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 有希子に頼んでもう一度哀に変装したコナンがひじりと共に一度近辺をうろついた結果、監視したり後をつけて来るような人物は見当たらなかったため、ひとまず安心していいだろうという結論に落ち着いた。油断してはいけないが、いつまでも組織に怯えて哀を部屋にこもらせるわけにもいかない。
 それに、コナンはベルモットの「シェリーを諦めてあげる」という言葉を信じてみるらしい。ひじりは到底信じられないが、まさか今すぐに手を出すとも思えないので、暫くは様子見をするということで表向き賛成しておいた。

 そして、やはり組織からのプレッシャーが無意識にかかっていたのか、ベルモットが手を引いてから哀の風邪は順調に快方へ向かった。
 新学期には間に合うことはできなかったが、数日遅れて学校へ向かう哀の背中を、ひじりは軽く押して送り出した。





□ 大海の奇跡 1 □





 ベルモットが姿を消した。それは即ち新出も姿を消したということで、アメリカへ逃げている新出にそのことの報告がされるらしい。
 特に親しかったというわけではないのでそのあたりはジョディ達FBIに任せ、組織から目をつけられた可能性も出てきたことで様子見をするため快斗は暫くキッド業を休んで大人しくしていたが、結局その間何事もなく、警戒しつつも平穏な日々を過ごしていた。
 また、キッド業を休んでいる分だけ快斗の時間に余裕ができたため、ひじりと快斗はデートのために米花町へと繰り出した。


「オッサンズ11、なかなか面白かったね」

「ですね」


 夕方、そういえば続編が今日公開であることを思い出し、タイトルはともかく、前作が面白かったことと、今行けばタイミングも合って間に合うということで、どうせなら観てみようと映画館へとやって来ていた。
 映画を終え、手を繋ぎながら映画館を出て軽く感想を言い合う。するとふいに、そういえば園子もこの映画を観たがっていたことをひじりは思い出した。もしかすると近くにいたのかもしれないが、東京にはたくさんの映画館があるため、かぶることはそうそうないだろうと思い直す。


ひじりさん?」

「ううん、何でも───」

「コ、コラ!!待ちなさい!!」


 首を振りかけたひじりの言葉が後ろから唐突に上がった声に遮られ、しかもそれが聞き覚えのあるものだったため、2人は思わず顔を見合わせて振り返る。
 すると帽子を被った男が横を駆けて行く。その腕には何かを抱え、その後を追うように駆け抜ける少女。


「…蘭?」

「あっ、ひじりお姉様!あの男、引ったくりなんです!」


 蘭の後ろ姿を見ていれば後ろからさらに知った声がかかり、それを聞いて繋いでいた手を離したひじりと快斗が園子を振り返らず同時に駆け出す。偶然に驚くのもまたどうしてバッグを引ったくられたのかもとりあえず置いておいて、ひとまず男の確保が先だ。
 快斗が懐から3つの小さなボールを取り出す。マジック用のそれを引ったくり犯の足へと向かって投げれば、ボールは見事男の足に当たり、2つが足の間に挟まって体勢を崩した男はその場にずっこけた。


「えっ…ひじりお姉ちゃんに黒羽君!?」


 突如隣に並んだ2人に蘭が驚きに目を見開くが今は無視して、男が慌てて立ち上がろうとしたところを抑えるためにひじりが足を踏み込んだ瞬間、ふいに隣から老人の声が張られた。


「行け!!ルパン!!!」


 ルパン。その名に思わず老人の方を向くと、ハーレーのサイドカーから1頭の犬が飛び出した。
 犬は老人の指示通り男に飛びかかり、威嚇の唸り声を上げて男を組み伏せ、その衣服を剥ぐ。それでも噛みついて怪我をさせないあたり、きちんと訓練がされているようだ。
 ハーレーを停めた老人が犬に代わって男の腕を背中で固めて封じる。素早く慣れた手つきに、老人もまたいくらかの経験があると判った。


「フン!か弱き乙女の鞄に手をかけるとは不届きな奴め!!儂の自伝の片隅にでも載せてくれようぞ」


 思わず足を止めて捕物劇を傍観していた2人だったが、快斗は老人に警察を呼ぶよう促されて我に返ると頷きながらポケットから携帯電話を取り出した。ひじりが頭を下げて礼を言う。


「ありがとうございます、バッグを取り返していただいて」

ひじりお姉ちゃん!引ったくりは?」

「この方と、勇敢なこの子が取り返してくれたよ」

「あ、ありがとうございます!ワンちゃんもありがと!」


 コナンと共に追いついた蘭が老人と犬に礼を言い、ひじりが首筋を撫でてやれば犬は気持ち良さそうに目を細める。
 毛並も良く、体も程よく引き締まっている。先程の動きと大人しくおすわりをして控えているのを見ると、とてもよく躾けられた賢い犬だ。
 もう一度ひじりと蘭に礼を言われた老人は、満更でもない様子で得意そうな笑みをにじませた。


「いやなーに…たとえこの愛犬ルパンが振り切られても、1500ccのツインカムエンジン搭載の儂のハーレーからは逃げおおせられはせんよ」


 ゴーグルを外し、にやりと笑みを深めた老人がコナンの頭を撫でていざとなったらスピードアップの細工も施してあると付け加える。
 ひじりは引ったくり犯の傍に落ちていたバッグを拾い、軽く砂を払って蘭が自分のバッグを持っているのを見ると、少し遅れて追いついた、じっと老人を見つめる手ぶらの園子へと渡した。


「はい、園子。怪我は?」

「あ、ありがとうございます。怪我はありません…けど、あの人…」


 老人から視線を外さず、アッアッアッアッと独特の笑い声を上げるとようやく思い当たったのか、軽く目を瞠った園子が呆然と呟いた。


「おじ様…?次郎吉おじ様じゃない?」

「おお!史郎んとこの娘っ子かー!!七五三のとき以来じゃのぉ!!」

「……ん?あの2人、知り合いですか?」

「みたい」


 警察に電話を終えた快斗が首を傾げ、ひじりが軽く頷きながら老人と園子を見る。
 七五三のとき以来、ということは10年以上ぶりということで、思い出すのに少し時間がかかったのだろう。
 園子は懐かしいと言わんばかりの笑みをこぼすと、老人こと鈴木次郎吉を示して紹介してくれた。


「この人はわたしのパパのイトコで、鈴木財閥相談役の、鈴木次郎吉おじ様よ」

「初めまして」


 それはまた大物だ。鈴木財閥の血縁者となれば仕方がないが。
 ひじりと快斗が頭を下げ、慌てて蘭が続く。次郎吉は背筋を正す一同を見て、「相談役と言っても経営の方は史郎に任せて遊び呆けておるがのぉ」と全く悪びれる様子のない朗らかな笑みを見せた。


「でもおじ様、いつ日本こっちに?半年前から旅行に出てるって聞いたけど…」

「うむ。つい先週じゃ…世界中を巡り巡って、ようやっと見つけたから舞い戻ってきたんじゃよ。─── 最高の餌をな」


 不敵な笑みを浮かべる次郎吉に、誰もが言葉の意味が分からず首を傾げる。しかし次郎吉はそれ以上口を開くことはなかった。
 快斗が呼んだ警察に引ったくり犯を引き渡し、もう遅いので事情聴取はまた後日となったところで、


「そうじゃ、せっかくじゃしうぬら儂の家に来んか。見せたいものもあるしのぉ」


 次郎吉のそのひと言に、反対する者は誰1人いなかった。






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