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 ビーッ!ビーッ!ビーッ!


 唐突に鳴り響いた警報音にも似た甲高い音が、和やかだった部屋の空気を一変させる。
 ひじりはすぐさまノートパソコンに向かうとキーを叩いて音を止め、動く点滅に鋭く目を細めた。
 快斗が携帯電話で寺井を呼び出す。その間にアンテナの立った小さな機械に片耳のイヤホンを取りつけ、哀に預けたストラップから流れてくる音に意識を集中した。
 ざわざわと人のざわめく音。事故の話を。知らない。警察に聞け。詳しく。お願いします。私は関係ない。そして遠くに、灰原!と呼ぶコナンの声がして、遠くなっていった。


「準備完了しました、ひじりさん」


 立ち上がり黒いジャケットに黒いパンツを穿いた、ひじりの顔をした快斗が振り返る。
 ひじりはひとつ頷いてカーディガンを脱ぎ裾が長く黒いコートに袖を通し、帽子を深くかぶるとマフラーを巻いて、行こうと声をかけた。





□ 黒との再会 3 □





 コナンが目をつけていた通り、収賄疑惑で新聞紙上を賑わしていた呑口のみぐち 重彦しげひこ議員がシャンデリアの下敷きとなって殺された。
 そのとき暗闇だったこともあって犯行の瞬間は見えず事故との見解が立ったが、間違いなく組織の人間による犯行だ。つまり、組織の人間がこの会場内に確実にいるということ。そうなれば、呑口が死んだこともあってこれ以上留まる理由はない。

 だがコナンがふたつの証拠品を手に、警察を使って犯人を捕まえようと考えて行動し犯人を絞っていると、渦中の人物だった呑口が死んだことをすぐさま嗅ぎつけたマスコミと、扉から溢れて出てきた退散しようとする人間とが押し合いへし合いになり、会場の入口周辺は軽いパニック状態になった。
 小さな体で人の波に逆らうことは難しい。気づけばコナンと哀は離されていて、哀が自分の居場所を知らせようと手を伸ばせば、突然後ろから誰かに抱きかかえられた。
 そして口に当てられた布。何か薬を染み込ませていたようですぐに意識が遠くなったが、反射的に握り締めていたストラップのボタンを押した哀は、何とかそれをポケットにねじ込んだところで気を失ってしまった。


(─── ひじり


 緊急を知らせるボタンを押してしまった自分が思うのも何だか、本音は来てほしくはない。
 だって彼女は、解放されたのだ。ジンの“人形”として5年もの年月を過ごしていたが解放され、普通の人間として生きることができる。
 見るだけで分かる、快斗の愛情を一身に受けて、もう組織とは関わらず生きてほしいと思った。彼女は自分と違って組織の人間ではなかったから、その道が選べるはずだ。
 だから来てほしくない。けれどきっと、ひじりは来てしまうのだろう。


『灰原さん…』


 遠い思考でそんなことを思っていると、誰かに呼ばれる声がして、目を開ければ歩美がいた。顔を上げて見渡せば小学校の教室で、壇上には担任の小林が立っている。

 夢、だったのだろうか。ジンの車を見つけて、会場に乗り込んで、組織の人間に捕まる夢。
 きっとそうだ。ジンと街で偶然出くわすだなんてできすぎている。
 夢に決まっている。夢であって、ほしかった。


『─── 灰原…』


 なのに、頭の中にそれを否定するような声が響いて、それが誰か分からず頭を抱えた。
 声はどんどんひどく強くなり、固く目を閉じて誰なのよと響く声の主に問いかけると一層強い声が響く。


『灰原ァ!!!』


 はっと目を見開く。どこからか聞こえてくる声は、コナンのものだ。
 教室で居眠りをしていたことこそが夢だった。それに少し落胆しつつも引きずらず、体を起こして辺りを見回す。
 どこだ、ここは。


