80
森園家は大きな家だった。
少し古いがそれだけの貫禄があり、重松を始めとした使用人も少なくないだろう。
中へ入れてもらい、広い庭を進んでいると、ふいに木の上から人が降って来た。
「あ…」
隣を歩いていた楓が声を上げて軽く目を瞠る。
唐突に目の前に降って来たのは猫を抱えた若い男で、彼を見つめる楓と彼とを交互に目だけで見、
ひじりはふぅんと小さく息をついた。
□ おそろい 4 □
いきなり降って出て来たことを「お客様の前で失礼だぞ!!」と叱りつけられた青年の名は、
桜庭 祐司というらしい。森園家の使用人で、ちょうど当主の猫が逃げ出し木に登ったのを捕まえて降りてきたところだった。
しかし猫は桜庭の隙を突いてまた逃げ出し、桜庭が慌てて猫を追う。重松は仕方がないとでも言うように苦笑をこぼした。蘭と和葉も笑みをこぼす。すると、ふいに後ろから女の声がかかった。
「あらあなたね!我が弟の姫君は…」
彼女は細めがちの目をさらに細めて威圧感を出して楓を見つめ、家のしきたりを骨の髄までみっちり仕込んであげるから、と凄むと次の瞬間には愛嬌のある満面の笑みを浮かべた。
「なーんてね!私は姉の百合江!普段は外国に行っててうるさくしないから安心してね!
それよりやるわねあなた!ここに通いつめて、プレイボーイのあの弟を落としたそうじゃない?」
にまにまと笑いながらそう言った百合江に、「え?」と楓が戸惑う。そこに慌てて重松が割って入り、ひと目惚れをしたのは菊人の方だと訂正した。
それに不思議がりながらも百合江が去り、ひと息ついた重松が気を取り直して再び案内をする。
いつの間にか夕食も相伴する流れになっていて、断る理由もないので
ひじりと快斗も厚意に甘えることにした。
一般家庭のダイニングに相当する部屋に招かれて腰を落ち着け、執事達が準備をしていくのを黙って見つめる。
現森園家当主、
幹雄は小五郎に感心を寄せ、写真を申し出たところで、快斗があっと声を上げた。
「小五郎さん、あとでオレにもサインください」
「サイン?」
「クラスメイトがファンなんですって。お願いしますね!」
「しゃーねぇなー」
口でそう言いながらも、小五郎の口は緩んでいる。ファンと聞いて嬉しいのだろう。
そうこうしているうちに、楓の結婚相手である菊人が部屋に入って来て楓に声をかけた。
顔は整っているがシャツをはだけさせてどうにも軽そうで、成程百合江がプレイボーイと称するわけだと納得する。あまり楓に似合った男ではないが、他人が口を挟むことでもないし、それなりに大切にしていることが判る。
ひじりが早々に視線を外すとふいに菊人の視線が
ひじりに向き、へぇと興味を抱いたようで目を細められた。それを見た快斗が
ひじりの髪に何かついていると言って梳き、引き寄せるようにして菊人を睨む。菊人が肩をすくめた。
(……嫌な気配だ)
快斗の手が離れていくのを視界の端に入れ、内心で呟く。
ともすれば見逃しそうな、ちりちりと小さく首筋を掠めるそれは、間違いなく殺気と呼べるもの。
だが、事が何も起きていない今、出元が誰か判らず
ひじりが止めることは難しい。事を起こした後だとしても、証拠がなければ犯人と断定することはできない。
(明日結婚式だというのに…何をしようとしている?)
それとも、明日だからこそ何か仕出かすつもりなのか。
考えたところで分かるはずもなく、
ひじりは重いため息をそっと吐き出した。
食事を終え、屋敷に泊まる平次と和葉に手を振った
ひじりはコナン達の後ろを快斗と共に歩いていた。
このまま何事もないといいという願いは、しかし唐突に響いた音に切り捨てられた。
ガシャァン!!!
