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『捜査官が奴と奴の車を視認した。今監視をしてもらっている』

「ああ、やっぱりいたんですね」

『子供が2人、車内で何かをしていたらしいがな。奴は車に鍵をかけないほど不用心だったか』

「……それはそれは」

ひじり。俺は確かに護ってほしいとは言ったが…何をするつもりだ?』

「大丈夫ですよ。何事もなければ私も快斗も何もしません。そして何かあったのだとしても…私はただ、約束通りのことをするだけです」





□ 黒との再会 2 □





 風邪のせいもあるのか、嫌な夢を見た。
 飛び起きてしまったことはひじりに気づかれているだろうとは思っていたがひじりはそのことを一切口にせず、ただ“人形”としての名残からか、ジンの気配が近くにすると感じたことを教えてくれて、仕掛けのあるストラップをくれた。

 “人形”だった彼女の力量はある程度理解している。
 ジンは決して口にすることはなかったが、いずれ自分の片腕として置くつもりだったことは、何となく読み取れていたから。
 決してそれだけではなかったことも察してはいたが、ひじりはそのことを口にされるのをひどく嫌がるようだったため、面と向かって言ったことはない。
 とにかく、ひじりが一般人より強いことはおそらく周囲で一番理解している。だから、これを哀に渡したということは。


(私がこれを押したら…助けにでも来てくれるのかしら?)


 せっかく檻から解放されたというのに、また自らジンに近づくつもりか。黒羽快斗という何も知らない少年と共に、もうこちらに関わらずにいればよいものを。

 けれどコナン─── 否、新一から聞いた。
 ひじりは自分を慕う者のために、命の危険がない限り、できる限りのことをするのだと。ならば今回も、これを押せばひじりの命が危険にならない程度には助けてくれるのだろうか。


(……信じて、みようかしら)


 真っ直ぐ帰るよう言われていたはずの下校途中、ジンの愛車を見つけた。ひじりが感じた通り、本当にこの街にいたのだ。
 夢を見たことを漏らしたせいもあって、本当はコナンに言うはずはなかったがつい口走ってしまい、コナンは博士に針金のハンガーとペンチを頼んで持って来てもらって鍵を開け、中に盗聴器と発信機を仕込んだ。
 ジンは早々に気づいてしまったようだったが、盗み聞いた会話から自分が作った薬が使われる可能性があると知っては、できれば殺人を止めに行くと言うコナンの帰りをただ待つことはできない。


「……私も一緒に行くわ」


 ストラップをぎゅっと手の中に握り込み、助手席に座るコナンに決意をこめて言う。コナンが胡乱げな顔をして振り返るが、無視をして博士の車を降りて杯戸シティホテルを見上げた。
 ひじりはここにはいない。彼女は快斗とデートするのだと言って出掛けたらしい。コナンは快斗とのデートということで機嫌を損ねたが、組織に関わらせるのもいかがなものかと無理やり納得したようだった。

 追いかけて来たコナンと共にホテルに入り、辺りを見回しながら先を歩くコナンについて行く。
 コナンは目的地が判っているようで迷うことなくエレベーターのボタンを押して階を上がり、映画監督を偲ぶ会の会場へと足を進めた。角で一旦止まって組織の人間がいないかを探る。


「ったく…興味はないんじゃなかったのか?」


 辺りを窺いながら会場の傍まで来れば呆れたようにコナンが振り返って、仕方ないじゃないと返した。
 薬を作ったのは自分だ。コナンに以前人殺しと呼ばれたこともあるし、知らずに作っていた薬でまた人を殺されてはたまらない。
 コナンは哀が関わっていると勘付かれたことを危惧して気をつけろよと忠告をくれるが、証拠は消したので悪戯か精々組織の敵対勢力が仕掛けたものと思うはずだ。組織は敵が多い。


(大丈夫よ。だって今、私の傍には名探偵と彼女がいるもの)


 手の中のストラップの感触を確かめ、内心で自分に言い聞かせる。
 今回殺人を行う組織の人間─── ピスコ。名前を聞いただけの人物が、この中にいる。
 コナンが扉に手をかけて引き、中を覗きこむと偲ぶ会ということで黒服の人物ばかりだった。
 視界いっぱいの黒に無理やり夢の内容が思い出される。

 ジンが、シェリーと名を呼びながら銃を向けるのだ。

 その手は血にまみれ、顔も服も返り血に染まっていた。

 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。血が勢いよく巡らされているのに、指先が凍えていく。ストラップを握る手に力をこめると、ふいに肩を掴まれて息を呑み振り返った。


「どうしたのお嬢ちゃん?パパやママとはぐれたの?」

「あ、あ…」


 そこにいたのは、給仕の女性。子供だけでうろついているのを心配されたのだろう。だが不意を突かれて声がうまく出ず舌をもつれさせていると、隣にいたコナンが庇うように一歩前へ出た。


「うん、今2人で捜してるとこ。行こ、花ちゃん!」


 手を引かれるまま歩き出し、給仕から少し離れると普段とは違う様子の哀に訝ったコナンがどうしたと声をかけてくる。


「一緒に行くって言ったのはオメーだろ?」


 訝しむコナンに、哀は唾液を呑み込んで喉を湿らせると今朝見た夢の内容を訥々と口にした。
 下校途中にジンに見つかり、路地裏に追い込まれる夢だ。真っ先に撃たれたのは当然のようにコナンだった。連続した、乾いたピストルの音が博士や子供達など関わった人間の命を次々と刈り取る。
 白い雪がちらつく中、血の赤だけが目を背けたくなるほど鮮やかだった。


(そして─── ひじりも)