「く、工藤君?」

『灰原?灰原か!?』

「どこ?」


 声は聞こえるのに姿はなく、問いかければホテル前に停めた博士の車の中だと返事があった。どうやら眼鏡に内蔵されたマイクと集音機に周波数を合わせて交信しているらしい。
 コナンの声がするのは分かったがいまいち自分の状況が掴めず、ひとり言のように「私…どーしたの?」と呟くが、それはこっちの台詞だと返された。会場前の廊下で何があったのかを問われ、少し鈍さが残る思考で記憶を掘り返す。


「ああ…そういえば私、会場から出てきた人の波にのまれてあなたとはぐれて…そうしたら誰かが突然後ろから───」


 布を押し当てられて、意識を奪われた。
 はっとして目を見開き、慌てて周囲を窺う。だが誰もおらず、立ち上がり今いる場所を確認した。
 コナンに酒蔵に監禁されてるみたいと伝えてポケットを探れば、ねじこんだ記憶通り猫のストラップがそこにあった。
 手に持って眺めてみる。特に何も変わっておらず、ボタンは押されたまま。


ひじりは…来るの、かしら)


 内心で呟き、ポケットには仕舞わず手に握り込む。
 部屋の唯一ある扉のドアノブに手をかけるも鍵がしっかり掛けられていて出られそうにない。机の近くには台車に載せられた段ボールとその中に清掃員のツナギがあったことをコナンに知らせた。
 誰か─── おそらく組織の人間が哀を眠らせた後トイレにでも用意していたツナギに着替え、段ボールに入れてここまで運んで来たのだろう。もしかすると呑口を会場で殺し損ねた場合、トイレで殺してここまで運ぶつもりだったのかもしれない。


『まぁいい、とにかくその酒蔵からの脱出方法を早く見つけて…』


 コナンの声を聞きながら、もう一度扉に目をやる。
 脱出など、そんなことをしてももう意味が無いことは分かっていた。


「─── いーい工藤君、よく聞いて。私達の体を幼児化したAPTX4869のアポとはアポトーシス…つまりプログラム細胞死のこと。そう、細胞は自らを殺す機構を持っていて、それを抑制するシグナルによって生存しているってわけ」

『おい灰原、何言ってんだ?』

「ただ、この薬はアポトーシスを誘導するだけじゃなく、テロメアーゼ活性も持っていて、細胞の増殖能力を高める」

『おいやめろ!んなこと、お前がそこから脱出したらいくらでも聞いて…』

「いいから黙って聞きなさいよ!!」


 コナンの声を厳しい声で遮り、小さく息を吐き出した哀はもう二度と言葉を交わすことはないと告げた。
 訝しむコナンの声が聞こえる。ああどうして彼は、こんなことが分からないほど鈍いのだ。

 哀を監禁した人間は、幼児化した姿にも関わらず哀を監禁した。
 シェリーが幼児化していると知られたのなら、たとえここから脱出したとしても、組織は2日と経たずに哀を見つけるだろう。そうなれば哀を匿っていた博士はもちろんのこと、哀に関わっていた全ての人間が秘密保持のために殺される。
 ─── あの夢の通りに。


(来ちゃダメ…ひじり、あなたは来てはいけない。このストラップ…学校にでも忘れたふりをして置いてくるんだったわ)


 ここで殺されたとしてもうまく脱出できたとしても、もう二度とコナンや博士達と会えない状況に追い詰められている。
 そしてストラップを調べられれば、組織は容易にひじりへとその手を伸ばし、再び彼女を檻の中へと連れ戻してしまう。
 ─── そう、連れ戻す。組織はひじりを殺さない。ジンではなく組織が・・・ひじりを殺すことはない。
 その理由を、哀だけが知っていた。だがひじりですら知らないその事実は、もう永遠に伝えられることはない。

 ストラップを酒が並ぶ棚の奥へと押しやって隠し、哀は自嘲の笑みを浮かべるとコナンへ覚えている限りの薬の情報を渡そうと唇を湿らせる。
 ひじりならば、哀が残した情報からいずれ解毒薬も作れるだろう。私はここでリタイア、と内心で呟くとふいにコナンが問いかけてきた。


