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 ひじりの殺意は本物だ。疑うべくもない。だというのに、いいやだからこそ、それが腹立たしい。


ひじりさんが殺す前に、オレが捕まえて牢にぶちこんでやる)


 だが、今日はそれが目的ではない。あくまでひじりは志保を助けに来ただけだ。だから最低でも志保を逃がすことができればいい。
 ひじりほどの純粋な殺意を元にした意志ではない。これは嫉妬からくる、醜い害意と呼べるものだ。本当は抱いてはならない感情だと理解していて、それでも、ひじりからの情を一片たりともあの男に渡したくはなかった。





□ 黒との再会 6 □





 止まっているように感じた時間が動き出したのは、唐突にジンが膝をついてからだった。
 志保がはっとすれば屋上の入口からひじりの顔をしたままのそれがひどく冷たい目で銃をジンに向けていて、ウォッカが気づいて弾丸を放つ。だがそれはすぐにドアの陰へと身を潜めて叫んだ。


「煙突の中に入れ!すぐに助けに行く!!」


 煙突。荒い息をつきながら先程自分が出てきた煙突を振り返る。
 あれが敵か味方か。考える暇はない。それに何より、ひじりが現れたのだとしたら間違いなく敵ではない。
 煙突へ這い寄りながらひじりがいたテラスを振り返るとそこには既に姿はなく、鈍い体を何とか動かして煙突へと手を伸ばした。


「このアマ逃がすか!!」


 ジンは膝をついて動かず、志保が逃げようとしていることに気づいたウォッカが照準を変えて撃ってくる。弾が一発左肩に当たった衝撃で力が抜け、煙突の暗い闇へ滑り落ちた。


(どうして───)


 光の届かない闇へ手を伸ばして問いかける。
 どうして、助けに来たの。
 奪わせないと彼女は言った。ああならば、ジンが奪うひじりの“全て”の中に、私が入っているとでも言うのか。
 それが悲しいのか嬉しいのか怒りたいのか分からず、ただ叫びたくなるほどのぐちゃぐちゃな感情が喉を圧迫した。
 どっ、と背中から暖炉の床にしたたかに打ちつけ呻き、蹲りながら荒い息をつく。
 鼓動が速い。体が熱い。息がうまくできなくて苦しい。


 ドックン


 体を押し上げるような強い脈動に目を見開く。
 苦しい。苦しい。苦しい。助けて、誰か、誰か───
 暖炉を這い出て伸ばしかけた手を胸に当て、苦しみのままに叫んだ。


(たす、け…)


 ──── ……助けに来たよ、志保。

 ──── 奪わせはしないよ。

 ──── すぐ助けに行く!!


 頭の中に声が響いて、意識をぼんやりさせながら小さく笑う。苦しみが引いて視界が低いから、おそらく子供に戻ってしまった。
 正体の判らないひじりの顔を借りた誰かは、本当に来てくれるのだろうか。


「素晴らしい!」


 ふいに男の興奮した声が耳朶を打ち、顔を確かめたいが体が動かない。
 誰だ。何を言っている。両親と仲が良かった?開発中の薬のことを聞いていた?散漫な思考では男が何を言っているのかがよく分からない。


(誰?)

「でもまさかここまで君が研究を進めていたとは…事故死した両親もさぞかしお喜びだろう」

(誰なのあなた…)

「だがこれは命令なんだ…」


 はっきりしない視界で男が懐に手を入れ、何かを取り出したのがかろうじて判る。その手に握られているのは何だ。なぜそれが自分に向けられている。
 分からないが、なぜか怖くはなかった。死ぬとも思わない。


(だって、助けてくれるんでしょう…?)


 疑いのない信頼は、誰に向けたものだったろう。


「悪く思わんでくれよ…志保ちゃん」


 本名を呼んだ男が引き金に指をかける。けれどやはり、怖くはなかった。


「─── そこまでだぜ、桝山さん?」


 初めて聞く声が耳朶を打ったが、その話し方からコナンだと悟る。
 ああ、おそらく彼らは、本当は屋上へ行かせようとしたコナンを酒蔵へと誘導し直したのだろう。
 ならばもう、大丈夫だろうか。奪わせはしないよ、と言ったひじりの声が、どうしてだかもう一度頭の中に響いた。





