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 翌日。素知らぬ顔で阿笠邸に戻ったひじりは、包帯だらけの哀に目を瞬かせ、コナンから粗方の事情を聞いた。
 曰く、ジンとウォッカやピスコといった組織の人間に遭遇し、哀はあわや殺されかけたが、正体は判らないが助太刀に入ってくれた人間がいたため何とか無事脱出できたとのこと。


「あと気になんのは、博士が聞いた“ドール”って名前の奴だ。名前が酒に関してないから組織の仲間とは思いにくいが、組織に…ジンにとってのキーパーソンであることは間違いない。ああそうだ、そういえば何度か原因不明の通信妨害もあったな」


 突然現れた、哀ですら心当たりのない助太刀はいったい誰だったのか。
 真剣な顔で悩むコナンの話を無表情で聞いていたひじりは、話が一段落すると思い切りコナンにデコピンして、危ないところに無謀にも突っ込んで行くなと正座をさせて説教を食らわせたのだった。





□ 黒との再会 7 □





 殺害された呑口の家族は蒸発、被疑者の桝山の家は全焼という組織の痕跡を一切残さない結果に、コナンは元の体を取り戻すと同時に、組織を絶対的に潰さなければならないものだと認識を改めてしまったようだ。

 それを聞いていたひじりは、内心でため息をついた。
 元の体に戻る。その一点だけであったならば道が交差する可能性も低かっただろうが、組織を潰す、となればその可能性はぐっと上がる。
 つまりコナンが危険な目に遭い、尚且つひじりが組織と関わりがあったのだと知られる可能性が高いということ。
 説教はしたが大した効果はないだろう。コナンの眼を見れば分かる。それはいいとして、もう少し無謀な真似はやめてほしいのだが。
 コナンが毛利探偵事務所へ帰った後、ひじりは哀と2人きりで自室にいた。


「……哀は、私が助けに来たことは言わなかったの?」

「ええ。組織に関わっていたことは工藤君にバレたくないんでしょう?ところで、もう1人の男は誰だったの?」

「ああ、私をジンのもとから連れ出した警察の人の関係者。特別に許可をもらって使わせてもらった。さすがに私1人じゃ哀を逃がすことは難しかったから」


 淡々と嘘を交えて答えれば、納得したように哀が頷く。それきり何も訊いてこない哀に、ひじりは小さく首を傾げると自分から訊いた。


「何でジン達に会う前に助けることができたのにしなかったのか、訊かないの?」

「デメリットにしかならなかったから。あるいは、ジン以外の組織の人間に目をつけられるわけにはいかなかったから、でしょ?」


 何だ、分かっていたのか。
 ひじりが敢えてコナンが動く前に哀の救出をせずにいたのは、言われた通りだ。
 あの会場には、ピスコの他にもう1人組織の人間がいた。何度か合わせたことのある顔だったからすぐに気づいた。
 ピスコの監視はしていたが盗聴器を仕掛ける暇と隙はなかったため、ピスコから組織の仲間が情報を得ている可能性も考慮し、哀をひじりと快斗が直接助け出した場合のデメリット─── 命の危険を察して行動に起こせなかったのだ。
 ひじりが組織と関わる理由はただひとつ。即ちジンを殺すこと。それ以外で組織の人間に身を晒す理由はない。
 それに、博士とコナンの会話、そして哀との眼鏡を通じた通信は傍受させてもらい話を聞いていたため、特に動かずとも哀を助け出せると考え、敢えて動かずにいた。
 もっとも、ストラップの緊急信号を理由にホテルに乗り込んでコナンと合流することも考えていたが。ただし、それはジンとウォッカが現れるまでの計画で、2人がホテルに来たことにより状況が変わった。


「どうしてあのとき、わざわざ顔を出したの?」

「ちょうどいいからジンに挨拶・・しておこうと思って」


 ジンが関わってくるのなら、話は別だ。
 奪われる前に奪う、つまりジンを殺すと明言し、自分以外に手を出せば姿を晦ますと宣言する絶好の機会だった。できれば哀が撃たれる前にそうしたかったのだが、駆けつけるのが遅くなり傷をつけてしまった。


「ごめん、遅くなって」

「謝らなくていいわ。元はと言えば私の勝手な行動のせいでしょ、あなたの忠告も聞かず馬鹿な寄り道したから。むしろ私が謝らなきゃ。だからごめんなさい…そしてありがとう、本当に助けてくれて」


 小さな笑みを浮かべる哀にひじりは目を瞬き、目許をやわらかく和ませた。


「私はね、結構哀のこと、好きだよ」

「嬉しいことを言ってくれるわね。けど、快斗君に嫉妬されそうだわ」

「大丈夫、快斗も哀のこと結構好きだから」


 きっぱりと言い切られて哀はどんな顔をすれば分からなかったようだが、「そう」とこぼしてそっぽを向くと笑った。その顔を見たひじりはぽんぽんと哀の頭を撫でるように優しく叩き、ゆっくりと髪を梳く。