『な、何の音だ?』

「ああ…学校で円谷君に返してもらった博士のゲームよ」


 軽快な音を鳴らす机の上の小型のモバイルパソコンを振り返って言い、イスに座ってキーボードに指を置く。
 ポケットに入っていたMOを調べていたのだろう。同じく入っていたストラップはただのストラップとして見逃されたようだ。
 パソコンに携帯電話が繋げられているということは、と操作すると、やはり検索履歴に自分の顔が出てきた。

 パソコンを操作している哀に驚いたように縛られてないのかと訊いてくるコナンへ即答で頷く。
 だから急いでいるのだ。組織の人間が縛りもしないで長時間放って置くはずがない。すぐに帰って来るはずだ。
 哀が再び薬の情報を口にしようとしたとき、それを遮ってコナンの不敵な笑みを含んだ声が耳朶を打った。


『奴は当分帰って来ねーよ。お前がいなくなった後、警部に電話したんだ。紫のハンカチをもらった例の7人を、杯戸シティホテルから一歩も出すなって─── 工藤新一の声でな』


 思わず指を止めてコナンの声に聞き入る。
 コナンは哀が拘束されていないことと電源が入ったままのパソコンの状態から、ピスコが何らかの目的で少しだけホテルを出ようとしたが出口で刑事に止められて、上の階で目暮に事情聴取を受けているはずだと話し、しかも奴は今外部との連絡が取れないでいる可能性が高いと続けた。
 その理由としては、哀が捕まって1時間近く経っているのに哀を監禁した人間どころか仲間の1人もいないからとのこと。


『つまり、オレが睨んだ通りいるんだよ、あの7人の中に。暗殺を成し遂げてお前をそこに監禁した、ピスコって奴がな!』

「…じゃあ、ここってまだ杯戸シティホテル内ってこと?」

『ああ、たぶんそうだ!奴が仲間に接触する前に殺人の証拠を挙げて、奴を警察に突き出すことができれば、お前の身の安全は保障されるってわけだ!』


 コナンの希望に満ちた声に、少しだけその気になってくる。
 彼なら犯人─── ピスコを捕えることができるだろうから、信じてみようか。

 目暮が犯人を足止めできるのは精々あと1時間。
 コナンは従業員に聞いて場所を探り、事情を話せば鍵を開けてくれると言うが、それでは逃亡の手助けをしたとしてその従業員が殺されてしまう可能性があると言うと、だったら自力で脱出する方法を見つけろだなんて簡単に言ってくれる。


「そういえば工藤君、あなたひじりには連絡したの?」

『いや…一応電話はかけたんだけど、繋がんねーんだよ。あいつ何か強ぇし、手伝ってもらおうと思ってたんだけど』

「やめた方がいいわ」

『何でだよ?』


 遮り、当然のように疑問の声を上げるコナンに忠告をする。


「彼女はやっと平穏な日常に帰って来れたんでしょう?こちらの事情で危険な目に遭わせるつもり?」

『…それは…』

「もう二度となくしたくないのなら、これ以上組織にひじりを近づけないことね」

『……分かった』


 小さくコナンが頷き、聞こえないよう息をついた哀は思考を切り替えて唯一の脱出路たりえる暖炉を向いた。
 大人の体ならばともかく、子供の体では到底上ることはできそうにない。そう言うと、何か思いついたらしいコナンが慌てたようにここが酒蔵であるかと確認をしてきた。


「ええ…古くなって使わなくなった暖炉つきの部屋を酒蔵にしたって感じね」

『そこに白乾児パイカルってあるか?』

「パイカル?」

『ああ、中国のきつい酒だ』


 言われたものを探すと、確かに白乾児とラベルの貼った酒があった。
 だがこれをどうするというのだろう。不思議に思って訊けばコナンは笑みを含んだ声で答える。


『その部屋から脱出させてやるんだよ。お前にとっておきの魔法をかけてな!』


 とにかく飲んでみろ、と言われ訝しみつつもキャップをひねる。何の効果だかは分からないが、とにかく効果が出るまで暫くかかるらしく、口に含んで机へと戻った。
 どれだけ飲めばいいのやら。風邪気味だと言うのに体調が悪化したらどうしてくれる。
 そう思いながらも、哀はまたぐいと酒を煽った。






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