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 なるべく海に近い場所に停めた車からすぐに降りたひじりは、寺井と二手に別れた。
 風の流れから、おそらくここ周辺に落ちたはずだ。海の方は寺井に任せてあるので、ひじりは陸の方を捜した。
 腕時計のライトを点け、キッドを呼ばずに気配を探りながら無言で捜す。ふいに遠くに小さな影が見え、駆けつければ白い鳩が苦しそうに身悶えていた。


「大丈夫?」


 思わず拾い上げて体を見てみると、怪我をしているのが判る。そして、傍にキッドのモノクルが割れて落ちており、同じく桐の箱が砕けて地面に転がるエッグも。
 エッグ自身にはぱっと見大きな傷はなさそうだとライトで照らして見ていると、ふいにエンジン音がして、振り返ればこちらに向かってくるコナンが見えた。





□ 世紀末の魔術師 4 □





 コナンと合流し、キッドが撃たれて海に落ちた可能性を伝えたひじりは、警察を呼んでエッグとモノクルを引き渡した。
 警察はひと晩中大阪湾で懸命な捜索をしたがキッドの生死は確認できず、翌日、エッグに傷がないかを調べるために急遽展示を取り止め、鈴木家の船で東京へ持ち帰ることになった。

 コナンはひじりがあの場所にいたことを問い詰めたそうだったが、もちろん追いかけて来たんだよとひじりが先手を打ち、そのままキッドを撃ったと思わしき人影について情報を確認し合うことでそれ以上の質問を許さなかった。

 キッドが撃たれたというのにひじりが変わらぬ無表情でいるのをコナンは訝しんでいるようだが、警察を呼んだ後にメールで無事キッドを回収し東京へ戻るという旨を寺井から伝えられたためそれも当然だった。海に落ちて多少打ち身をしていたが命に別状はないらしい。

 ちなみに、コナンと行動を共にしていたはずの平次は、キッドを追っている途中で事故を起こし病院に運ばれ、検査結果によると大した怪我はなく、バイクでこけたにも関わらず捻挫で済んだようだ。


「…痛くはない?」


 船の中の一室で、ひじりが手当てをした鳩の羽を優しく撫でながら問うと、鳩は小さくクルルと鳴いた。
 今、ひじり以外の全員は昨晩美術館に訪れた香坂こうさか 夏実なつみの話を聞きに行っている。ひじりは鳩の様子が診たかったので辞退し、コナンに後で教えてもらうよう頼んでいた。


「出血は止まったから、怪我さえ治ればまた飛べるようになるよ」


 それまでは、少々不格好だが包帯に巻かれていてほしい。
 甘えるように指にすり寄る鳩の頭を撫でながら、昨晩見た人影を頭の中に浮かべる。
 暗くてはっきりしなかったが、キッドを撃ったのは間違いない。寺井に聞くと、以前からキッドの命を狙っている者ではないだろうとのこと。
 キッドを狙う者は、宝石を狙って盗ったときに限り現れる。今回はただの歴史的価値のあるエッグであるため、違うだろうと。

 では、あれは誰だ。何の目的でキッドを撃ったのだ。
 8億の価値はあるエッグだ。欲しくて横取りするために撃ったのだとしても何ら違和感はない。


(いずれにせよ、キッドに手を出した相応の礼はしないとね)


 ついと冷ややかに黒曜の瞳を細め、すぐに瞼の下に隠す。
 相手はプロだ。ならば殺気はうまく隠すため、普段はひじりには欠片すら感じられないだろう。
 だが、エッグは再び鈴木家のもとに戻った。エッグが欲しいのなら、必ずもう一度現れるはずだ。
 改造銃のひとつでも造ってもらうかと半ば本気で考えていると、話が終わったようで、蘭とコナンが戻って来た。


ひじり姉ちゃん、ただいま。どう?鳩の様子」

「大丈夫。またすぐに飛べるようになるよ。それで、話はどうなった?」

「うん、あのね…」


 2人の話を要約すると、どうやらエッグはふたつあった可能性が高く、それを確かめるためにも、エッグを造ったと思われる夏実の曾祖父が建てた香坂家所有の城に全員で赴くことになったとのこと。


「全員で?」

「ああ、みんな目の色変えちまったよ」


 コナンにこっそり問えば頷かれ、それはそれは、と肩を竦める。
 夏実は笑顔で快く受け入れたようだが、もう少し人を疑うということを覚えた方がいいのかもしれない。


「キッドの奴、死んだと思うか?」

「思わない」


 きっぱりコナンの問いを否定すれば、だよなと返される。
 寺井から聞いておらずとも、ひじりはキッドが容易く死んだとは思えない。あの赤井にあれだけ鍛えられていて死んだとなれば、死んでも死にきれないだろう。


