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 この間博士と子供達だけで行ったキャンプの一件以来、歩美が哀のことを名前で呼ぶようになったことには早々に気づいた。
 今まで子供達と少し距離を取っていた哀も、それからは徐々に歩み寄り始めているようだ。

 良い変化だとひじりは思う。けれど依然、組織の黒い影は迫り続けている。
 何かしら手を打たなくてはならない。あの艶然と微笑む冷たい顔と、哀が向かい合う前に。





□ 博士の初恋 1 □





 昨晩子供達がゲームをしに来てそのまま泊まり、ついでに快斗も呼んでプチマジックショーを開いて盛り上がった。
 しかしそのまま子供達が眠ってしまったので片付けは翌朝に回すことになり、軽い朝食を終えてみんなで片付けをしていると、何やら博士が慌て出した。何事かと思って聞いてみれば、大事な手紙を失くしてしまったらしい。とりあえず片付けをしながら手紙を探すが、子供達がだいぶ散らかしてしまったためなかなか見つからない。


「博士、手紙ってどんなのだ?」

「葉書サイズの封筒に入った手紙じゃよ」

「どんな手紙?」

「知り合いの博士の息子さんの結婚式の招待状じゃ」


 快斗とひじりがそれぞれ問い、ふむふむと頷きながら探すがやはり見つからない。
 何でも今日中に出さなければならない出欠の返信用葉書も同封されていたようなので、見つからないと先方に大変失礼だ。
 だから早めに出しておけと届いた日に忠告しておいたのに。ひじりと快斗が同時に小さなため息をつく。


「そんな大事な手紙ならちゃんと仕舞っとけよな!」

「そうですよ!」


 片付けついでの物探しに駆り出されて元太と光彦が半眼になるが、失くした原因は子供達にもあり、さらに言うならここまで散らかしたのは昨夜テンション高く騒いだ元太だ。
 あくびをしながら哀が「文句言わないでくれる?」と原因が彼らにもあることを指摘し、2人が言葉を詰まらせる。ひじりはパンパンと手を叩いて手が止まった2人を再び動かした。


ひじりさん、手紙がありそうな場所に心当たりありませんか?」

「んー…」


 哀がいつも眠そうなことに突っ込むコナンの声を背景に、ゴミ袋を片手に持った快斗に問われ、ひじりは軽く首を傾げる。
 確か、博士は手紙や葉書を読み終えるとテレビの上に置く癖がある。それで以前も失くすことがあったためひじりが専用のレターボックスを用意したのだが、最初はともかく今では再び癖がぶり返し始めていた。そのことについては後で説教するとして。
 テレビの方を見れば、上に数枚の手紙や葉書。だが既に誰かが探している可能性もあると思いながらもひじりがひょいとテレビの裏を覗きこむと、そこにもたくさん落ちていることを確認してまだ誰も探してみなかったのかと内心呆れた。もちろん、それは自分にも言えたことなので口にはしない。


「博士、あったよ」

「おお、流石ひじり君!」


 博士と共に子供達も寄って来たため、腰を屈めて1枚1枚確認していく。
 年賀状に暑中見舞いに免許更新の催促状。どれもこれも失くしたと思っておったものばかりじゃ!と博士が歓声を上げるが、だからまずレターボックスに入れて管理するよう言いつけておいたのに、とひじりはじろりと半眼で博士を見上げる。それに博士がハハハと乾いた笑みを浮かべ、すぐに「すまん」と頭を下げた。素直でよろしい。無言で顔を戻して葉書へ視線を戻す。


「あら、可愛い字」

「子供が書いた葉書だね」


 所々薄汚れて日に焼けた、随分古いものだ。しかし目的のものではないので詳しく見ずに後ろにいる博士に渡してさらに見ていくと、1枚の白い封筒の中から結婚式の出欠用返信葉書が出てきた。


「あ!」

「これだな!」


 歩美とコナンが声を上げ、ひじりは博士に渡してもらうために歩美に封筒を渡して立ち上がった。
 残ったものは博士用のレターボックスに入れ、みんなの輪に戻って来ると、何やら1枚の葉書を前に話している。
 確かそれは、先程見た子供の字の古い葉書。博士によると、何でも博士が40年前に友人からもらった葉書らしい。


