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 せっかくのデートだと言うのに中断されることになっても快斗が嫌な顔ひとつせず、むしろほんの僅か口角を吊り上げたのは、正面から堂々と鈴木次郎吉邸に入れるからだろう。
 快斗は怪盗キッドでもある。そして次郎吉は鈴木財閥重鎮。うまくいけば、次郎吉が所有する宝石を目にすることができる。
 まさかその機会をみすみす逃す理由もあるまい。内心ものすごく乗り気であることくらい、ひじりは容易に読み取っていた。


「…あ。すみませんひじりさん、せっかくのデートなのに」


 だがすぐに気づいてこっそりと申し訳なさそうな顔をする快斗に、ひじりは首を横に振る。どうせ快斗が乗り気にならずともひじりが乗った。それに、デートはまだ終わったわけではない。
 構わないよと言葉なく伝えるため、ひじりは快斗の頬に指を滑らせて撫でた。





□ 大海の奇跡 2 □





 鈴木次郎吉邸にひじり、快斗、コナン、蘭、園子とお邪魔させてもらうと、何やらたくさんの種類のメダルやトロフィーが展示された部屋へと通された。
 ゴルフのヨーロッパオープン、ヨットのUSAカップ、世界ハンバーガー早食い選手権、サバンナラリー、最年長エベレスト登頂、フリーダイビング新記録などなど。庶民的なものから国際的なものまで幅広くあらゆるものの頂点を獲得している。


「はー…すっげージイさんだな」


 快斗が感嘆のため息をつき、ひじりがその隣で頷く。
 次郎吉の年齢はいくつだったか。若くないことは明確だが、それでここまで集めているとは素直に感嘆する。
 園子が「でも同じ種類のはないんだよね」と呟くと、次郎吉は頂点を極めたら冷めてしまってのぉと笑った。どうやら負けず嫌いで熱しやすく冷めやすい性格のようだ。


「…よし、FISMはねーな」


 ひと通り眺めてぼそりと快斗が呟く。
 FISMとは、世界各国の団体が加盟するマジックにおける世界最大規模の連合体のことで、3年に一度行われる、簡単に言えばマジック界のオリンピックだ。確か、快斗の父親である黒羽盗一も若干二十歳でグランプリを獲得している。
 どうやら快斗もまた負けず嫌いであるために、様々な賞を総なめにしている次郎吉に対抗心を抱いていたようだ。


「ん?あんな像、前からあったっけ…?」


 ふと園子が訝しげな声を上げ、つられて全員が振り返る。
 大きなガラスケースに納められた、ひと抱えもある黄金の裸婦像。金で鋳造された彼女が空に翳すようにして手に持っているのは、もしかして。
 蘭や園子と同じように、ひじりと快斗もケースを覗きこみながら次郎吉の説明を聞く。


「その昔、海賊共が暴れ回った大海賊時代に、何度襲われても屈しなかった不沈船─── シーゴッデス号が船首に飾りつけていたという黄金の女神像じゃ!」


 女神が右手に掲げているのは、人魚の涙が宝石に変化し、海難を防ぐ力を秘めると伝わる伝説のアクアマリン。その名を、“大海の奇跡ブルー・ワンダー”。


「本当は、この像を取り囲むように鉄製の人魚達が取りつけられてたらしいが、長い年月で錆びて朽ち果ててしまってのぉ…このビッグジュエルを抱えた純金の女神像だけが残ったそうじゃよ」

「へぇー…」


 ちらりとひじりが快斗の顔を窺う。快斗は興味深そうな顔を貼りつけるだけでキッドの顔は覗かせない。目の前にビッグジュエルがちらついているというのに、見事なポーカーフェイスだ。しかしその青い瞳の奥深くで、白い怪盗が虎視眈々と狙いを定めているのだろう。


「これは美術的価値も高くて、競り落とすのに随分骨が折れ、先週やっと儂のもとへ…」


 先週、とは確か、先程「最高の餌」と言っていた。ではこれが。
 園子がそのことを問うと、次郎吉は口の端を吊り上げて不穏な気配を滲ませた。


(ビッグジュエルが餌…ってことは、まさか)

「その通り、これは餌じゃ。彼奴を釣るためのな!」


 ついと快斗の鋭さを宿した目が次郎吉を窺う。彼もまた、この餌が誰に向けられたものか気づいたようだ。
 そんな視線に気づかず、次郎吉は呼吸を整えるとゆっくりと口を開いた。


「この世に生を受けて72年…この次郎吉、狙った獲物を逃したことはなかった。そう…望んだ賞は全て手に入れ、願った夢はみな叶えてきたが…あったんじゃよ。この世で唯一、掌握できない者が」


