176





 翌日、コナンが言った通り昼に平次と合流した一同は、哀を地下室へと移して寝かせ、追跡眼鏡を隠していないかを確認して、博士とコナンでひと芝居打ったテープを録音し、工藤邸にて有希子がコナンを哀へ、平次を新一へと変装させた。
 有希子が盗一に弟子入りしたのはほんのいっときだったため変装術は極めておらず、盗一の息子の快斗と比べてかなり時間をかけて何とか哀の変装マスクを作り上げた。
 平次はまさか有希子が変装術など持っているとは思っていなかったようで、目を見開いて仰天していた様子が少しだけおかしかった。表情には出なかったが。


「新ちゃん、本当に大丈夫?」


 最後にカツラをかぶるコナンに心配そうに問いかける有希子へ、コナンは安心させるように大丈夫と笑う。


「絶対生きて帰って来てやっから心配すんな!」





□ 季節外れのハロウィンパーティ 3 □





 ふ、と目を覚ました哀は、見知った天井が地下の研究室のものであると知り、眠る前に襲われた強烈な眠気がコナンに撃ち込まれた麻酔針のせいだと瞬時に悟った。
 今は何時だろう。体を起こして机の上の時計を見れば、時刻はもう夕方。ひじりとコナンが招待された、季節外れのハロウィンパーティの乗船が既に始まっている時間だ。
 天井の方から博士とコナンの会話が聞こえる。食料と水、と聞こえた通り、パソコンデスクの上に、盆に載せられたおにぎりとペットボトルの水が置かれていた。


「…起きた?哀」

「! …ひじり


 ふいにかけられた知った声の主の気配には気づいておらず、はっとして振り返ると、出入口である扉横に置いたイスに、裾の長い黒いコートを纏うひじりが足を組んで腰掛けていた。
 哀はひじりと数秒目を合わせていたがふいに顔を逸らし、ソファから降りて立ち上がり引き出しを開ける。中を見て、小さくため息をついた。中に納められた物の位置が微妙にずれていることから、哀が追跡眼鏡を隠し持っていないかコナンが探したことは明らかだ。


「……ひじり。工藤君はたった1人で対決しようとしているのね?」

「そう。そして哀の見張りとして、私を置いた」


 哀はゆっくりと振り返ってひじりを見つめる。
 無言だがその目は物言いたげに揺れ、言外に「どうして工藤君を止めなかったの」とひじりを責めている。組織の非道さも冷徹さも、ひじりは文字通り身に染みて分かっているはずだ。それなのになぜ。
 哀の視線から言いたいことを悟ったようで、ひじりが淡々と言葉を紡ぐ。


「止めても無駄でしょ、あの子は。でも死んだりしたら困るから、私が策を弄せる位置で動いてもらう」


 ひじりが止めたところで止まる性分でないことは、幼馴染である彼女がよく知っている。
 だから止めなかったのだろう。それに、匂わせた通り、ひじりひじりで何かしらの手を打っているはずだ。あの雪の日、組織の手から哀を助けてくれたように。


 ─── 私は、あなたが幸せになることを願っているよ。


「……」


 どうして今、あのとき言われたひじりの言葉が蘇るのだろう。
 幸せを願ってくれている彼女を、自分の事情に巻き込むべきではない。そんなことちゃんと分かっているのに、見張りと言いながら護るようにここにいるから、哀はいっそ泣き出したくなった。


「…ひじり。私は、全てを終わらせなきゃいけないわ。私のせいで、工藤君が危険な目に遭う必要なんかないもの」


 それに、たとえコナンの計画がうまくいってベルモットが捕まったとしても、組織の追跡が途絶えることはない。
 哀の言うことを、ひじりは否定しない。ひじりとて分かっているはずだ、それくらい。
 だから私は行かなきゃいけない。少し震えながらもそうはっきりと哀は言った。


「……でも」


 ぽつり、哀はひじりを見上げて小さく笑う。
 無表情ながら、真っ直ぐに見つめてくる深い黒曜の目に自分が映る。ほんの少し、泣きそうな顔をして。


ひじりは…私を護って、くれるんでしょう…?」


 哀の言葉に、僅かだがひじりの目が見開かれた。数秒哀を見つめ、ゆっくりと頷く。


「護るよ。そのために、ここにいる」


 小さくはない声で言い切るひじりに、哀は笑みを深めた。
 ああやはり、彼女は護ってくれる。哀が護らないでいいと言わない限り、彼女は黒の前にその姿を晒すだろう。
 ひじりのことを思えば、断るべきだ。今まで避けてきたように、その手を振り払うべきだと分かっていながら、哀は真逆の言葉をひじりにぶつけた。


「─── お願い、私を護って、ひじり


 哀は知らなかったが、それは、“人形”であったかつてのひじりが決して誰にも口にすることのなかった、ひと言だった。


「全てを終わらせなきゃいけないのは本当。きっと、私は死ぬべきなんだと思う。でも、前に言った通り、ひじりが私の幸せを願っているのなら…護ってくれるのなら、私はそれに応えたい」


 これからも生きるために、ベルモットと相対しなければならない。
 ベルモットが捕まっても組織の追跡はやまない。哀に関わる人間に危害が及ぶ可能性がある。
 それでも、できることならもう少し生きていたいと、哀は真っ直ぐにひじりを見据えて言葉を口にする。


「…哀がベルモットに会う必要はないんじゃない?」

ひじりがそれを言うの?」


 思わず破顔した哀は、くすくすと笑い、小さく咳をこぼした。


「あなたがジンに“挨拶”したように、私も“挨拶”、しておこうと思って」


 他の誰も狙ってはならない。お前は私だけを見ていればいい。さぁ、私を殺しに来い。
 そんな“挨拶”を、しよう。かつてひじりがジンにしたように、私も。
 大丈夫。だって、あなたが護ってくれるのでしょう?

 巻き込みたくないと避けていても、ひじりは傍にいて、護ろうとしてくれる。
 ならばそれに甘えよう。けれどただ怯え隠れるだけのことはしない。をなくさないために、哀もまた、哀なりに闘いを挑もうと決めた。


「あなたが教えたのよ?ひじり


 こほこほ、と咳をしながら、哀は笑う。不敵でしたたかな、揺るぎない覚悟を決めた笑みだ。
 それを見て、ひじりが無言で額に手を当てた。ほんの僅かに眉をひそめて。一見すると変わらない無表情だが、哀には確かにその表情が読み取れた。彼女のその内心は嘆いているのか、それとも。


「決めたんだね、哀」

「ええ、決めたの。私はもう、逃げないって」


 すっきりとした顔で哀は笑い、ひじりに向かって手を伸ばす。それを、ひじりは躊躇うことなく取った。






 top