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 こじらせていたためか、哀の風邪は長引いて治りが遅い。
 組織の影がちらついてプレッシャーになっているせいもあるだろう。できれば冬休みが明けるまでには治してしまいたかったのだが仕方ない。

 そして小学校が始まるのが明後日に迫った日の夕方、ある2通の招待状が届いた。
 宛名は工藤新一と工藤ひじり。差出人は、Vermouth─── ベルモット。





□ 季節外れのハロウィンパーティ 1 □





 ベルモットについてひじりと快斗が各々情報を集めたところ、黒羽盗一に弟子入りしていた女優が有希子以外にもいたという事実が判った。
 しかし、それはクリス・ヴィンヤードではなくシャロン・ヴィンヤード。クリスの母親だ。クリスベルモットは母親に変装術を教えてもらったのか、それとも他に理由があるのか。
 シャロン・ヴィンヤードについても少し調べてみたが、有希子の今は亡き友人でアメリカの大女優だったこと、そして娘のクリスと不仲だったらしいと判ったくらいだ。

 結局のところ、収穫はほとんどない。
 切り札にもなりそうにない数少ない情報は、しかし無駄にはならないだろう。これからベルモットがどう出てくるかによって、情報に隠された事実が紐解ける。そのときに初めて、切り札としての意味を持つのかもしれない。

 ─── さて、まずは送られてきた招待状だ。
 ひじりと哀の部屋にて、マスクをつけた哀はベッドに上体を起こし、ひじりは傍のイスに腰掛け、コナンはベッドに腰掛けたままそれぞれの招待状に目を通し、手紙の内容にひじりが目を細める。




漆黒の黒曜を抱く工藤ひじり


来たる満月の夜、
貴公をこのおぞましき夜会に招待しよう
血塗られた船上パーティに…

無論、貴公の出欠に関わらず、
死に逝く哀れな子羊は自らの運命を呪い、
罪人つみびとはその断末魔に
酔いしれることになるであろうが


P.S.黒い羽を冠する少年と共に来るのを待っている




 黒い羽、はそのまま黒羽。ひじりの身近にいる、黒羽の姓を持つ少年は黒羽快斗ただ1人。だからこれは、その実ひじりと快斗の2人に宛てられた招待状。
 ひじりと新一がそれぞれ招待状に添えられた手紙を読んでいると蘭から電話があり、その内容はVermouthという差出人に心当たりがないか、そして新一にも届いていないかというものだった。どうやら小五郎のところにも届いたらしい。
 電話を受けた博士は来ていないと思うと誤魔化し、ひとつふたつ会話をして通話を切る。ひじりは無言で招待状と手紙を封筒へ戻した。


「で?あなたも乗る気?その幽霊船に」


 招待された毛利探偵は行くようだし、と続けた哀が問うと、コナンは封筒の差出人を見てああと頷く。名前が引っ掛かると付け加えれば博士が心当たりがあるのかと問い、しかしコナンはそれに答えず、心当たりがあるのは灰原の方ではないかと哀を横目に見た。
 ヴァームースはジンやウォッカと同じ酒の名前だ。しかし哀は聞いたことがないと首を振り、それに肩を落とす素振りもなく、次いでコナンが注釈を添えた。


「イタリアで生まれた酒さ。ヴァームースは英語読み…日本じゃこう呼ばれてるよ。
 ─── ベルモット」

「!」


 その名を聞いた瞬間、哀の目が大きく見開かれて息を呑む。その正直な反応にベルモットが組織の仲間のコードネームと悟ったコナンは、ベッドから立ち上がると封筒の差出人を見て薄い笑みを浮かべた。
 博士が血相を変えて「じゃ、じゃあその招待状は!?」と分かり切ったことを問う。


「ああ、奴らの仲間のベルモットさんからのお招き、ってわけさ。準備万端整えたか、痺れを切らしたのかは分からねーが…こいつに乗らねー手はねぇよ」

「ダメよ…行っちゃダメ!!やめなさい!!これは罠よ!行ったら殺さ…ごほっ、ごほ!」


 必死の形相で声を荒げた哀が咳き込み、その背中をひじりがさする。
 ダメよ、と哀は小さく繰り返してひじりの服の袖を握り締めた。


「行っちゃダメ…行ったら、あなたが…」


 死んでしまう。血の気が引き青褪めた顔でそう続けることができなかった哀の声は僅かに震えて、今までずっとひじりを避け続けていたことも忘れて縋るように不安で揺れる瞳でひじりを見つめる。
 しかしそれに、ひじりは凪いだ無表情を返すだけ。底の見えない黒い目に、確固たる意志を宿して。

