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 ひっかけ橋こと戎橋えびすばし案は却下され、食い倒れしようとなって数々の大阪名物に舌鼓を打った一行は、歩き回っているうち、陽が暮れた頃に道頓堀へと差し掛かった。結局ここへ来てしまったが、そろそろ時間も迫ってきているのでまぁいいかと内心で呟く。

 ひじりは腕時計を見て時刻を確かめた。19時ジャスト。キッドが動くまで、あと20分。
 さて、と息をつく。途中何度か休憩を入れたが歩き通しで少し疲れた。ということにしてひと足先に失礼しよう。


「ごめん3人共、疲れたから先にホテルに戻っておくよ。3人はまだ楽しんでおいで」

「えっ…じゃあ車呼びましょうか?」

「大丈夫、タクシー使うから」


 園子の気遣いにありがとうと礼を言って、手を挙げてタクシーを止めたひじりは、3人に手を振って乗り込んだ。





□ 世紀末の魔術師 3 □





 今回、快斗は確かに何も教えてくれなかった。しかし、訊かないでいれば使える手札はひじりにもあるのだ。
 蘭達3人をリアウインドウから一瞥し、後部座席から身を乗り出して運転席に座る老人に行き先を告げる。


「港方面へ。キッドはそこへ行く。そうでしょう、寺井さん」

「やはり、ひじりさんには坊ちゃまも敵いませんな」


 信号で止まって振り返った顔は見知ったもので、柔和な笑顔で楽しそうにそう言うと再び前を向いた。
 キッドが逃走用として用意した、タクシーの運転手に扮した寺井に協力を仰ぐと見抜いたひじりは、早々に逃走手段を把握することに成功していた。
 ただ追いかけるだけではつまらない。先回りして待ち構えていればきっと驚く。

 とはいえ、寺井を引き込むのもなかなか手間だった。
 寺井はキッドの仲間。つまりキッドの味方で、追いかける側のひじりの問いには一切答えてくれなかったのだ。
 キッドの逃走ルートはいくつか思い浮かんでいたが、もっと確実にあの白い鳥を掴まえられる方法。寺井が美術館近くにタクシーを停め、何時間も微動だにしなかったことに気づかなければ、もっと地道な追走劇になっていただろう。


(警察にタレこまれたくなければ合図をしたら拾うようにってのは、ちょっと乱暴だったかな)


 中森や茶木はキッド逮捕に燃えているから、どんな小さな不審な点も目に留まれば必ず拾い上げる。だからこその取引だったが、寺井はあっさりとひじりの要求に応えた。
 まったく、詰めが甘い。もっとも、これは正体を知るひじりだからこそできた取引だったが。


「予告状の暗号は解けましたか?」

「はい。予告日時は今日の19時20分。大阪城ではなく、通天閣から盗りに来るんでしょう?」

「正解です。招待状はお気に召しましたか?」

「招待されずとも、会いに行ったんですけどね。ただひとつ気になったのが『盛大なショー』……ん?」


 かちりと時計の針が19時20分を指し示すと同時、大阪城方面から花火が打ち上げられた。それに、成程、と呟く。
 色取り取りの綺麗な花。無数に打ち上がるそれを思わずじっと見つめていれば、ほっほ、と寺井が笑みをこぼした。


「あなた宛ですよ」

「……今度は、隣で一緒に見たいものです」


 夜闇に咲く無数の花。腹に響く音と鮮やかな色が黒曜の瞳を煌めかせる。その顔には、小さな小さな笑み。
 キッドは美術館へ向かったのだろうか、それとも。それはあの白い鳥をこの手にしてから訊いてみよう。
 タクシーは大通りではなく横道に入った。速くはない速度ですいすいと細道を迷いなく進んで行く。花火が落ち着いた頃、突如街から明かりが消えた。


「…確かに盛大ですね、これはまた…」

「今夜の彼は、“世紀末の魔術師”ですから」


 電気が遮断されれば停電し、当然信号も消えて大通りがパニックになる。それを見越して寺井は裏道に入ったというわけだ。
 花火はひじり宛というのもあっただろうが、周囲の目をフェイクである大阪城に向けさせるため。
 だが停電させたのはなぜだ。たとえ停電させたとしても、美術館はすぐに自家発電で明かりを取り戻してあまり意味がないはず。
 キッドは意味の無いことはしない。ならばこの停電には必ず意味がある。たとえば、中森のキッド対策の上を行くために。


(……そういえば中森警部、捕まえるじゃなくて盗らせないって言ってた)