「よ、40年前?」

「…ってことは、博士が小学校6年生のときの?」


 コナンが驚き、哀が冷静に年齢を逆算して問う。
 博士はああと頷いて思い出話をしてくれた。

 40年前、夏休み明けの最初の登校日。
 遅刻しそうだった博士はいつもとは違う近道を通り、そこで青い顔をして立ち往生していた下級生の女の子と出会った。
 目深にかぶった帽子の下にはくりくりとした瞳の可愛い子。どうやら犬が吠えて怖いため、通れなかったようだ。
 その犬を飼っている家は、近所でも有名な大型犬を飼う野井という家だったため仕方ないとは思ったが、博士の背に隠れて通る女の子があまりにも怯えていたため、訳を聞いたら小さい頃に飼い犬に噛まれて以来、動物嫌いになってしまっていたらしい。


「それでな、それは可哀想じゃと思って、ハムスターを飼っている知り合いの蝶野さんの家に連れて行ったんじゃ!最初はびくついていたんじゃが、日を重ねる毎に慣れてきたようで…」


 2ヶ月も経つと、すっかり動物好きになったらしい。最初は吠える犬に怯えて通れずにいた野井家の前も、笑って通れるまで。


「へぇー、そりゃすごい。きっと博士のお陰だな、その女の子がそこまで動物好きになるなんてさ」

「そ、そうかのう…そうじゃと嬉しいが」


 快斗の偽りのない言葉に、博士は照れて頭を掻く。
 博士がどんな小学生だったのかは分からないが、きっと今と変わらず、性根の優しい子供だったのだろう。


「じゃあ博士とその子、毎日一緒に学校に通ってたんだね!」


 淡い恋を予想させる話に、歩美が目を輝かせて問い、博士は頷いたが秋の間だけじゃったがなと僅かに苦みを含んだ笑みを返した。
 子供達が「え?」と目を瞬かせる。ひじりも首を傾げ、快斗が「どういうことだ?」と続きを促した。


「そう…11月末の雨の中、いつものように野井さんの家の傍でその子が来るのを待っていたんじゃが、待てども待てども来なくてのぉ…」


 風邪でもひいたのではないかと、博士は学校帰りにその子の家に寄ったが、その家は今朝引っ越したと隣家の人に言われたらしい。


「えーっ…」

「博士に黙ってですか?」

「さよならぐらい言えばいいじゃんかよ!」


 その唐突な別れに、当然子供達は不満を口にする。博士は慌ててフォローを入れようとしたところで、今まで黙って聞いていた哀が静かに口を開いた。


「きっと、言いたくても言えなかったのね…『さよなら』はお互いの気持ちに針を刺す、哀しい言葉だもの」

「……」


 哀の言葉に、ひじりが微かに俯く。
 その通りだ。別れの言葉は、言われる側だけでなく、言う側にも傷をつける。
 二度と会えないのだと、今まで通りに話すことはできないのだと、その事実を両方に突きつけるから。

 それでもひじりはあのとき、全てを覚悟して快斗に別れを告げた。
 二度と会うことはない。自分は死ぬだろう。けれどできるのなら、あなたを傷つけるその針に通した糸を辿って来てと。

 暗い雨の日を思い出していると、ふいに左手にぬくもりが触れた。顔を上げれば快斗が優しく笑っていて、その空を思わす青い目が緩やかに細められている。


「……」


 ふ、とひじりも肩の力を抜いてやわらかく目を細める。握られた手を繋ぎ直し、軽く力をこめてその存在を確かめた。
 哀の言葉にそれでも納得がいかない様子の子供達へ、快斗が笑顔で言葉を口にする。


「そんな顔すんなって。『さよなら』を言わなかったってことは、『また会おう』ってことだ。そうだろ、博士?」

「ああ、黒羽君の言う通りじゃ。お礼の言葉はちゃんともらったよ!その日、うちの郵便受けに入っておったこの手紙でな!」


 コナンがその葉書を手に取り、ひじりも改めて葉書を見せてもらうと、40年間ということもあってやはり古い。しかし大事に保管はされていたのだろう、大きな傷も汚れもない。だがそれをテレビの裏に落としたまま放置していたというのはいかがなものか。
 女の子からの葉書には切手が貼られておらず、おそらく引っ越す前に博士の家の郵便ポストに直接入れたのだろう。
 さてさて、内容は。子供で下級生だったと言う割に字は可愛らしく読みやすい。これはさぞいい女性に育っているだろうなと、ひじりは親父くさいことを内心で呟いた。






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