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 ふいに次郎吉がコンタクトを落とし、それを踏みかけた小五郎の足へ次郎吉の愛犬ルパンが軽く噛みついて阻んだ。
 どう見てもそこら辺の若者より元気で健康体な老人だが、その実、体の至るところにガタがきているらしい。それを聞いて、年寄りが無茶してんじゃねーよと快斗は軽く呆れた。

 だがそんな体でも儂の目の黒いうちにとキッド逮捕を目指している次郎吉へ、ふと中森が、何でそう一見何の関係のない次郎吉がキッドに執着するのかを問うと、次郎吉はじろりと目を眇めて理由を話してくれた。
 もっとも、その話は次郎吉以外の人間を呆れさせるものであったが。





□ 大海の奇跡 7 □





 次郎吉がキッドに執着するのは、簡単に言えば「次郎吉よりキッドが目立ったから」だった。
 数多くの賞を獲得し偉業を成し遂げ、新聞の一面を飾り続けていた次郎吉にとって、キッドの話題に押され二面三面へと追いやられたことが許せないらしい。
 ひじりも快斗も内心そんなことが理由かと呆れ果てたが、当の次郎吉本人は至極真面目だった。


「別に次郎吉のジイさんが一面に返り咲こうがオレは構わねぇが…その記事が『怪盗キッド逮捕』ってのは、許せるはずがねーな」


 犯行予告日当日、ブルーパロット店内で最終打ち合わせを済ませ、快斗はそう言って薄く笑った。
 スツールを降りた快斗に手を引かれてひじりも降り、寺井へよろしくお願いしますと軽く頭を下げる。お任せくださいと力強く笑って応えた寺井に背を向け、2人で外へ出ると既に薄暗くなっていた。


「さーて、問題は工藤か」


 コナンはキッドの正体が快斗ではないのかと疑っている。相変わらず嫌になるほどの鋭い洞察力だ、と快斗が深々とため息をついたのは数時間前。
 昨日の今日では妙案も浮かばず、とにかく今日は2人共コナン達と別行動を取ろうと話し合って決めた。ひじりがコナン達の傍にいて快斗が不在なら、コナンが余計な探りを入れてくるかもしれない。それは面倒だ。


「快斗は“大海の奇跡ブルー・ワンダー”に集中してて。最高のショー、そしてその華麗な手口…いち観客としても、楽しみにしてる」


 快斗と繋ぐ手に軽く力をこめれば、快斗もまた不敵な笑みと共に強く握り返してくれた。もちろん、と涼やかな声音が優しく耳朶を叩く。


「行こう、ひじりさん」

「うん」


 手を引かれ、ひじりは淀みなく足を動かした。





■   ■   ■






 10月12日。
 再び鈴木大博物館前にやって来たコナン達一同は、昨夜よりもずっと溢れた野次馬から離れ、鈴木財閥令嬢、園子のツテでキッドが現れた近くのビル屋上へと立ち入らせてもらっていた。
 空は先程見た通りものすごい警戒網。ヘリが何十機も飛んでいてうるさいくらいだ。


「お飲み物は何かお召し上がりになりますか?」

「任せるわ」


 屋上に据えられた円形の広いテーブルに等間隔に並べられたイスに座ればすぐに執事が声をかけ、気後れした様子もなく当然のように園子が頬杖をついて答える。
 かしこまりました、と綺麗な一礼をして下がる執事と園子を見て、コナンはやはり園子も立派な財閥令嬢だったのだと認識を改めた。


「それにしてもひじりお姉ちゃんと黒羽君、間に合うのかなぁ」

「デートしてて遅れるんだっけ?」

「え、何それ!」


 そういえばいつまで経ってもひじりも快斗も姿を現さないなと思っていたところで蘭と園子がコナンの知らない情報を口にし、思わず声を上げて問いかければ、「あ、コナン君には言ってなかったわね」と蘭が携帯電話を取り出して1通のメールを見せてくれた。


(『快斗とデートして行くから遅れる。間に合わないかもしれないから先に行ってて』…)


 ひじりから蘭に送られたメールに、コナンの目が僅かに鋭さを増す。
 今まで、ひじりと快斗の2人が2週続けてデートをしたことなどなかった。いや、どうせ後で会うのならとキッドの件を口実にデートをしている可能性もあるが、それでも─── まさか、と抱いていた疑念がさらに膨らむ。


「…ありがとう、蘭姉ちゃん」


 蘭へ携帯電話を返したコナンは、疑惑についてはひとまず横に置いておくことにして、先に考えるべき、昨夜のキッドのマジックについてへと思考を巡らせた。
 キッドが消えたあと、またヘリが撮った映像を見せてもらったが妙なものは何も映っていなかった。しかも空中で消えたトリックも分からない。いったい、どうやってあの闇の中から白を消し去ったのか。


「きゃっ」


 唐突にヘリの風に煽られて蘭の帽子が飛び、半ば反射的にボクが取って来るよとイスを降りて離れた所に転がる帽子へと駆け寄る。
 するとその途中、落下防止用の壁に真新しい傷がついていることに気づいた。
 思わず薄い笑みが浮かぶ。おそらくこれはキッドが残していったものに違いない。


(…でも、まだ奴のマジックを暴くには情報が足りねぇ)


 今夜、キッドはまた空を歩いて“大海の奇跡ブルー・ワンダー”を盗りに来るだろう。それを阻止し、捕まえるためにはあの空中歩行のタネと仕掛けを見破ることが第一条件だ。

 帽子を拾い、テーブルの方へと戻る。蘭に小五郎、園子の3人はキッドを話題に話しており、近寄って聞いてみると、「タネも仕掛けもございませんって感じで歩いてたもんね」と蘭が小さく苦笑したためすかさず否定した。


「タネや仕掛けはあるんじゃない?だって、そんなに簡単に人が空を歩けたら、鳥さん達がびっくりしちゃうでしょ?だからぜーったい何かあるはずだよ!」

「と、鳥さんって…」

「あら、可愛いこと言うのねコナン君」


 目が点になる園子と微笑ましそうに笑う蘭に、ちょっとガキっぽすぎたかなと恥ずかしくなる。
 ひじりと快斗がこの場にいたら、ひじりは絶対に博士と哀へ報告するだろうし、快斗はコナンが工藤新一だと知っているからにやにや笑ってからかっただろうから、この場にいなくてよかったのかもしれない。


(…黒羽快斗…)


 ぽつり、心の中で自分と似た顔立ちをした少年の名前を呟く。
 プロのマジシャンを目指す高校生。ひじりの恋人。2人はいつも寄り添うように互いの傍にいる。今はもうそれが当たり前のようで、どちらか片方だけだと少し違和感を覚えるほど。
 けれど彼は、もしかしたら。


(なぁ、お前もしかして)


 喉に引っかかる問いがまるで魚の骨のようで、小さく痛んだ。






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