100





 暖炉から屋上へと這い上がった志保は、荒い呼吸を繰り返しながら壁に手をついた。
 先程ひじりと会話している間、電波が遮断され少しの間通信ができなくなっていたことで博士が慌てていたが、おそらくひじりが組織と繋がりがあることを知られたくなくてそうしたのだろうと判断し、彼女の意志に従うことにして、一時的な電波障害じゃないの?と適当に誤魔化した。


(…本当に来たのね…)


 ぼんやりと内心で呟く。
 本音はここに来てほしくなかった。けれど本当に来てくれてほっと安堵の息がもれ、偽りなく嬉しいと思った。
 あとは彼女に言われた通り、ここでコナンを待とう。眼鏡から聞こえてくる博士の声にコナンからの伝言を伝えられ、どうせ動きたくても体がだるくて動けないと苦く笑った志保は、まさかまた生き長らえることができるのかと、少しだけ呆れた。





□ 黒との再会 5 □





 パシュッ


 希望にも似たその思いは、しかし唐突に響いた音と右肩を貫通した衝撃に打ち砕かれた。愕然として振り返り、倒れ込むように壁に凭れて右肩に手を当てる。ぬるりとした生温かいものが手の平に触れた。


「会いたかったぜ…シェリー」


 低い男の声が耳朶を震わせる。まさか。何でここに。
 ひじりがはめたのか。やはり彼女は─── いいや、違う。ひじりは助けると言った。その言葉に嘘はない。
 けれどコナンが来ると言われて這い出た屋上には、銀髪をなびかせる黒が立っている。だが、ウォッカはいてもその横にひじりがいないのを見て、やはり彼女は裏切ったりはしていないと思い込むことにした。


「綺麗じゃねーか…」


 ぽつり、銃を構えた銀の男─── ジンが呟く。


「闇に舞い散る白い雪…それを染める緋色の鮮血。組織の目を欺くためのその眼鏡とツナギは、死装束としては無様だが…ここは裏切り者の死に場所には上等だ。そうだろ?シェリー」


 冷酷に煌めく深緑に射抜かれて、息を呑んだ志保はしかしゆるゆると笑みを浮かべて息を吐いた。
 撃たれた右肩が熱い。痛みも強く溢れ出た血が地面に滴り赤く染めていくが、それを意識の外へ投げ捨てて唇を震わせる。


「よ、よく分かったわね…私がこの煙突から出て来るって」


 ひじりではないことを祈るように答えを求めれば、ジンは「髪の毛だ」とその右手につまんだ髪の毛を掲げてみせた。
 風になびく赤みがかかった茶髪は、自分が持つ色。それが暖炉の傍に落ちていたことと、暖炉から聞こえてしまった吐息でバレてしまったらしい。
 ああ、何だやっぱり違うのか。見抜かれていたというのに、志保は安心したように息をつく。

 ひじりはやはり裏切ってなどいない。彼女は真実、志保を助けに来てくれたのだ。そして合流する前にこの2人が現れてしまった。ならば今頃、ひじりは少しは焦りに顔を歪めてくれているだろうか。
 ジンを殺すと明言したひじりは、しかしジンが奪いに来たときに迎撃するだけで、きっと今助けには来ないことは分かっている。今姿を現したとして─── ひじりには、デメリットしかない。命の危険を冒してまで志保を助ける理由が、ないのだ。

 俯いた志保がそんなことを考えているとは知らず、ジンは口の端を吊り上げて笑い、本当は暖炉の中で殺してやってもよかったが、死に花くらい咲かせてやろうと思ってなと残酷な親切を述べる。


「あら…お礼を言わなきゃいけないわね。こんな寒い中待っててくれたんだもの。─── あなたが親切にするのは、ドールくらいだと思ってたわ」


 “ドール”。名前とも呼べないそれを紡げば、ジンは笑みを消した。ゆっくりと凄惨に目が細まる。逆鱗に触れたことは理解したが、それで後悔するようなら口にはしない。
 しかしジンは銃弾を放つでもなくそれ以上表情を変えるでもなく、思考を切り替えたように再び冷たい笑みを口に刷いた。


「フン…その唇が動くうちに聞いておこうか。お前が組織のあのガス室から消え失せたカラクリを」


 その言葉に、まだ組織が例の薬に幼児化する作用があることを知らないのだと察した。
 ならば尚更口を開くわけにはいかない。MOにコピーした薬のデータは諦めるしかないだろうが、コナン達を危険に晒すわけにはいかない。
 コナン達に危険が迫れば、同時にひじりにも組織の手が及ぶということだ。それだけは、あってはならない。彼女はもう、檻の中ではなく愛する者と手を取り合い陽だまりの中で生きるべきなのだ。


「ねぇ、ひとつ聞かせてくれる?…どうしてドールを手放したの?」

「……」

「信じられないのよ、どうしても。あなたがドールを手放すはずがないと思っていたから」


 荒い息の合間に問うと、完全に笑みを消したジンが躊躇いなく引き金を引いた。パシュッと乾いた音と共に軽い衝撃が走る。肌が裂かれて血が溢れ、雪をさらに赤く染めた。
 左太股ともう一発右肩に食らってよろめくと、眼鏡の通信機能に雑音が混じり、やがて完全に聞こえなくなった。同じだ。先程ひじりと言葉を交わしたときと。


