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 ひじりが快斗と別れて阿笠邸に帰って来ると誰もおらず、しかしビートルもなかったのでどこかに出掛けたのかと特に気にしなかった。
 キッチンのシンクには水が溜められた小さな土鍋がひとつ。確か蘭が哀のために玉子粥を作りに来ると言っていたから、哀はそれを食べたのだろう。
 咳は多少出るようだが薬が効いて容体もだいぶ良くなったし、今日の夕飯は哀の好物を作ろうかと、ひじりは冷蔵庫を開けて食材をチェックした。





□ 幕の裏で 2 □





 博士と哀がコナンと共に帰って来て、どこへ行っていたのかと問えば、哀の父親─── 宮野 厚司あつしの幼馴染である出島でじま 壮平そうへいのもとへ話を聞きに行き、そこで殺人事件に遭遇してしまったものの事件は解決、哀の姉の明美が出島家に隠していたカセットテープも無事回収して来たのだという。
 カセットテープの中身は組織の情報ではなく、哀の母親であるエレーナから娘に宛てたメッセージらしい。
 ひじりが良かったね、とカセットテープを大事そうに抱える哀にやわらかく目を細めると、哀はひじりを一瞥して気まずそうに視線を逸らし、「研究室に行ってるわ」と足早に地下へ下りて行った。
 それを、軽く首を傾げて見送る。はて、何かしただろうか。心当たりはない、と思う。まぁいいか。


「…何だ、あいつ…」


 哀の珍しい態度にコナンも訝りはしたが答えが出るわけもない。
 ─── そしてそれから暫く、ひじりは哀に避けられる日々が続いた。


「……おい、あいつどうしちまったんだ?」

「さぁ」


 今日も今日とて昼食を終えてさっさと地下室へこもった哀に、連日の避け具合を目にしていたコナンは胡乱げに何度目かの疑問を口にした。しかし避けられている当の本人はいつもの無表情で全く気にしておらず、そして哀に対する態度も変わらない。


「夜はちゃんと寝てくれてるし、三食ご飯食べて薬も飲んでくれてる。問題ないよ」

「そりゃそーだけどよ…」

「避けられる心当たりがないしね。哀が言うまで私は何も言わない」


 見た目はともかく、哀はもう幼い子供ではないのだ。いずれ何か言葉を口にするだろう。それか、何事もなかったかのように元に戻るか。どんな態度であろうと、はっきり言葉を口にされるまでひじりの哀に対する態度が変わることはない。


「じゃ、私は仕事するから」

「あ、ああ…」


 コナンに背を向け、地下室には哀がいるため2階のパソコンへ足を進める。階段を半ばまで進むと、ふいに用事を思い出して「あ、そうだ」と軽くコナンを振り返った。


「どうせ暇なんだろうから、洗濯物干しててね」

「何でオレが…」

「よろしく」


 ひじりがひらひらと軽く手を振って反論を許さないと、コナンはため息をついてソファから立ち上がる。
 冬休みに入ってから、コナンは看病を手伝うという名目で阿笠邸に入り浸ってる。もちろん本音は哀を護り、組織の動向を窺うためだ。だがここ最近、工藤邸の方でも何かが起こっているらしい。


(本当、後手に回らざるを得ない状況に頭が痛い)


 完全な無表情でパソコンに向かい、ひじりは内心で小さなため息をついた。





■   ■   ■






 ─── あの日、杯戸町のデパートの病院に行こうとした日。
 結局事件が起きたため行けなかったが、風邪が悪化して薄れていく意識の中感じた、蔑むような冷徹な視線を覚えている。
 いたのだ、あのときすぐに傍に、組織の人間が。自分に狙いを定めた、黒い影が。そしてそれは、確実にひじりにも手を伸ばす。
 無意識に縋り、求め、幸せを願ってくれる、護ってくれる、陽だまりの中で生きるべき彼女。哀の中で、ひじりの存在は大きくなりつつある。無条件に優しさをくれる彼女を、失いたくはない。


(…お姉ちゃんみたいだ、と言うのは…おこがましいかしら…)


 自分は、ひじりが実の弟のように可愛がる新一を殺しかねなかった毒薬を作った張本人だ。なのに嫌な顔ひとつせず偽りのない優しさをくれて、差し伸べた手を振り払わず、幸せを願ってくれ、あのノアズ・アークのゲーム内でゲームオーバーになる自分に、少しでも焦りを表に滲ませてくれた彼女がまるで姉のようだと、そう思うだなんて。

 しかしだからこそ、これ以上ひじりをこちら側に関わらせるべきではない。
 いつだったか、コナンに忠告した。もう二度となくしたくないのなら、これ以上ひじりを組織に近づけないようにと。
 それを今度は自分自身に向けよう。これ以上ひじりを組織に近づけてはいけない。彼女はもう、解放されたのだ。
 姉が残してくれた、両親からのカセットテープを腕に、そう心に決めた。

 だから、哀はひじりを避けた。
 関わらないでほしい、護ってくれなくていいと、幼い態度で示して。
 けれど決して言葉にはしない─── 否、できないのは、卑怯だろうか。


(護らなくていい…それでいいはず、それが最善のはず。それなのに)


 言葉にできないのは、言葉にして伝えたら、「そう」とひじりは頷いて言われた通りにするかもしれないからだ。
 ひじりは哀の幸せを願ってくれている。それは間違いない。けれど哀が「護らないで」「関わらないで」と伝えたら、本当に願うだけになりそうで。


(でも私、嫌なの…お姉ちゃんをまた・・なくすだなんて、嫌)


 大好きだった姉は、組織に殺された。姉の話を他人から聞くたびに、姉は確かに自分のことを大切に想ってくれていたのだと強く思い知る。
 明美の代わりのようにひじりを姉として求めれば、ひじりもまた、あの銀色に殺されるかもしれない。黒い影に取り込まれて、二度と帰って来ないかもしれない。


(そうなるくらいだったら、護ってくれなくていい)


 そう思うのに、ひじりの手を振り払いたいのに、変わらぬ態度で接してくる彼女にたったひと言が口にできない。避けることくらいしかできない。

 ひじりはすぐに哀が避ける理由に気づくだろう。彼女は敏く、勘が良い。
 だが気づいて尚、きっと態度は変わらぬまま哀に接し続ける。何も言わず、訊かず、静かに手を差し伸べ続ける。かつて、彼女が1人の少年にそうされたように。

 嬉しいと思う。悟ったのなら応えてくれとも思う。
 そのどっちつかずの自分の卑怯ぶりが、ひどく腹立たしかった。



 幕の裏で編 end.



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