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 匂いがする。気配と言ってもいいのかもしれない。
 この身に刻みつけられた、解放されたとしても決して拭い取ることのできない黒が、かつての所有者と、それが属するものの気配を教える。


(……また、この街のどこかに)


 早朝、街も眠り誰も起きていない時間にまだ陽の出ていない窓の外を眺めながら目を細める。
 夢は見なかった。けれど哀が冷や汗を掻きながら飛び起きたことを知っている。
 ならば間違いなく、再びジンと顔を合わせることになるだろう。





□ 黒との再会 1 □





 タイミングが悪いことに、赤井は仕事で1週間ほどアメリカへ戻ると言って3日前に日本を発ったばかりだ。
 一応メールはしたが匂い・・が知らせるだけで実際にジンの姿を見たわけでもないし、さらに迎撃の準備が整っていない今、遭遇するのは無駄な行為に他ならない。
 もっとも、ひじりはジンがもし目の前に現れたのならばFBIのことを抜きにして銃を構えるつもりではあるが。


「哀」


 朝食を食べ終え、部屋で学校へ行く準備をする風邪気味な哀に風邪薬と共に小さなストラップを渡す。哀は訝しげに猫を模したそれを見ていたが、尻尾がボタン式になっているのを見て首を傾げ、ひじりを見上げた。


「これには発信機が内臓されてて、そのボタンを押すと盗聴器がオンになると同時に、私に緊急を知らせるようになってるから。何かあったらボタンを押して」

「……どうして、これを?」

「ジンが近くにいる」

「!」


 淡々としたひじりの言葉に、哀は目を見開いて息を呑んだ。しかし敢えてそれを気遣うことなく、腰を屈めて目線を合わせる。


「今日は絶対にどこにも寄らずになるべく早く帰って来て。それと、新一に知らせるとあの無鉄砲は突っ込むだろうから、知らせないように」

「…あなた、分かるの?ジンの気配」


 哀の頬に浮かぶ冷や汗を拭い、ひじりはやはり淡々と答えた。


「私が、誰の“人形”だったと思う?」


 ジンだけではない。組織の人間の気配ですら、感じ取ることができる。
 かつて潜入捜査をしていたと教えてもらった赤井にもその気配を僅かだが感じていた。赤井の口から潜入捜査をしていたと聞くまではまさか赤井も組織の人間かと疑ったこともあったが、現役かそうでないかの嗅ぎ取りはできていたから、FBIだと名乗った赤井を信用していたのだ。

 哀はひじりの黒曜の瞳をじっと見つめると、手の中のストラップに視線を落とし、ゆっくりと頷いた。
 かつて組織の一員であるジンの“人形”だったひじりのことを知っているからこそ、ひじりの言うことに間違いはないことを哀は知っている。
 “人形”が、己の“所有者”を間違えるはずがない。


「……私が感じるってことは、たぶんジンも私の気配に気づいている可能性がある」

「私、学校休むわ」

「ダメ。子供達が心配して見舞いに来られたりしたら困るから。大丈夫、今のあなたは小学一年生。何もしないでいれば、シェリーだとは悟られないはず。そうでしょ?」


 哀に上着を着せ、ランドセルを背負わせて前髪を払う。
 風邪気味だから今日は早く帰ると言えば、たとえ少年探偵団としての活動があっても見逃してくれるだろう。
 ぎこちなく頷いた哀に目許を緩ませ、一緒に玄関へ行っていってらっしゃいと見送る。


「……いって、きます」

「うん。ちゃんと帰って来ること。いいね?」


 ポケットに入れたストラップの感触を確かめるように握り締めて、もう一度哀が頷いた。少々怖い顔をしている上に顔色は悪いが、風邪気味だと言えば誤魔化しはきくだろう。
 もっとも、問題はコナンだ。あれは組織が関わると目の色を変えるから、厄介なことにならなければいいのだが。
 哀を見送って玄関を閉め、深い息を時間をかけて吐き出す。


「快斗にも連絡しないと」


 自分に言い聞かせるように声に出し、携帯電話をズボンのポケットから取り出してメールを送る。
 哀は学校へ行き、博士は早々に地下の研究室へ降りて行ったから、今リビングにはひじり1人だ。しんとした空間に、電話の着信音が鳴り響く。それを取り、用意していた台詞を口にした。