「─── その答え、是非私も知りたいところなんだけど」

「え…?」


 ふいに静かな空間に響いた女の声に、思わずジンと対峙していることも忘れて屋上の入口へと目をやった。
 ドアが開き、さくりと雪を踏んで現れた女。短い髪。黒い瞳。整った顔は無表情。先程と違って帽子はなく、黒いジャケットに黒いパンツを身に纏い、風に吹かれてマフラーがなびいて、その手には黒光りする銃が握られている。


「ドール…!?」


 ウォッカが突然の闖入者に驚いて女へ銃を向ける。だが撃ちはしない。
 撃つべきか否か、迷ったウォッカは答えを求めるようにジンを顔だけで振り返ったが、ジンはただ女を目を瞠って見つめるだけだ。


「何で…ここに」


 ジンがいるのに、どうしてここへ来た。
 来るはずがないと分かっていた。奪わせはしないと決意を秘めた声で言い放った彼女は、また全てを奪いに来たジンを迎え撃つそのときが来るまで、命を危険に晒しはしないはずだ。
 だというのに、悠然と立って真っ直ぐにジンを向く彼女は、確かにここにいて存在している。


「何でも何も。助けに来ただけだよ」


 志保の驚愕の眼差しに、女はけろりといとも簡単に言い放つ。
 そんなはずはない。ここへ来るはずが、助けに来るはずがないのに。
 思わずがくりと膝をつくが、それでも視線を外さない志保同様、ジンもウォッカも女から視線を外すことはなかった。


「─── お前は、誰だ」


 ふいに確信したようにジンが詰問すると、女は無表情に小さく肩をすくめた。


「工藤ひじり。20歳。性別女。ジンにあらゆるものを奪われ、そしていずれ奪いに来たときに迎え撃って殺す女。
 そして───

 ─── 俺は、正義の味方もどきってところか?」


 がらりと一瞬で声が変わった。聞き慣れた女の声から、全く知らない低い男のそれへ。
 ひじりの姿をしたそれがにぃと唇を歪めて笑う。女が本当はひじりではないということが鈍い思考で理解できない。
 ジンが志保からそれへと向け躊躇いなく引き金を引いたが、さっとドアの内側へ身を隠すことで躱される。


「っ、てめぇ、誰だ!!」

「言っただろ?俺はそこの女を助けに来た。それで、この顔の持ち主がシェリーやジン、ウォッカ達のところにいた頃に仲良くしてたようだったから借りたんだ」


 思考がついていかない。苛立ち混じりにウォッカが数発ドアへ撃ち込むが、ジンはただ沈黙していた。その様子に、さすがの志保も訝しむ。顔はひじりの顔を借りたと笑う男の方に向けているのに、どこも見ていないような。


「助けになるよう請われたのさ。ドールにな」


 ドアの向こうから楽しげな男の声が聞こえてくる。
 何のことだ。いったい何の話をしているのだ。
 助けに来た?誰が。請われた?誰に。ドールに。─── ひじりに?



 さく



 それは小さな音だったはずなのに、銃を乱発していたウォッカですら動きを止めた。
 風が吹いて髪がなびく。ジンの長い銀髪が躍り、鈍く煌めいた。

 志保の視線の先で、ゆっくりとジンが振り返る。志保もつられるように視線を動かした。
 すぐ傍にある、数階分高い位置にある雪に覆われた新館のテラス。そこから─── 深い深い闇を湛えた黒曜石が、見下ろしていた。


「……久しぶり、ジン」


 静かな淡々とした挨拶と共に、短くなったひじりの黒髪が風に吹かれて踊る。夜気に晒された耳を飾る四葉のクローバーのピアスが、人口灯に反射して光っていた。
 ひじりは志保を視界に入れてついと目を細め、コートの内側に手を入れるとサイレンサーのついた一丁の銃を取り出してその銃口をジンに向けた。
 カチリと安全装置が躊躇いなく外される。ウォッカが顔色を変えて銃を構えるが、ひじりもジンもそれを気にすることはなかった。


「シェリーには情が湧いてしまっててね。奪わせはしないよ」

「……脱走の手引きをしたのはお前か」

「そういうこと。まぁジン達にシェリーの居場所がバレちゃったから、悪いけど彼女とはここまで。どこか遠くにでも隠れ住んでもらうことにするよ」


 どこまでも淡々とひじりは続け、言い終わると同時に引き金を引いた。
 飛び出た弾丸がジンの頬を掠める。避けたのではない。彼女に己へ当てる気がないのだと分かっているようだった。


「私は逃げも隠れもしない。だからいつでも奪いに来なよ、ジン。そのときにやっと─── 私は、お前を殺せるんだから」


 なぜだろう。ひじりの言葉は物騒で冷酷なものであるはずなのに、志保にはいっそ愛の告白にすら聞こえた。


「でも、私の周りから奪うのはダメ。そんなことをしたら、私は姿を消してしまうよ」


 よそへ顔を向けるなと、私だけを見ろと、そう言っている気がする。
 ひじりが纏うのは紛れもなく殺意だ。深い闇の瞳に明確な意志と目的を持ち、一心にジンへ向けている。
 そしてジンは、口の端を吊り上げて凄惨な笑みを浮かべるとひじりに応えた。


「いいだろう。だが、シェリーは殺す。これは組織の裏切り者だ。裏切り者は生かしちゃならねぇ」

「……まぁいいか。私が奪わせないようにすればいいだけだから」


 安全装置をかけて銃を懐に仕舞い、ひじりは小さくため息混じりに呟いた。
 志保は呆然と2人を見つめる。自分を殺そうとする者。生かそうとする者。双方が対峙し合っている。
 自身がその渦中の人物であるはずなのに、どうしても口を挟めそうになかった。






 top