99





 マスコミが押し寄せる杯戸シティホテル。
 黒いコートを纏い、帽子を深くかぶってマフラーを巻いた人物は、その壁を掻き分けてロビーへと入りフロントに声をかけた。


「予約していた黒澤ですが」

「はい、少々お待ちください。確認致します」


 お待たせしました、黒澤様ですね。こちらに記帳をお願いします。
 そう言われて紙を差し出され、淀みなくペンを動かしてさらさらと文字を書いていく。
 スタッフが受け取り、確認して微笑みながらカードキーを手渡した。


黒澤くろさわ 道流みちる様。どうぞごゆっくり」





□ 深淵を覗く 4 □





 ホテル前に停めた黄色のビートル。
 その中で助手席に座り早速先程の事件の速報ニュースを見ていたコナンは、それぞれ事件直後の7人の居場所をメモに描き出し、これだけじゃ分からないと頭をひねっていると、ふいに今まで黙っていた哀から「エルキュール・ポアロのつづりって分かる?」と訊ねられて胡乱気に眉をひそめた。
 白乾児をちゃんと飲んだのかと訊けば飲んだと答えられ、気分が悪くなっただけと言われてまだ効果が出ていないことを察する。
 とりあえずポアロのつづりを教えて何で訊いてきたかを問えば、組織のコンピュータから薬のデータをMOに落とそうとしたらパスワードに引っかかったのだと答えられた。


『ダメだわ、ポアロでも開かない…』

「パスワードが“ポアロ”?どういうことだ?」

『試作段階のあの薬を、組織の人達がたまにこう呼んでいたのよ。シリアルナンバーの4869をもじって“しゃろく”、シャーロック…“出来そこないの名探偵”ってね』


 だから思いついた名探偵の名前を手当たり次第に入れているらしいが、そんなに簡単にはいかないらしい。
 コナンは“シャーロック”“できそこないの名探偵”と頭の中で繰り返し、少し考えて口を開いた。


「“シェリングフォード”…つづりは“Shellingford”」

『え?そんな探偵いた?』

「いいから入れてみろ」


 疑う哀を促すと、すぐに驚いた声が上がった。


『嘘…開いたわ。どうして?』


 驚く哀に、作家のコナン・ドイルが自分の小説の探偵を“シャーロック”と名付ける前に仮につけた名前が“シェリング・フォード”で、つまり“出来そこないの名探偵”というわけだと教えると、皮肉のように組織にしては洒落てる、と呟かれた。

 コナンは時間を確かめた。そろそろもう1時間が経とうとしていて、ピスコが戻って来る可能性がある。
 少し焦りながらまだ変化の見えない哀に体は何ともないのか訊けば、哀は何ともないわけないじゃないと素っ気なく返し、薬のデータをMOにコピーして酒蔵のどこかに隠しておくから後で取りに来るのねと続けた。
 私の死体を組織が運び去った後で、と付け加えられて思わず声を荒げかけたコナンは、ふいに焦りに満ちた博士の声に呼ばれて振り返った。

 それと同時、博士の車の前に黒いポルシェが停まる。
 思わず大きく目を瞠れば中からジンとウォッカが降りて、博士がピスコと連絡が取れたんじゃあ、と言うがそれはありえない。あの7人を解放する前に目暮から電話が来る算段となっているはずだからだ。

 ならばなぜ、彼らはここにいる?
 その答えはウォッカが手にしたモバイルパソコンを見て憶測がついた。
 おそらく哀の前にあるパソコンに発信機が内蔵されていて、何度電話をかけても繋がらないから不審に思い発信機を頼りにここに来たのか。
 慌てて哀へジンとウォッカが来たことを知らせるが、返答はない。くそっと舌打ちをして目暮へと新一の声で電話をかける。


「警部!工藤です!!今ホテルに入った黒服の2人組の男に職質をかけてください!!」

『え?どこにいるんだね君は!?』

「いいから早く!!」


 頼んだが、間に合うかどうか。何せホテルの出入口にはマスコミと客でごった返し、その中で2人を見つけるのは困難だろう。
 先程哀の悲鳴のような声が聞こえた。あれが元の姿に戻った証であるなら、暖炉に隠れていられるはずだ。
 コナンは一度こちら側のマイクを切り、耳を澄ませて向こうの状況を探った。