 次郎吉の静かな言葉に、誰もが口を挟めず耳を傾ける。


「その者は、いかなる厳重な警備も堅牢な金庫も魔法のように突破し、悠然と夜空に翼を広げて消え失せる白き罪人…」


 やはり、とひじりは内心で呟いた。そこまで言えば誰でも分かる。
 快斗は次郎吉から視線を外し、次の獲物たる黄金の裸婦像をじっと見つめた。
 それってまさか、と園子が呟く。それを受け、次郎吉は不敵な笑みを深めた。


「そう…彼奴の名は─── 怪盗キッド!」


 さて、次郎吉がどうキッドに因縁を持たれたのかは分からないが、とにかく近日中に次郎吉はこの“大海の奇跡ブルー・ワンダー”を使ってキッドに挑戦状を叩きつけるつもりなのは間違いない。
 しかし、どうやって。次郎吉からキッドにコンタクトを取る方法はないはず。
 いや、あるにはあるが、それってもしかして。


「明日の新聞に、儂が彼奴に向けた挑戦状が載るはずじゃ」


 流石鈴木財閥と言うべきか。
 無表情に内心で呆れているひじりの横で、再び次郎吉へ視線を戻した快斗がうっそりと笑みを深めたことに、誰も気づきはしなかった。










 一同が解散し、家まで送るという申し出をありがたく受け、ひじりは快斗と共に黒羽邸の前で降りた。そのことに阿笠邸に帰らないのかとコナンと蘭が驚いていたが、今日のデートは“お泊まりデート”なのだ。元々帰るつもりはないし、今日は帰らないと出掛けるときに博士と哀には伝えておいたから問題はない。
 ではそういうことでと車を送り出し、我に返ったコナンが文句を言おうにも車は走り出した後である。リアウインドウから物言いたげに睨んでくるコナンに、快斗は満面の笑みで、ひじりはいつもの無表情で手を振って見送った。


「…それで、どうする?」

「んー、まぁ明日の挑戦状次第、ってことで」

「受けるんでしょ?」

「当然」


 夕食と風呂を終えて快斗の部屋の中、ベッドの上で横向きに足を伸ばして座るひじりの膝に頭を置いた快斗が不敵に笑う。
 挑戦状を出すということは当然準備は万端に整えられており、護りは強固で罠も仕掛けられているはず。そこに突っ込んで行くなど無謀極まりないが、それで引くなら快斗は怪盗キッドなどやっていない。
 それに、快斗は根っからの負けず嫌いでもある。挑戦を受けて立たないと言われたら、それこそひじりは本当に快斗かと疑ったかもしれない。
 と、失礼なことは口にせず、無言で快斗の頭を撫でる。快斗がほんのり頬を赤く染めた。


「ま、まぁ怪盗キッドに不可能はありませんから。どんな厳重な警備だろうと策を凝らした罠だろうと、オレの敵じゃありませんよ」

「うん」


 風呂上がりで抜けきっていない熱とは別の熱を宿す頬に指を滑らせて撫でる。快斗の頬の赤みが増した。


「そっ…それにしても“大海の奇跡ブルー・ワンダー”、ビッグジュエルに相応しい大きさでしたね。次郎吉のジイさんもわざわざイイものを仕入れてくれてありがてぇ」

「うん」


 投げ出されていた快斗の手を取って指を絡め、手の甲を絡めた指の腹でやんわりと撫でる。快斗の耳まで赤くなった。


「…ひじりさん」

「うん」


 絡めた手を浮かせ、唇を寄せて快斗の手の甲にキスすれば、ぐるりと視界が反転する。
 快斗相手なので抵抗せずなされるがままベッドに押し倒されて絡めた手はシーツに縫いつけられ、けれど片方の手はまだ自由なので顔を真っ赤にしつつ半眼で見下ろしてくる快斗の頬を撫でた。


「誘ってます?」

「好きに取るといいよ」


 深呼吸してからかかった問いへ意地悪な言葉と笑みをのせた目を返すと、快斗は片手で顔を覆って深いため息をつき、ぐしゃりと癖毛を掻き乱した。ずりぃ、と呻くように言われ、ひじりは表情を消すと快斗の肩に手を置き、足を使って位置を入れ替わるように隙だらけの体をベッドに押し倒す。
 逆転した体勢に、驚いて目を白黒させる快斗が呆然とひじりを見上げる。指は絡めたまま、ひじりは目を細めて快斗の鼻を軽く指で弾いた。


「恋人が私以外の女性を盗りに行くって言うんだから、少しくらい意地悪にもなるよ」


 ぽかんと快斗が目を見開いて固まり、意味が分かると同時にこれ以上ないくらい赤くした顔を枕にうずめて隠した。
 嫉妬ですか、とくぐもった声で問われてそうだよとあっさり頷く。生き物ではないとはいえ、女神である以上女性は女性だ。


(…まったく)


 いつの間にこうも嫉妬深くなったのかと、内心苦笑したひじりは快斗の唇と自分のそれを重ねた。






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