169
哀のことは任せて行ってきて、と
ひじりがコナンと博士を見送って暫く。
窓際に肘を置いて頬杖をついていた
ひじりは、ふいに足音が耳朶を打ってそちらへ目を向けた。そこにいたのは小太りの男─── 暮木だ。どうやら戻って来たらしい。
「…誰…?」
「さっきのポルシェの人。哀は寝てて」
簡潔に伝えて軽く毛布をかぶった肩を叩く。そう、と哀は特に興味を抱かず再び目を閉じた。
ひじりもまた暮木から視線を外そうとして、ふと血相を変えたコナンと博士が走って来るのが見えたと同時、誰かの叫びが鼓膜を揺らした。
□ 4台のポルシェ 2 □
「うわぁあああ!!!!」
さらに響いた太い悲鳴に、
ひじりの視線が暮木へと向かう。哀もさすがに体を起こして外を見た。
目を見開いた暮木は怯えたように後退り、何事かとコナンが暮木のもとへと駆けつける。暮木のポルシェの助手席に座った男─── 伴場が、どうかしたのだろうか。駐車場内は薄暗くてよく見えない。
「いったい…何があったの…?」
「分からないけど、あの男の人に何かがあったことだけは確か」
冷静な目で伴場を一瞥した
ひじりは、それよりもと哀の額に手を伸ばす。冷えピタシートを貼ってはいるが既にぬるくなっており、カバンから替えを出して素早く貼り換える。
哀の息が荒くなり始めているし、目も虚ろだ。早く医者に診せた方がいい。だが診察まではまだ時間がかかるし、別の病院に行くにしても、何かしらの事件が起きたのだとしたら警察が出入口を封鎖するだろうから出られるかどうか。
暮木がおそらく警察へ電話をかける傍ら、コナンと博士はこそこそと何か話し合い、やや怖い顔でこちらを見ると博士だけが車に戻って来た。
「博士、何があったの?」
「ああ…実はの」
エンジンをかけた博士は、まず伴場が殺されていたのだと告げた。そして、先程玉子粥を出す店の前に並んで待っていると、昼のワイドショー番組の中継にコナンが不可抗力で映ってしまい、コナンもマークされていれば組織の人間がここへやって来るかも分からないため、デパートを出て別の病院を探すようにコナンから言われたとのこと。
「分かった。じゃあ急いで出よう」
「ああ」
頷いた博士が出口の方へ車を向けて走らせる。哀は力無く
ひじりの膝に頭を沈めて固く閉ざした瞼の上に腕を置いた。
日曜日のデパートは人の出入りが多く出口も列ができており、何とか前方へ滑り込んだ博士だったが、それからなかなか動かない。閉ざしたゲートに立つ男と前方車両との会話を聞く限り、警察から連絡があり、誰も駐車場を出ないよう指示されていたと判った。どうやら間に合わなかったらしい。
困った顔をする博士をちらりと見て、携帯電話を取り出した
ひじりはコナンへとかけた。
「───…と、いう訳なんだけど。どうする?」
『仕方ねぇ…空いたスペース見つけて大人しく待っているよう博士にも言ってくれ』
「分かった。できるだけ早めの解決をお願いね?」
『ああ。すぐに解決してやっからよ!それまで絶対動くんじゃねーぞ!』
ぶつりと切れた携帯電話を耳から離して博士に伝えると、博士は「じゃが、もしも奴らが来たら…」と焦りを滲ませたが、
ひじりは微塵の焦りもなく淡々と反論する。
「大丈夫。デパートから出れないってことは、向こうも車では入れないってこと。それにたとえ徒歩で来ても、まさかこんな大衆の目があるところで襲いかかりはしないだろうから、今は大人しく待っておこう」
「わ、分かった…
ひじり君がそう言うなら…」
博士が頷くが、少々息の荒い哀を気遣わしげに見て眉を寄せる。哀君は、と短く訊かれて
ひじりは答えることができなかった。
薬を飲ませようにもそのまま病院にかかるつもりだったから持って来ていない。あるのは冷えピタシートくらいだ。体は冷やさないようにして横にさせているが、容体が芳しくないのは素人の博士でも見て取れる。こじらせないためにも、できる限り早く医者に診せた方がいいのは明らかだ。
「…警察の人と相談したら、出してくれるかもしれない」
「そうじゃな、戻ってみよう」
出口へ続く列から離れ、元々停めてあった場所へと戻る。するとちょうど目暮を始めとした警官と容疑者らしいゴルフ仲間の3人も離れて行き、事件に忙しい中、唐突に割り込むようで悪いが早速交渉するため
ひじりが車を降りようと哀の頭を静かにどけようとすれば、ぐいと強く服の裾を掴まれて動きを止めた。
見ると哀の小さな手がしわができるほどに強く掴んでいる。まるで、行かないでとでも言うように。
──── 傍に、いて。
小さな哀の懇願が甦り、
ひじりが元の体勢へ戻って再び哀の頭を膝に置き直すと、僅かに服を掴む哀の手が緩む。しかし決して外れることはなかった。
「ごめん博士。新一呼んでくれる?」
「ああ…」
珍しい哀の様子に戸惑いながら、博士が目暮達に続こうとしたコナンを呼ぶ。コナンは口元に指を立て、大人しくしてろって言ったろと咎めるが、じゃがのうと博士が哀を振り返り、
ひじりは軽く身を乗り出してコナンと目を合わせた。
「哀の容体がちょっと思わしくなくてね。目暮警部か高木刑事に出してもらえるよう頼んでもらえる?」
そう言ったところで、ふと
ひじりは真っ直ぐこちらへと歩いて来る3人に気づく。
3人とも見知った人物だ。蘭と園子。そして─── ジョディ。なぜ3人がここに。
「しゃーねーな…念のため、高木刑事に頼んでパトカーでこっそり出るか。もしかしたら奴らが外で待ち伏せているかもしれねーから」
「─── 奴らって誰ですかー?」
ふいにコナンの耳元でジョディが囁き、冷や汗を滲ませて振り返ったコナンは、そこで初めて3人の存在に気づく。
どうしてここに、と問うコナンに園子が警官にコナンを迎えに来たと言えば通してくれたと答え、蘭が
ひじりと哀に気づいて目を瞬かせた。
「
ひじりお姉ちゃん。哀ちゃんも来てたんだ…」
「
ひじり?Oh、
ひじり!お久しぶりでーす!」
ひじりは蘭に軽く手を振り、にこにこと笑うジョディと目を合わせる。哀のことは、隠しはしない。
「そ、そういえば園子姉ちゃん名探偵だよね!?これから警備室に監視カメラの映像を観に行くんだけど一緒に行かない!?ね、ほら先生も行こ!」
コナンは一刻も早くここから離して哀から視線を逸らしたいのか、ジョディの手を引いて駆け出す。しかしジョディの視線は哀へ─── 赤みがかった茶髪へ据えられ、最後に
ひじりの方へと鋭い視線を向けた。
ひじりはただ、無表情にひらりと手を振り、庇うようにそっと哀の体へ手を添える。
(ついに気づかれたか…ま、いいけど)
ジョディに気づかれたところで、何ら問題はない。赤井は
ひじりと哀が知り合いで同居していると知っているし、以前彼と相談して哀のことを他のFBIの人間に話さないと決めた。
何かあったら赤井へ投げればいい。
ひじりは
FBIに報告はしたのだから、咎められる謂れは、ない。
← top →