167





「それにしてもあの暗号、結構難しかったですね」

「最初から彼女がハーフだった、ってことを知っててもあれだけじゃ博士には解けなかっただろうね。小学生の時点でこれだけの暗号が考えられたのなら…彼女は、素晴らしい女性になっているだろうな」






□ 博士の初恋 5 □





 小学校のイチョウの木の下。
 暗号から読み解けたその文の通りにイチョウ並木を歩いて見渡してみるが、人ひとりいなかった。まさかはずれたのか、それとも40年は待てなかったのか。


「ん…あれ、車じゃねぇか?」


 快斗がふいに指差して言い、みんながそちらへ顔を向けると確かにそこには白い車が停まっており、それを見てひじりがまだ停まってると呟いた。


「今朝、哀と歩美を学校へ送迎したときもあったよ、あれ」

「確かにそうね。私も見たわ」

「歩美も!」


 そのときは大して気にせずにいたが、朝からずっととなると、もしかしてあの車の主が。
 元太が走り出したのでそれに続いて車内を見ると、そこには誰もおらず、3人分ほどのファーストフードのゴミが残されていた。コーヒーの湯気がまだ立っているから、そう時間は経っていない。近くにいるはずだ。
 ひじりは顔を上げて辺りを見渡す。舞い散るイチョウに紛れて人の姿を探すと─── 見つけた。
 博士よりは年下の、歳を重ねながらも尚美しさを保った女性。やわらかな眼差しでイチョウを見つめ、その唇には穏やかな笑み。黒い帽子から覗く金糸が夕陽の光に溶け込むようで、思わず見惚れてしまうほど美しかった。


「…綺麗な人」


 ぽつり、呟く。隣で快斗が頷いたが、嫉妬はしなかった。
 さて、と博士を振り返る。博士も女性に見惚れており、子供達が促すが「彼女と決まったわけではないし…」と弱気なことを言う。
 ならばそれを確かめてくるといい。にやにやしながら「さっさと行けよ」と元太がやや乱暴に博士の背を押したのには頭を撫でて褒めておいた。博士にはそれくらいがちょうどいい。

 傍に近づいた博士に、彼女が気づいて振り返る。博士が何かを言うより早く、彼女が凭れていた木の陰から男がその姿を現した。
 一見して外国人と判る、サングラスをかけた男。男は彼女と軽く会話をして、男だけがひじり達の横を通って車に乗り込んだ。


「可愛いお孫さん達ですね」

「え、ええ…」


 かけられた声も穏やかなものだ。
 ひじりは彼女の顔を正面に捉え、ふと目を瞬かせた。
 彼女は─── まさか。


「フサエ・キャンベル…」

「えっ?あの人、あのフサエブランドの?」


 哀と蘭の影響でフサエブランドを軽く調べたとき、社長である彼女の顔を見たことがある。ということはまさか、博士の初恋の人がかのフサエブランド社長なのか。
 彼女が初恋の人なのかを問おうとする博士を遮るように、彼女はイチョウ並木を仰いで口を開く。


「今朝偶然ここを通りかかったら、このイチョウが目に留まって…あまりにも鮮やかでしたので…再びここへ参りましたの」


 イチョウはお嫌い?と問いかける彼女へ、博士は曖昧な返事をする。そうして、2人は同時に降り注ぐイチョウを仰いだ。その口元には笑みが描かれ、穏やかな、けれどその瞳に一抹の痛みを宿して。


「大人って…面倒くさいですね」

「そうだね」


 諦めをつけて、利口になって、悲しみに笑顔を塗り被せるすべを覚えて。
 博士はどうするだろうか。このまま別れてしまうのか。
 じっと成り行きを見ていると、少し世間話をした2人は、案の定互いに正体を明かさないまま別れようとした。


「じゃあ、これで」

「ええ…」


 やっぱり、とひじりが小さくため息をついて快斗が頭を抱え、2人は目を合わせて頷き合うと、車に乗ったまま待つ男を振り返る彼女の前にひじりと快斗が立ちはだかった。


「あなたは勘違いをしています」


 ひたりと彼女を見据えながら唐突に無表情で淡々と言うひじりに、彼女が戸惑う。続いて快斗が口を開いた。


「オレ達は博士の孫じゃなくて、博士と仲良くさせてもらってる友人みたいなものです」

「え…」

「ちなみに私は諸事情あって博士の家に居候させてもらっています。それでですね、今日は博士の初恋の人を捜しにここまで来ました」

「なっ、ひじり君に黒羽君!」


 事情を話し始めた2人に博士が慌てるが、2人はそれを軽く無視し、ひじりが博士のポケットから1枚の古びた葉書を取り出して掲げる。


「40年間、暗号は解けずにいましたが、博士はあなたと同じように待っていました」

「思い出の場所で。野井さんの家や蝶野さんの家で、あなたを待っていたんです」

「あなたを40年も待たせていたと知ったら博士が傷つくから、何も言わずに去ろうとしたんですよね」

「でもそれは博士も同じですので、おあいこですよ。今日だって、的外れな場所をひたすら捜し回っていましたしね」


 ひじりと快斗の交互の言葉に、全てをバラされた博士は困ったように苦笑して頭を掻いた。
 呆然と話を聞いていた彼女の目がゆるゆると博士に向けられる。本当に?と掠れた問いがあって、博士は彼女と目を合わせると苦笑したまま、けれどしっかり頷いた。


「…、…そう、でしたか…」

「……今でもイチョウは大好きですよ」


 にこり、博士が照れたように笑う。その言葉に彼女は目を見開き、薄っすらと涙を滲ませた。
 それを見て、そろそろとひじりと快斗は後退って博士と彼女の視界から消える。子供達にも手を振って退散を促した。子供達が素直に従ってなるべく音を立てずにその場を離れれば、黙って様子を見ていた男がくつりと喉を鳴らす。


「とんだキューピッドがいたもんだ」

「あ、すみません。旦那様でしたか?」

「でしたら、とんだご迷惑を」

「いやいや。私の妻がフサエブランドの大ファンでね…」


 Thank you、と流暢な英語で礼を言われ、ひじりと快斗はぺこりと頭を下げる。そして博士達の方を振り返り、2人はすっと息を吸った。


「博士ー!せめて一緒に食事を済ませてメアドだけでもゲットして来いよなー!」

「今日の夕食は抜きなのでそのつもりで!」


 2人の声援に、博士が顔を赤くして慌てて振り返る。それに揃ってきれいな敬礼を返し、さっさと踵を返して駆け出すと、つられて子供達も駆け出した。
 子供達と快斗は満面の笑みを交わし、ひじりもまた、小さくやわらかな笑みをこぼした。ぱし、と軽く手を叩き合う。

 離れた所で車のエンジンがかかる音がして、「ビリー!?」と慌てる彼女の声。「ゆっくりして来るといい」と穏やかな声が聞こえて、車のエンジン音がこちらへ向かい、ひじり達を追い越して窓からひらひらと手を振られた。


 さぁ、40年ぶりの再会を、楽しんで。






 博士の初恋編 end.



 top 

感想等はこちら↓
  うぇぼ
拍手・うぇぼ励みになります!