■   ■   ■






 突如現れた本物のドールこと工藤ひじりに気を取られていた隙を突いて、彼はひじりの顔のまま銃の引き金を引いた。発射された弾は外れることなくジンの腕に当たり、即効性の麻酔薬が効いたのだろう、膝をついた。
 ウォッカはジンを呼んでいたが、すぐに彼のせいだと気づくと本物のひじりが現れたからか、躊躇いなく銃弾を放つ。それをドアの裏に隠れてやりすごし、志保を煙突へ逃げさせ、今度はウォッカに向けて麻酔弾を放とうとした彼は、膝をついていたジンが自分の腕に銃を向け、躊躇いなく引き金を引いたのを見てぎょっと目を剥いた。


(う、嘘だろオイ…!)


 麻酔弾で2人を眠らせ警察かFBIの者達に引き渡すつもりだったが、ジンは腕を撃って麻酔の効果を打ち消すと、ゆぅらりと幽鬼のような末恐ろしい空気を纏って静かに立ち上がった。
 それにぞっと背筋を凍らせる。突き刺さる氷柱のような殺気に血の気が引き、抱いていた嫉妬心は完全に消え失せた。


(あいつはやばい!)


 思えば、ジンは長らく赤井が追っているにも関わらず捕えきれなかった標的だ。
 もう一度麻酔弾を撃ち込もうとしても、眠らせる前にこちらが逆に捕まる。力量の差を読み取って素早く撤退を選択し、彼は立ち上がると同時に銃を懐に仕舞い、急いでその場から離れた。


「待てテメェ!!」


 ウォッカの怒声を背中に、全速力で階段を降りて防犯カメラに映らないよう廊下を駆け抜ける。
 エレベーターは使わないで階段を一番下まで降り、新館へ渡って階段を使ってひたすら駆け上がる。10階まで来たら角で呼吸を無理やり整えてある一室へ歩いて向かい、ポケットからカードキーを取り出して鍵を開け中に入った。


「っべー…あれ人間かよ」


 深く息を吐き出し、首筋を伝う冷や汗を袖で拭った彼は、立ち去る間際に見た氷のような深緑の目を思い出して全身を総毛立たせた。
 あれほどまでの強烈な殺気は感じたことがない。麻酔弾を撃った腕を躊躇いなく撃ち抜いた所業といい、やはりただものではなかった。軽々しく手を出せば、噛まれるどころでは済まされない。間違いなく喉笛を噛み千切られる。


(……ひじりさん、あんなのの傍に5年もいられたのか)


 鏡の前に立つとふいに目に入った顔に、思わず歪んだ笑みが浮かぶ。
 ああ、成程彼女が何度も手を振り払ったわけだ。納得すると同時に、5年も傍にいられたひじりに改めて驚嘆する。


 コンコンコン


「!!」


 唐突に響いたノック音に、思わずびくりと身を竦ませた。瞬間銃を抜いて構えていて、荒くなった息を落ち着けと自分に言い聞かせながら鎮める。
 どくどくと心臓が早鐘を打っている。足音を立てずにドアへ近づき、チェーンロックをかけて少しだけ開いた。


「快斗、私。大丈夫?」

「……正直、あんまり」


 ひょいと隙間から覗いてくる同じ顔に、ゆっくりと安堵の息をつく。
 チェーンロックを外して部屋に招き入れると、ドアを閉じたひじりが手を伸ばしてマスクを剥ぎ取った。


「お疲れさまでした」

「マジで寿命が縮んだ気がします。あれに比べたら、スネイク達が可愛く思えますよ」


 マスクを剥ぎ取られて素顔をあらわにした快斗は、もう一度深く息をついて深呼吸をし、ようやく気を落ち着かせた。それでも体は小刻みに震えていて、ひじりの体に腕を伸ばして抱き締める。無意識に掻き抱くようになっていたが、ひじりは何も言わなかった。
 背をぽんぽんと叩いてねぎらう彼女の肩口に顔を埋めて肺一杯に息を吸えばひじりの匂いがして安心する。


「赤井さんが帰って来たら、もっと鍛練してもらいます」

「うん、私も付き合う」


 快斗は震えがなくなるまでひじりを抱き締め、ようやく完全に落ち着いてから放した。
 その頃にはコナンが哀を助けて既にホテルを離れていて、小さな彼女を助けられたことにほっと息をついた。






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