「快斗、今日の夜ご飯作りに行くよ。……約束だったからね」

『ありがとうございます。学校が終わり次第そちらまで迎えに行きますね』

「うん。待ってるから」


 短い会話を終えて電話を切り、自室へと戻ったひじりは自分用の4段タンスの一番下、下着類が入っている段を開けると奥に手を伸ばし、隠していた拳銃を取り出した。
 蛍光灯の光を浴びて鈍く光るそれの重さを確かめるように持ち、下から2段目の奥に手を伸ばして弾の入ったケースを取る。弾をこめた拳銃に安全装置をかけ、一番上の引き出しの底からショルダーホルスターを取り出して装着したひじりは、しっかり固定するとホルスターへと拳銃を収めた。上から少し厚手のカーディガンを着て隠す。


(赤井さんは他の捜査官に連絡を取るとは言ったけど、もし新一が日本警察を介入させたら少し面倒だな)


 スタンドミラーで全身を見て違和感がないかを確認して窓の外を見ると、雪が降っていた。
 夜は快斗の家にお邪魔することにしたし、哀と博士にはカレーでも作って今日明日ともたせよう。
 何事もなければそれが一番良い。そう思いながらも、強くなる気配に楽観視は到底できそうになかった。






 博士の研究を手伝っていたひじりは時間を確かめ、下校時間となっても一度も緊急連絡が入らなかったことに内心で小さくほっと息をついた。
 だが、ジンの気配はひしひしと感じてむしろ一段と強くなっている。まだ安心はできない。

 ひじりは博士にひと言告げて研究室を出るとキッチンに入り、弱火のまま暫く放置していた鍋を覗きこむ。
 少しだけ残っていた灰汁を取り、市販のカレールーの箱を開けてルーを全て放り込むと同時に電話が鳴った。また依頼か何かだろうかと思いながら子機を取る。


「はい、阿笠で…」

『あ、ひじりか?今からオレが言う物を持って、4丁目の交差点に来てくれ!』


 焦りに少しの興奮がにじんだコナンが声が耳朶を打って、ひじりは今日が何事もなく終わらないことを悟った。


「……何に使う気?」

『説明は後だ!!急いで!!!』


 ひじりの少し低い問いを、コナンは気づかず遮るように言って急かす。
 頼まれた物は、針金のハンガーとペンチ。ああまさか、あの車を見つけてしまったのか。
 無意識に受話器を握る手に力がこもっていたことに気づき、ひじりは力を抜きながら分かったとだけ告げて電話を切った。


(ジンの車、ポルシェ356Aは古い車……古い車は、頼まれた物で少しいじれば簡単にロックが外れる)


 分かり切っていることを意味のないことだと分かりながら頭の中で呟き、カーディガンの下にある拳銃に触れる。
 行くべきか、行かざるべきか。逡巡は一瞬で、ひじりは研究室へ戻ると博士にコナンから言われたことを伝えた。
 博士に頼まれた物の用意を頼み、火にかけたままの鍋を掻き混ぜる。火を消して蓋をし、自室に戻ってマフラーを巻いた。
 まだ確証はない。コナンが遭遇したと思われるものが車とも限らない。けれど間違ってはいない、とひじりは確信もしている。


ひじり君、用意したが行くかの?」


 コナンに頼まれた物を手に博士に問われるが、ひじりは無表情で首を振った。


「朝も言った通り、私は今日快斗と夜のデート。ご飯はカレーを用意したから、哀と博士で食べて。私もそろそろ出るよ」

「ああ、そうじゃったな」

「コナンに言っといて。何をするつもりかは知らないけど、危ないことはしないようにって」

「分かった。それじゃ、ワシは行ってくる」

「いってらっしゃい」


 ばたばたと家を出て行く博士を見送り、車が出て行く気配が消えるまで佇んでいたひじりは胸に手を当てた。
 どくりどくり。少し早い鼓動と共に湧き上がる感情は、何だろうか。怒りではない。恐怖でもない。嫌悪でも、喜びでもない。
 ただ、少しだけ落ち着かない。“人形”であったときは、ジンの気配を感じてむしろ落ち着いたのに。


(ジンは、まだ私の全てを奪いに来たんじゃない。だから私から攻め込む道理はない。……けど)


 赤井に頼まれたのだ。できるだけでいいから、哀を護ってほしいと。
 哀はジンと、あるいは組織と接触するのだろうか。まだ哀に渡したストラップは沈黙を続けている。


(……一応、万が一のための準備だけしておこうか)


 ひじりは自ら撃ち込みにはいかない。彼女はただ、銀を待って迎え撃つだけだ。けれど哀やコナンにもしも何かがあれば、命を喪わない程度には努力する覚悟はある。
 それに、快斗も一緒だ。怖くはない。彼と一緒ならば、死ですら厭うことはなかった。






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