 ふいに思い出した昼間の言葉。半分聞き流していたそれが意味するところは。
 キッド逮捕に燃える中森が、盗らせないための対策。つまり─── 美術館に展示されているものは、偽物か。


「中森警部は、エッグを別の場所へ移動させているんですね?」

「そこまでお分かりになりましたか。流石ひじりさん」

「となるとこの停電は───」


 中森が移動させたエッグの在り処を炙り出すためのものか。
 街中を停電させて電力を落とせば、重要施設はすぐに自家発電に切り替え明かりを取り戻す。中森がいる場所は判らないが、暗闇のまま警護はしないだろうから自家発電のある施設に限る。
 そして彼ら警察は、一般人にパニックを起こさないため保管場所として病院などの重要施設は避けるはず。そうなれば、重要施設以外で電気が灯った場所が、エッグの在り処だというわけだ。
 おそらくキッドは最初から、中森がエッグの場所を移す可能性が高いと踏んでいた。
 だからこその、この周到さ。まったく恐れ入る、とひじりの方が舌を巻く思いだった。


 ピリリリリ


(…新一?)


 このタイミング。もしかすると暗号が解けたのだろうかと電話を取れば、予想通りコナンの声が耳朶を打った。


ひじりか!今オメーどこにいる!?』

「どこも何も、街の中。……暗号、解けた?」

『やっぱオメー、解いてやがったな…!』

「さっき解けたから今追ってるんだけど…街の中パニックだね。動けそうにない」


 しれっと嘯いた言葉をどこまで信用するか。
 だが最初から言っていたではないか。ひじりはキッドに“招待”されているのだと。
 コナンは今平次のバイクでキッドを追っているらしい。とはいえ、今からではもう遅いだろう。平次は地上、キッドは空。どちらが速いかは考えるまでもない。


『…ひじり、お前何考えてる?』

「さぁ。けどこれだけは言える。─── 私は誰の邪魔もしない」

『……信用して、いいんだな』

「信じるか信じないかは、あなた次第」


 電話を切り、ひじりはごめんとディスプレイを見つめたまま内心で謝った。
 誰の邪魔もしない─── だから誰にも、私の邪魔はさせない。
 キッドを捕まえようとするのは好きにするといい。捕まったのならそれはキッドの責任だ。けれど、ひじりは快斗を失わないために行動を起こすだろう。
 屁理屈だ理不尽だと言われるだろうが構わない。言われなければそれでいいのだ。


「─── はい、坊ちゃま。お気をつけて」


 ひじりが通話している間に、寺井にも連絡があったようだ。
 大阪湾方面に入ればすっかり人気はなくなり、窓の外を見上げるとちらりと白い翼が見えた。
 キッドを追いかけているはずのコナンが見えないのは、距離が離れていることと、遭遇しないよう寺井が敢えて道を外しているからだろう。


「───?」


 ふいに、橋の上の人影に気づいた。暗くてよく見えないが、腕を上げているのが判る。
 何となく気になり、ひじりは窓を開けた。人影とすれ違う。瞬間、心臓を冷たい針が刺したような感覚が走って人影を凝視した。


「殺気…何で」


 今までに感じた、素人が抱くものではない。ターゲットを仕留めるときのみ発されるおぞましい気配に、頭の中の黒を振り払う。
 違う、彼らではない。組織特有の匂い・・はない。ならば、誰だ。誰が、誰を狙って───


「……まさか」


 はっとして闇を滑る白を見上げる。人影に視線を戻せば、月明かりに鈍く反射したものに目を瞠った。
 その照準が、間違いなくキッドに向いている。それを悟って思わず腰を探るも、訓練のときに使用していた銃が今あるはずがない。
 ひじりは寺井の無線を引ったくった。寺井が驚いているが気にしている余裕はない。


「キッド!橋の上の人影!銃を構えている、避けなさい!」

「何ですって!?」


 珍しく声を荒げるひじりに、寺井が驚愕の声を上げた。キッドがひじりに声を返すよりも早く、視線の先でぐらりと大きく白が傾いだ。
 瞬間、ひじりの目が鋭く細まり橋の上の人影を振り返る。相変わらず暗くてよく見えない。


「……覚悟しておけ」


 ぼそり、地を這う低い声が物騒な響きを持って呟く。寺井がそれに身震いしたことには気づかない。
 ひじりはすぐに冷静さを取り戻すと瞬時にキッドが風に流されていった方向を把握し、タクシーをそちらへ向けさせる。
 後部座席に深く腰を沈め、左手の薬指にはまる指輪をひと撫でして、ひじりは瞼を閉ざした。






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