 彼女は、ジンの腕の中で息絶えていた。
 胸を撃たれ、息をしていない弛緩した体をジンが腕に抱くその姿はやや乱暴に荷物を抱えるように見えて、壊れものを持つようなアンバランスな印象があった。
 それは、哀のひじりとジンに対するイメージのせいだろう。“人形”はジンを裏切らない。ジンは“人形”を手放さない。
 たとえ黒羽快斗という存在が今ひじりの隣にいるのだとしても、そのイメージは早々拭えるものではなかった。


「私…あのままガス室で彼らに処刑されていた方が楽だったのかもしれないわね」


 夢の内容は、哀をひどく追い詰める。逃げてしまったからこその苦しみが精神を削っていき、いっそ哀にそんなことを思わせた。
 俯いてストラップを握り締める手を見下ろし、ひじりが今の言葉を聞いたら怒るだろうかと、答えの出ない自問をする。するとふいに顔に何かがかかる感触がして、顔を上げれば透明なレンズ越しにコナンの顔が見え思わず声を上げた。


「え?」

「知ってるか?そいつをかけてると正体が絶対バレねーんだ! クラーク・ケントもびっくりの優れものなんだぜ?」


 にっと笑ってウインクするコナンに、ウインクなら快斗君の方がずっときれいねと思って小さく微笑む。
 コナンの厚意にはありがとうと礼を言って眼鏡をかけ直し、気休め程度になるわと言えば「可愛くねーな…マジで」と言われたが無視した。

 コナンの眼鏡に、ひじりがくれた猫のストラップ。自分を護ってくれるものはふたつある。
 だから今は夢のことを忘れておこう。そう自分に言い聞かせて、哀は顔を上げた。





■   ■   ■






 ノートパソコンに表示される赤い点滅を見ていたひじりは、くるりと後ろを振り返って鏡に向かう快斗を見た。


「今、哀は杯戸シティホテルにいるよ。……まったく、真っ直ぐ帰って来るように言ったのに」


 小さくぼやくが哀に届くはずもない。
 鏡越しに快斗が苦笑し工藤がついてるんじゃないですかねとひじりも予想していたことを言う。
 哀ひとりで何も言わずあちこち動き回るはずもない。十中八九コナンのせいでもあるだろう。

 赤井づてに聞いてコナンがジンの車で何かしたことは判っている。おそらく盗聴器と発信機でも仕掛けたのだ。そこで何かしらの会話を聞いて、杯戸シティホテルで何かが起こると確信した。

 ジン─── 組織絡みなら、ほぼ間違いなく暗殺の類だ。
 取引の可能性もあるが、それなら危険を冒してまで哀は顔を出したりしない。となれば、暗殺で、もしかすると例の薬が使われる可能性もあるということか。哀は知らずに人殺しの薬を作っていたという事実を気にしていたようだったから。


「ジンの奴、現れますかね」

「どうだろ。……ジンの車が今は街を離れてるみたいってことは、実際に事を起こすのは別の人間。少なくとも、私を狙って来たわけではないことは確実と言える」


 それでも、ひじりがジンの気配を感じ取ったように、ジンもひじりの気配を感じ取っているはずだ。
 だが、ジンは全てを奪うと言いながらまだひじりの前に現れない。任務があるせいか、他に理由があるのか。はっきりとは分からないが、そこから敢えて目を逸らす。それはひじりが考えることではない。
 ひじりは赤井達FBIが使う、彼らの─── ジンの“餌”。釣られて現れたジンや組織の人間を迎え撃つ。それだけでいい。


「そういえばあのストラップ、博士が作ったんですか?」

「ううん、私。精度は低いけど、あれ程度なら作れるようになった」

「へぇ、すごいですね。あ、そうだ。この間言ってたお揃いの時計、もうすぐできますんで」

「楽しみにしてる」


 本来なら緊迫していてもおかしくない空気の中で和やかに会話し、緊張感をなくす。
 あくまでいつも通りに。だがリラックスはしすぎないよう、適度に気を張る。
 難しい芸当だが2人は平然とやってのけていた。

 ひじりはおもむろに立ち上がると、本棚に向かってマジック上級者編と書かれた本を手に取ってぺらぺらめくる。
 そう、ここは快斗の部屋。今日も快斗の母親はおらず、ひじりが作った簡単な食事を平らげて作戦会議をしていた。
 作戦会議と言っても、難しいことではない。ひじりと快斗の目的は、あくまで“哀の救出”。それも、哀がストラップの緊急信号を鳴らさなければ霧と消えるものだ。


「本当はそれ、鳴らないのが一番なんだけどな…」


 快斗がちらりとノートパソコンに目をやり、ひじりは頷いて同意した。
 難しくはないくせにそれなりに準備が必要な作戦であるが、何事もないのが一番だ。
 無駄なことであった方が本当はいい。だがそうはならないだろうと直感が告げるから、入念な準備は怠らない。


「勝手に動いたって赤井さんに怒られるかな」

「大丈夫。私達が何したって不問にするよう取引してるから」

「あ、そっか」


 赤井達の足を引っ張るようなことさえしなければ不問のまま何も言われずに済むだろうが、それなりに可愛がってしごいている快斗にいらない傷でも負わせたりすれば小言をもらうだろうなと内心で呟く。ひじりとて負わせるつもりはないので、そのあたりは大丈夫そうだが。


「─── よし。どうですか、ひじりさん」


 今まで鏡を向いていた快斗が振り返る。
 ひじりも本を閉じて本棚に戻して振り返れば、そこには鏡に映したような瓜二つの顔があった。
 無表情に感情の窺えない黒曜の瞳に、肩にぎりぎりつくかつかないかの長さの黒髪。
 ひじりが毎日鏡越しに見る顔が、目の前にあった。






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