声機をひとつくすねて来といてよかったと内心で呟き、人混みをうまく縫ってコナンに気取られないよう先へと進む。


(さて、新一。あのマジックを解くことができたとしても…もうひとり、月の影に気づけないなら、勝算はないよ)


 結局、コナンはひじりに気づくことなくワゴン車へと入り、ひじりは人混みに紛れながら片耳にイヤホンをつける。イヤホンはコードが服の袖、その内側を通って腕時計に繋がっており、そこからワゴン車内の会話が聞こえていた。
 コナンは昨夜の映像をもう一度観たくて来たようだが、既に映像は全て次郎吉の自伝映画製作スタッフへと送られたあとだ。


『さぁ、予告の時間まであと1分を切りました!』


 近くで自局のカメラに向かうリポーターがそう言うと同時、周囲がカウントダウンを始める。
 時間が短くなるにつれ、観客のテンションもうなぎ上りだ。残り10秒を切った。
 そして─── 腕時計の秒針が、頂点を指す。


 ポン!


 軽快な音が立ち、見上げればヘリのライトに照らされた白が空中に立っていた。それに観客が大いに沸く。ひじりは耳を塞いでイヤホンから聞こえてくる声達に集中したが、ふいに頬を冷たい粒が打って意識が逸れた。
 キッドよりもヘリよりもさらに上、空高くを見上げると、雲が月を覆い隠している。


(…雨)


 通り雨だろうが、雨は雨。観客は慌てて傘を差すが、宙に立つキッドから視線を外さない。
 キッドコールもやまず、誰もがその闇を裂く白へと視線を奪われている。黄色い声援や歓声、女性のキッドを呼ぶ声も絶えず上がる。


(……こうして見ると、“キッド”が私に好意を向けてるってのはすごいことなんだね)


 思いがけず自覚してしまったひじりは、気を取り直してイヤホンの向こう側へと耳を澄ませた。
 7番機に潜む寺井がヘリのカメラを切ったようだ。雨の影響で映像が乱れたためか、と寺井が伝えるが、中森はキッドの仲間が妨害電波を流させているかもと呟いていた。
 次いで観客に紛れ込ませた警官へと電波を出すような機械を持っている人間がいないかチェックするよう指示を出す。それに従って不自然に顔を動かす人間を見て紛れ込んだ警官の位置を瞬時に把握していくと、何やらイヤホンから騒がしい声が聞こえてきた。


『おのれキッドめぇー!中森警部!俺もキッドの仲間を捜しに行きます!』

『コラ待たんか加藤!』

『待ってろキッドー!!!』


 どうやら加藤のようだ。ここで見つかっては面倒くさいので警官達に見咎められないよう早足で移動する。
 キッドコールはいまだやまず、キッドの歩みによって人の波が移動し、それにうまく乗りながらもワゴン車へと視線を向けていると、ふいに中から次郎吉が出て来た。


(……と、新一)


 少し遅れ、コナンがワゴン車から出て来て博物館の裏口へと駆けて行く。
 どうやら今回のマジックも盗み去る方法も分かってしまったようだ。流石は名探偵、とキッドを真似て内心で感嘆の息をつく。
 ひじりはビルの合間に身を滑り込ませ、バッグから帽子を取り出すと髪の毛を全て仕舞い込んで目深に被った。それに、誰もがキッドに気を取られているため気づかない。再び人混みへと混ざり、コナンが駆けて行った方へと向かう。


「何かおかしくないか?キッド…」

「足は動いているけど…」

「何かに吊られているみたい…」


 ようやく観客達も異変に気づき始めた。それは中森達警察も同様。あとは寺井がうまく攪乱してくれるだろう。
 ざわめく人混みをすり抜け、人気のない裏口の影に身を潜めて窺う。門前に停めたハーレーのサイドカーで眠っていた犬を移動させたらしいコナンが戻って来て、代わりに自分がサイドカーへとその小さな身を潜ませた。
 天晴と言うべきか。しかし残念かな、それをばっちり見て伝える口を持つ人物が今ここにいることに、彼は最後まで気づかないままだった。






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