はっとして誰もが振り返る。快斗が庇うように一歩前に出て、
ひじりは表情の向け落ちた顔を3階の窓に向けた。パラパラとガラスの破片が地面に落ち、コナンが「あの窓見張ってて!」と
ひじりと蘭に言い残して駆け出す。
コナンが行くなら大丈夫かと小さく息をついた快斗だったが、その手をむんずと小さな手が掴んで引っ張った。
「快斗兄ちゃんも来て!」
「うえぇえ!?」
「和葉!念のためや、重松ハン呼んで来てくれ!!」
何でオレも!?と快斗が叫ぶがコナンはきれいに無視し、平次も続いて屋敷へ走る。
ひじりは快斗が連れて行かれたことに一瞬だけ眉をひそめ、だがすぐに元の無表情に戻って走り出した和葉と小五郎を見送る。
犯人が来ることはないだろうと思いつつ、蘭と共に3階の窓を睨むように見た。
バタバタと屋敷内が騒がしい。怒鳴るような声もする。
じっと一部が割れた窓を見上げていた
ひじりは、ふいにその隣の窓が片方だけ雨戸が閉まっていることに気づいた。使用人が多くいるこの邸で、閉め忘れたはずもあるまい。ということは、あそこには何かがある─── あるいは、誰かがいる。
そう察すると同時に和葉の悲鳴が響いて、一瞬だけ目を伏せた。
(─── 探偵が2人もいて……逃げ切れると思うな)
ああ、いけない小五郎を忘れていた。3人だ、3人。
和葉の悲鳴に服の裾を掴んできた蘭の頭を安心させるように撫でる。
少しして、ガラスの割れた窓が開いてコナンと平次が顔を出した。
「姉さんら、この窓ずっと見張ってたんやろ?」
「こっちの窓から逃げた人なんていないよねー?」
「うーん!そんな人誰もいなかったよー!」
蘭の返事を聞いて2人が顔を引っ込め部屋に戻り、代わりにひょいと快斗が顔を出した。
些か固い顔を俯かせて首を振る。それだけで察した
ひじりはひとつ頷きを返した。すると何やら呼ばれたようで、唇だけですみませんと言うと顔が引っ込む。
「どうやら中で人が死んでるみたい」
「え?何で分かるの?」
「快斗がそう言ったから。誰かまでは判らないけど…」
先程の快斗とのやりとりが言葉のない会話だと気づき、蘭が感嘆の声を上げる。
人が死んでいるということは、十中八九殺人。
ふっと息をつけばまた唐突にガラスが割れ、びくりと身を竦めた蘭がぴたりと
ひじりに引っ付く。
「な、何…?」
「……何かあったのかもしれない」
呟くと、何だか門の方もがやがやと騒がしくなってきていることに気づく。振り返ればマスコミが続々と駆け付けていて、使用人が押し留めているが時間の問題かもしれない。
警察は呼ばれただろうし、となると来るのはおそらく目暮。毎度毎度ご苦労様ですと内心でねぎらい、マスコミに気づかれないよう蘭を促して玄関から屋敷へ入る。騒ぎが収まるまでは中にいた方がいい。
「あ、
ひじりさん!」
玄関の隅に蘭と立っていると、幹雄と小五郎、そしてコナンと共に快斗が降りて来て、
ひじりに気づくとすっ飛んできた。
いきなり連れて行かれてさぞ困惑しただろう。頭を撫でてやれば照れながらも笑みをこぼし、だが蘭の存在に気づくと慌てて手を離させた。
そのまま手を繋ぎ、蘭に近づくコナンを横目にこっそり言葉を交わす。
「亡くなっていたのは、重松さんでした」
「さっきガラスがもう一度割れたのは?」
「菊人さんが不謹慎なことを言って、それに桜庭さんが怒って殴ったんです。重松さんを本当の親のように思ってたみたいで…」
ひじりの視線の先で、幹雄が開けた扉の向こうから目暮が入って来てマイクを向けるマスコミを「取材は後だ!」と怒鳴りつける。
あ、高木刑事。ロッジや城での事件などで顔を合わせたことのある顔がマスコミ必死に抑えこみ、その隙に他の警察関係者が何とか入ってくる。
鑑識の人達が入り切ったときには既に疲れ、ため息をつきながら小五郎と幹雄の案内で階段を上がって行くのを見送って口を開いた。
「……現場は?」
「密室でした。どこの窓にも鍵がかかっていて、部屋の鍵は重松さんが持ったままで」
「その部屋、隣の部屋と続いてた?」
「え?……ええ、そうです」
頷く快斗に隣の部屋の雨戸が一部閉まっていたことを話すと、快斗は目を見開いた。まさか、と小さく呟かれ、そのまさかかもしれないと短く返す。2人の考えが正しければ、密室殺人とは言えない。
「あっ、それと、猫がいたんです」
「猫?」
「はい。重松さんがいた部屋に、あの猫が」
それはどうにも引っ掛かる。猫がいなくなれば幹雄は捜させるだろうし、そうなれば人が来るかもしれないのに。否、それは部屋の鍵を閉めておけば問題ない。
しかし、それでは猫はいつまで経っても見つからないし、そもそもなぜ鍵のかかった部屋に猫がいたのだ。
いることに気づかず犯行を犯した?その可能性も捨てきれないが、もし敢えて部屋に入れていたのなら。
「……情報が足りなさすぎるね。でもまぁ、この件は2人の探偵に任せておいても大丈夫だろうから、私が考えることはないか」
ぽつりとひとり言をこぼすと、数秒宙を見つめていた快斗は玄関の扉を振り返る。
「じゃあオレ達はオレ達で、別の気になることを探りましょうか」
快斗がきれいなウインクをしてにんまりと笑い、
ひじりが頷く。
余計なお世話だとは分かっている。赤の他人が触れるべきことではないとも分かっている。
それでも、
ひじりと快斗を羨ましそうに、決して手が届かないものを眩しそうに見つめていた楓に笑顔の花が咲かせられるのなら。
探偵には探偵にしかできないことを。私達は私達にしかできないことを、しようではないか。
ひじりがお願いねと頷くと、しっかり頷き返した快斗は繋いでいた手の甲にキスを落として外のマスコミの波へと走って行った。
← top →