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 ジョディを抜いた赤井とひじりと快斗との話し合いで、哀に関してはベルモットが動くまで様子見ということになった。
 赤井は哀に証人保護プログラムを受けさせるつもりはないし、今逃がしたところでベルモットほどの相手がそうやすやすと諦めることはないだろうから、それならば哀を餌に迎え撃った方がいいという結論だ。


「そのしつこさは、お前もよく知っているだろう」

「…ええ。組織は裏切り者を決して許さず、逃さない。その血の制裁を、私は何度も見てきました」

「でも赤井さん。それって、哀を囮にするってことですよね」


 ひじりさんと同じように、と固い表情を向ける快斗を、赤井は一瞥をやって不敵に笑う。


「殺させはしないさ。お前達も大切だと思うなら、護ってやればいい。それだけの実力はつけさせたつもりだがな」


 それに───。
 赤井はぽつりと言いかけ、ひじりを振り返る。だがその静かな無表情を見て口を閉ざし、何でもないと首を振った。





□ 侵入 3 □





「……」

「……」

「……」

「……」

「……何?新一」

「えっ!?いや、別に何でもねーよ!?」


 ハハハ、と笑うコナンに、それで誤魔化されると思っているのかと思うが口に出さず、ひじりは小さくため息をついた。
 最近、コナンの様子が少しおかしい。確か博士と子供達が小五郎の事務所へ遊びに行き、そこで会った依頼人の男の時計探しから発展した殺人事件があったときからだ。
 そういえば、昨日はひじりがブルーパロットで行われる快斗のマジックショーに出掛けている間、博士の相談を受けて東京までやって来た平次と一緒にジョディの家に行ったと博士から聞いたことを思い出す。


(─── まさか)


 コナンはジョディを疑っているのか。
 そういえば、以前ひじりがジンと再会したあの日、杯戸シティホテルで起こった殺人事件。もしコナンが、あれを境に姿を消したクリス・ヴィンヤードが組織の仲間であるという考えに至っていたのだとしたら。
 最近現れた、身の周りの怪しい外国人の女。それでジョディに目を向けたのも納得できることではある。


「…新一。私に何か訊きたいことがあるんでしょ?そこに座りなさい」


 見ていた雑誌を閉じて向かい側のソファを促すと、ひじりの淡々とした声音から真剣な響きを読み取ったコナンが無言で言われた通りソファに腰を下ろす。
 眼鏡越しに向けられる青い目。どこか固い表情が、もしかしたらひじり自身をも疑っているのだと察してしまった。それでも表情を動かすことなくひじりが無言で促していると、少しの沈黙のあと、コナンがゆっくり口を開く。


「オメーと黒羽が仲良くしてる、ジョディ・サンテミリオン…あの人について、何か知ってることはあるか?」

「帝丹高校新任英語教師。ゲーマーでちょっと日本語がおかしい、私と快斗に良くしてくれる人─── ということを、聞きたいわけじゃないんだよね?」

「……」

「新一が何を考えているのかは分からないけど、あの人は悪い人じゃないよ。私が保証する」

「……そうか」


 コナンがどうジョディを不審に思おうと、彼女は現役のFBI捜査官、ベルモットを血眼で追って来た人間だ。それを分かっているからこそ、ひじりは淡々とコナンの疑念をばっさり切り捨てた。
 しかし、コナンはやはり固い表情のまま自分の膝に視線を落とす。話はまだ終わっていないらしい。ひじりは無言でコナンの言葉を待った。


「……ひじりを」


 ぽつり、コナンが口を開く。


「オレは、ひじりを本当の姉のように思ってる」

「……」

「……信じて、いいんだよな。オメーはオレと蘭の姉貴分だって。オレと蘭は、ひじりに大切にされてる。そう…信じて、いいんだよな」


 やはり、コナンはひじりにも疑惑の目を向けていたか。
 いつもなら強く輝く青い目が、脆さを滲み出して揺れている。ひじりに対して抱いていた絶対の信用と信頼が、揺らいでいる。

 ひじりの空白の5年を、コナンはやっと不審に思い始めた。
 家族を殺し、家を消し。証拠を残さず全てを奪い取っていったその手口に既視感を覚えたのだろう。さらに初対面でありながら哀を信用し受け入れたことで疑惑の種がコナンの心に植えられ、今までに見せてきたひじりの技術や知識を目の当たりにすることで芽を出した。一度芽吹けば、あとは育つだけ。