■   ■   ■






 黒いジャケットに黒いパンツを身に纏い、マフラーを首に巻いてホテルの一室からホテル前を双眼鏡で見ていた女は、無表情に小さなマイクへ唇を寄せ報告をした。


「目標を確認。ホテルに入りました」

『了解。パターンⅡへ移行』


 短い返事を聞いて双眼鏡を懐に仕舞い手元の小さな機械をいじってチャンネルを合わせれば、今度は子供の声が聞こえてくる。暫くそれを黙って聞き、『奴らは行っちまったか』という問いに『ええ』と答える声まで聞いて、女は踵を返した。
 部屋を出て旧館へと向かう。もうすぐ改装だが、部屋はまだいくつか残されているので歩いていても不審には思われない。
 やや俯き加減で歩いてマフラーで顔を隠していると進行方向から2人組の男が歩いて来て、女は廊下の端に寄り2人とすれ違った。
 男2人はどちらも女に目を向けず歩いて行く。それをやり過ごして再び歩き出し、鍵が壊された一室の前まで来ると周囲に誰もいないことを確かめて中に入った。


(……確か暖炉の中だったか)


 迷わず暖炉へと向かい、中へと入って上を見上げる。そうすれば中で両手両足を突っ張らせたままの女がいて、目を見開いて見下ろしてきた。
 手の中で機械をいじり、妨害電波を流して雑音のみが流れたことを確認して口を開く。


「大丈夫。……助けに来たよ、志保」

「……ひじり?」


 しゅるりとマフラーをといて顔を上げる。そこにあった顔は間違いなくひじりのもので、彼女は耳につけていたイヤホンを外して今度はヘッドセットをつけた。


「志保を確認。怪我は…なさそうです」

ひじり、あなたいったい」

「ストラップ、ちゃんと持っててくれてありがとう。あとその眼鏡似合ってないね」


 志保と呼んだ女の問いを遮り、無表情に少しだけからかった彼女はヘッドセットから流れてくる声に「段取り通りに」と短く返して志保に声をかける。


「じきにピスコがここへ戻って来る。そのまま屋上へ上がって。そこに新一を誘導するから、来るまで待っててほしい」

「わ、分かったわ…ねぇ、あなた工藤君には」

「内緒。だから、私がここへ来たことも合流することも内緒にしておいて」


 言い、しぃっと唇に人差し指を立てて機械をいじり、眼鏡と博士達との通信を復活させた彼女は志保が屋上へ出たのを見送って暖炉を出た。同時にヘッドセットから通信が入る。


「あ、今志保は屋上に…」

『止めて!!ジンとウォッカが屋上へ向かった!』

「何!?」



 慌てて暖炉を覗きこむが、先程屋上へ出たのを見送ったばかりだ。
 彼女はちっとひとつ舌を打って冷静を取り戻し、無表情に戻ると酒蔵を飛び出て屋上へと向かった。


「すぐに屋上へ向かいます。ピスコの方は」

『今新一が目暮警部と新一の声で話をしていたから、もう問題はない。私も監視をやめて新館のテラスへ出るところだから、そのつもりで』

「……できれば使いたくない手でしたが」

『使ってこその手でしょう。新一がそちらへ向かっているから、屋上には決して近づけないように』

「了解」


 彼女の返事を最後に通信が切れる。ヘッドセットを外して懐に戻し、イヤホンをはめ、マフラーを巻き直して帽子を深くかぶった。
 イヤホンからは傍受したコナン達の声が聞こえてきて、それを聞く限り、やはり志保はジンとウォッカに遭遇してしまったようだ。
 内心舌を打ちながら屋上へと向かっていると反対側の通路から走って来る子供の姿が見え、彼女は屋上へ続く階段に足をかけようとした子供の肩を掴んで止めた。その際、ほんの少しだけ声を変えて。


「んだよお前、放せ!」

「君が行くべき場所はここではない」

「るせぇ、そこを…!」

「君は酒蔵でピスコを迎え撃つんだ」

「え…」


 声を女のものから、男のものへ。
 低く冷静な成人男性の声にコナンが顔を上げてきたが、帽子をかぶせることで阻止し、その小さな頭を優しく叩く。


「彼女は俺に任せろ。ピスコは君に任せる」

「…お前…?」

「行け」


 コナンの背を叩いて屋上ではなく酒蔵の方へと向けさせ、躊躇いながらもひとつ頷いたコナンが酒蔵へと駆けて行くのを見送る間もなく階段を駆け上がる。
 気配を殺し、屋上へ続く扉を背に外を窺うと2人の黒服の男がいて、傍受して聞いた通り志保が撃たれ鮮血を雪に滴らせていた。


(……初めまして、だな?)


 小さく口角を上げ、ジャケットの内側に縫いつけたホルスターから麻酔弾がこめられた銃を取り出す。
 暗く煌めく瞳が見据えるのは銀髪の男。工藤ひじりからあらゆるものを奪った男だ。


 カチ


 躊躇うことなく安全装置を解除して、ひとつ深呼吸をすると足を踏み出した。






 top