「ねぇ、あなた言ったわよね、『情が湧いた』って。…あれ、どういう意味?」


 情が湧いた。確かにひじりはそう言って、哀に対し何らかの情を抱いている。憐憫か友情か親愛か他の何かか、種類を明確に分類することはできない。
 組織という繋がりがあるためどこかで通じている自覚があるひじりは、言葉にするに相応しい単語を探し、ひとつ言葉が思い浮かぶと腰を屈めて目を合わせた。


「『幸せになってほしい』…かな」


 赤井に哀を護ってやってくれと頼まれた。彼は人並みの幸せを知ってもいいだろうと哀の幸せを願った。そしてひじりは赤井の過去を聞き、できうる限り叶えようと約束した。
 出会い、今日まで過ごした時間は長くはない。けれどその中で、確かに思ったのだ。護れるのならば護りたい。幸せになってほしい。この子は、幸せになるべきだ。
 組織というものを理解し、受け入れ、家族を皆喪って自らの命を軽んじ、ある意味で全てを諦めている小さな少女。


「私は、あなたが幸せになることを願っているよ」

「…何、それ…」

「前に、人は変わると言ったでしょう。小さいままでも元の姿ででも、幸せになりたい、幸せだと思えるあなたに変わることを、願ってる」


 無理よ、だって私は。そう掠れるような声で言って眉をひそめ、顔を伏せる哀の頭を撫でる。
 それでもいい。今はそう思っていたのだとしても、明日でも1ヶ月後でも何年でも後だっていい、いつか自分の幸せを願う日がくるのなら。その日のためまでできるだけ生かそうと、ひじりは決めた。ただのエゴだ。分かっている。
 だが闇しか映してこなかったその瞳に、明るい光を映してみてもいいではないか。


「とんだお人好しだわ」

「違うよ。私は気に入った人間にしか情は向けないから」

「……真顔で口説かないでくれる?」

「仕方ない。私は哀のことが結構好きだもの」


 立ち上がり、ぽんぽんと哀の頭を撫でる。哀は諦めたようにため息をつくと、そういえばと目を瞬かせて真顔で振り返った。


「白乾児のこと、どうして黙ってたの?」

「新一が前に元の体に戻ったこと?教えたら解毒剤が早くできて新一の無謀度が増してさらに調子に乗りそうだから黙ってた」

「…………まぁ、否定できないわね」

「慎重派に見えて実は猪突猛進型だから、あの子」


 言いながらタンスの上に置いた箱を開け、中からひとつUSBメモリを取り出すとそれを哀へ軽く投げて渡した。それ、白乾児の成分解析データだから好きに使って。そう言えば驚いたように見つめられ、どうせ早いか遅いかだけでしょうと続けた。
 すぐにでも哀は白乾児の成分解析を行うに決まっている。ならばあらかじめ自分が纏めていたデータを渡したところで問題はない。


「新一には組織に関わってほしくないんだけど、仕方ないかな」


 小さくため息をついたとき、ふいにピリリと電子音がした。ポケットを探ったひじりは自分の携帯電話が着信を告げているのを見ると哀に手を振り部屋を出る。2階の窓から外を眺めながらボタンを押して電話を取り、耳に当てれば相手は名乗らず本題に入った。


『昨日は活躍したそうだな?』

「ええまぁ。確実にあの子を助けたかったもので」

『それについては礼を言っておこう。ありがとう』

「どういたしまして。それで、帰りは来週でしたっけ。快斗が鍛練に身を入れたいって張り切ってますよ」

『“実戦”で折れる可能性もあったが、逆効果だったようだな。…フン、本当に鍛え甲斐のある奴だ』


 確かに快斗は初めてジンと対峙して気迫で圧倒されていたが、すぐに自分を取り戻した。
 叩かれたのにむしろ強さを増したさまは、まるで熱された鉄を見ているようだった。何度も叩かれ水につけられ、その果てに鋭い刃をあらわにする刀のような。
 普通に生きていたら持つはずがなかった、抜き身の鋭さだ。そして彼はその刀を鞘に納めて保つだけのことがきっとできるようになる。
 ひじりは嘆息なのか感嘆なのか分からない息をつくと話を変えた。


「詳しいことは日本に戻って来たら話します。けれどひとつだけ。あの会場には、ピスコの他にもう1人組織の人間がいました」

『クリス・ヴィンヤード───』

「─── コードネームは、ベルモット」


 やはりFBIでも把握していたか。
 くつりと赤井は喉を鳴らして笑った。


『実は今回アメリカに戻って来たのもそれ関連でな。俺と一緒にジョディも日本へ行く。そろそろ本格的に動き出すぞ。ああそうだ、お前と黒羽はそれなりに使い物になるようにしたと言ってあるからな』

「ご期待に副えればいいんですけどね」

『暫くお前達はジョディと一緒に行動してもらうが、必要なときは連絡する』

「了解」


 ひじりの言葉を最後に、電話はぶつりと切れた。
 携帯電話を耳から離し、静かに瞼を閉ざせば闇が広がる。本格的に動き始めるということは、闇の中へ身を投じるということ。
 快斗を巻き込み、背負わせたものが明確になる。黒い手は快斗にさえ届いてしまうだろう。


(それでも、私は)


 瞼を開いて窓の外を見上げる。
 雪はもう降っておらず、やわらかな光を地上に注ぐ太陽が顔を出していた。



 黒との再会編 end.



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