「…私が、組織の人間だと疑ってるの?」


 ひじりが常の無表情で抑揚なく問うた瞬間、空気が張り詰める。
 博士も哀も不在でよかった。そんなことを思って、ひじりはじっとコナンの目を見つめる。深い深淵を宿す目で、向かい合う。
 どこか泣きそうな目をするコナンに、ひじりはふっと雰囲気を和らげた。


「違うよ」

「え…」

「私は組織の人間じゃない。それは確か。新一と蘭を実の弟妹きょうだいのように思って、とても大切に想ってる。それも、確か」


 嘘ではない。ひじりは組織の人間ではない。コナンも蘭も大切に想っている。そう、確かな事実だけを告げる。
 コナンの目が見開かれ、ほっと息をつく。そっか、と安心したような言葉が漏れた。


「悪ぃ、ひじり。変なこと訊いて」

「いいよ。新一も大変だね、私も疑わなきゃいけないだなんて」

「…ちょっと、過敏になってたかもな、オレ」


 はは、と笑みを浮かべ、ソファから下りたコナンは用は済んだとばかりに玄関へ向かって行く。靴を履いたところでふと振り返った。


「そうだひじり、気をつけろよ。最近怪しい黒いニット帽の男もうろついてたりするからな」

「…分かった」


 赤井さんまで疑われてる。内心で苦笑を浮かべ、ひじりは「じゃーな」と笑顔を見せて出て行ったコナンを見送った。
 玄関のドアが閉まり、帰っていくコナンの後ろ姿を窓越しに見て、ひじりはやわらかな雰囲気も削ぎ落とし完全に表情を消した。


「『5年間、どこに誰といたんだ』…そう訊かないのは、新一の優しさかな」


 そして甘さでもあるよ、とどこまでも感情の無い声で呟いた。





■   ■   ■






 阿笠邸から毛利探偵事務所へ帰る道中、コナンはぎちりと音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めた。
 疑いたくはない。けれど疑わしい。訊けずにいた問いが、まだ喉の奥に貼りついている。


ひじり、お前は何者なんだ…“何”に、なっちまったっていうんだ)


 この、5年の間に。ひじりが攫われてから帰って来るまでの間に、いったい何が彼女を変えた。
 5年前、ひじりは普通の少女だった。明るく、よく笑い、新一と蘭の姉代わりの、どこにでもいるような優しい少女だった。
 なのに今は、一般人が持ち得るはずのない技術や知識を身につけていて、学んだとしたら誘拐されている間で、ならばそれを使えば誘拐犯から逃げ出せたんじゃないのかとコナンに思わせる。
 逃げ出せなかったのではなく、本当は逃げ出せたのに逃げ出さなかったのだとしたら。
 記憶の中のひじりはもういないのかと、そんな絶望を抱かせる。


(灰原と仲良さそうなのも、本当に気が合っただけだってのかよ…)


 思えば到底人に懐きそうにない哀も、蘭とは違いほぼ初対面からひじりと気安くしていて、気を許しているように見える。
 だからもしかしてと、そんなことを思うのだ。違うだろう、違うはずだ、違ってくれと、祈るように口にした。
 信じていいんだよな。オレはひじりに大切にされていて、ひじりはオレの姉みたいなもので。


「信じるぞ…信じてるからな、ひじりっ…!」


 それでも、どうしても訊けなかった問いは疑惑の種として心に植わったまま、既に芽吹き、育とうとしている。
 訊けば、それで終わる気がした。あの深淵を宿した目の奥を見るのが、怖かった。


(黒羽は…知ってんのか?)


 ひじりにべた惚れで、ひじりもまた、誰よりも想っている自分と同じ顔の少年。
 疑い出せばきりがない。足を止めてかぶりを振り、コナンは呼吸を落ち着けて今は見えない阿笠邸を振り返る。
 かえってきた少女。変わってしまった女。けれど彼女は、蘭と同じくらい大切な人で、自分の姉だ。
 信じよう。いつか、ひじりの真実を知るまでは。たとえそれがどんなに知りたくないことだったとしても。

 絶望するのはまだ、早い。



 侵入編 end.



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