 コナンは哀の様子をちらりと一瞥し、「かもしれねーな」と小さく頷く。
 哀は息を整えてコナンの方を向くと僅かに身を乗り出した。


「だったら…だったらどうし───」


 瞬間、哀へと撃ち込まれる麻酔針。
 ひじりは首に麻酔針を受けてふらりと体を倒した哀を支え、ゆっくりと寝かせて袖を掴む指を外した。
 博士がコナンの突然の行動に焦って「新一君!?」と名前を呼ぶが、コナンはただ静かに哀を見下ろして毛布をかけ直す。


「悪いな灰原…このままじゃ、一歩も前に進めねーんだよ」


 眠る哀を見下ろし、前髪を払って、ひじりはイスから立ち上がる。


ひじり、オメーも行くのか?」

「…そうだね、その組織の人間が何の意図をもって私にも招待状を出したのかは分からないけど。お呼びなら、呼ばれてみてもいいかな」


 静かな夜の湖面のような目でコナンを一瞥すると、哀を1人置いて行くことを気掛かりに思った博士が「哀君を残して君達がここを離れるのは…」と渋る。
 しかし、コナンは見ろよと招待状の宛名と手紙を博士に見せ、封筒と招待状が工藤新一と書かれているのに対し、同封されていた手紙の出だしが「親愛なる江戸川コナン様」となっていることを教える。
 博士が驚愕に目を見開いた。それはつまり、江戸川コナンの正体が工藤新一だとベルモットにバレているということ。そして、同じく哀が元組織の一員であるシェリーだということも。


「し、しかしおかしいじゃないか!?そこまで判っているのなら…何で奴らはここに殺しに来ないんじゃ!?」

「さぁな…その理由は分からねーけど」


 ちらり、コナンがひじりを見る。ひじりは無表情を返した。


「…その原因のひとつなら、何となく分かったような気がするぜ」


 博士の言う通り、正体が判っているのならどうしてここに殺しに来ないのか。
 それは、ベルモットの部屋にあった写真、クリス・ヴィンヤードとシャロン・ヴィンヤード、そして工藤新一に送られてきた招待状から読み解くに、ベルモットはおそらく、コナンを哀から引き離したいのだろう。
 つまり、コナンを殺すつもりがないということ。それはなぜか。


(“クリス・ヴィンヤード”に、新一を殺さない理由はない。けれど彼女が“シャロン・ヴィンヤード”であるのなら───)


 親友の息子を、見逃すつもりか。
 それに、2人が同一人物であるのなら、あの変装した新出に抱いた奇妙な既視感も彼女がコナンの正体に早々に気づいたことにも納得できる。シャロンは有希子を通して新一の幼い頃の姿を写真なり何なりで知る機会はいくらでもあっただろうから。
 だがこれは、突拍子もない考えだ。直感に近く、推理とも呼べない。こじつけと言ってもいい。
 それにシャロンとクリスが同一人物だとして、ならば彼女の顔はどちらが本物だ。クリスだとしたら、彼女は歳を取っていないことになる。そんなことがありえるのか。

 ありえないとは、否定できない。
 哀が開発していた薬。毒薬とされていたあれも、見方を考えれば若返りの薬とも言える。だからこそクリスとシャロンをイコールで結んでみたが、あくまで仮定であり根拠のない推論だ。
 そのあたりについては本人を捕まえてから問い質せばいい。もっとも、それを行うのは日本警察とFBIだが。


「ゴホゴホッ」

「お、おい、まさか哀君の風邪が…」


 ふいに咳をしたコナンに博士が慌てる。そのとき、マナーモードにでもしていたのか、ポケットから携帯電話を取り出したコナンは、電話?と訊く博士に向かって口元に指を立てることで口を閉ざさせ、届いたメールを開く。
 それを横目に、ひじりはもう一度招待状を見下ろして僅かに目を細めた。


(…さぁ、迎え撃とうか、ベルモット)






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