 コンコン


「はーい」


 ふいに部屋のドアがノックされ、蘭が立ち上がってドアに向かう。ひじりも立ち上がって訪問者を見てみると、蘭が開けたドアの向こうに寒川がカメラを構えて立っていた。


「うーん。いいねぇその表情。いただきぃ。お、工藤さん。どうだい俺とお茶でも」

「「「帰れ」」」


 寒川は少し驚いた顔の蘭をカメラに収めるとすぐさまひじりの方を向いて声をかけ、それを声を揃えて3人が却下する。断られた寒川はしかし苦笑して肩をすくめただけで、蘭の顔が撮れたことで満足したのか、口笛を吹いて去って行った。
 その背中を厳しい目で蘭が見送る。ひじりは早々に意識を外していた。

 すると今度は園子に「はーい蘭、ひじりお姉様」と声をかけられ、振り返れば園子と夏実、それに西野の3人がいた。どうやら遊びに来たらしい。
 蘭は一度ひじりを振り返り、ひじりがそれに頷くと快く3人を部屋に迎えた。


「お邪魔します」

「失礼します。─── わっ!?


 部屋に足を踏み入れた途端、西野は口元を押さえて「やっぱり僕遠慮します!」と言うと走って部屋を出て行った。その様子に誰もが不思議そうに首を傾げる。園子が美女ばかりだから照れてるんだ、と言うがたぶん違う。


「もう1人の美女を忘れてた!呼んで来るね」

「うん、青蘭さんね」

「行くぞおチビちゃん」

「ボ、ボクも行くの~?」


 問答無用でコナンを引っ張って連れて行く園子を見送ったひじりは、お茶の用意を内線でスタッフにお願いし夏実にソファを勧めた。
 礼を言って腰を下ろす夏実を見てひじりも鳩の近くに座れば、夏実にじっと見つめられて首を傾げ、そういえばお互い自己紹介をしていないことに気づく。


「申し遅れました。私は工藤ひじり。蘭の幼馴染です」

「あ、私は香坂夏実です。パリでパティシエをしていました」


 握手を交わし、再び腰を落ち着け他愛のない話をしていると、園子とコナンが青蘭を連れて戻って来た。
 少ししてコナン用のジュースと紅茶、それにクッキーなどの菓子が届けられ、それぞれ口にしながらお茶会を始める。
 夏実の話になれば、夏実は20歳のときから7年間ずっとパリにいたらしく、そのせいか時々変な日本語を使うのだと苦笑した。


「あ…変な日本語って言えば、子供の頃から妙に耳に残って離れない言葉があるのよねぇ」


 園子がクッキーを齧りながら何ですか?と問う。夏実は笑顔で答えてくれた。


「『バルシェニクカッタベカ』…バルシェは肉を買ったかしらっていう意味だと思うんだけど、そんな人の名前に心当たり、ないのよね」


 バルシェニクカッタベカ。確かに変な言葉だ。ただの標準語としてもおかしい。
 夏実は祖母に育てられたらしいので、もしかするとロシア語なのかもしれないが、生憎ロシア語には精通していないので分からない。


「……あれ?夏実さんの瞳って」


 ふいに今まで黙ってジュースを飲んでいたコナンが夏実の目を見つめると、夏実は「そう、灰色なのよ」とコナンによく見えるよう屈んで言った。


「母も祖母も同じ色で、たぶん曾祖母の色を受け継いだんだと思う」

「そういえば、青蘭さんの瞳も灰色じゃない?」


 蘭の言葉に、つられて青蘭の目を覗きこむと、確かに夏実と同じ灰色だった。夏実と青蘭にまさか血の繋がりはないだろうし、園子の言う通り、中国人も灰色が多いのだろうか。

 蘭が青蘭の名前が「青い蘭」と書き、自分も蘭というのだと名前が似通っている点を挙げると、青蘭はセイランというのは日本語読みで、本当はチンランなのだと教えてくれた。どうやら、中国語でも蘭はランと発音するようだ。
 苗字の浦思はプース。つまり中国語では青蘭の名前はプース・チンランとなる。


(中国人のロマノフ王朝研究家…か)


 さくり。口どけの良いバタークッキーを唇で割り、口の中で噛み砕いたひじりは紅茶を含んで嚥下した。
 気にするほどのものでもない。けれどどこか、頭の中で小さく警鐘が鳴っている。
 それを無視することは、できそうになかった。






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