66





 コナンは自分が見ておくから、と言って他の人間を下がらせたひじりは、一度水を替えに風呂場の洗面所へ行って部屋へ戻り、解熱剤が効いてだいぶ熱が引いた額からタオルを外した。桶に汲んだ水にひたして絞り、再び額に置く。呼吸もだいぶ安定したし、あとは少しの間くらい放って置いても大丈夫だ。

 ひじりが一度リビングに顔を出せば何やらマジックの真っ最中で、荒に誘われたが遠慮すると、ちょうど持って行こうとしていたのだと蘭からコップに入ったジュースを受け取った。


「コナン君はどう?」

「大丈夫、熱は引いた。もう少し様子を見たら降りてくるから」


 ジュースを用意してくれたことに礼を言って部屋に戻る。
 コナンはまだ目を覚まさない。ベッド脇に腰掛け、ジュースをひと口飲むとコナンの前髪を優しく払った。





□ 奇術愛好家 3 □





 快斗は赤井やひじりと鍛練を始めてから身体能力が上がり、気配などにも敏感になった。
 そのお陰で以前宝探しゲームで博士の別荘に行ったときに不審者にすぐ気づくことができたが、今回のように元々計画されたものであるなら尚更、自分に向けられない殺気に今の快斗が気づくことは難しい。ひじりでさえ、田中をひたすらマークし続けていなければ分からなかっただろう。

 田中の殺意は徐々に明確になりつつあるが、このロッジは閉鎖された空間。
 もし殺人が起きたりしたらすぐ明るみになるし、みんな基本リビングに揃うので、そもそも犯行を犯すこと自体が難しい。実行するとしたらみんなが寝静まった頃。あとで土井塔に殺気について話すか、と考えながらひじりはジュースを飲む。


(新一がいるのに小五郎さんがいないということは、橋が落ちてる可能性がある……あのときのガソリンの臭いはそういうこと?)


 逃がさないようにしているのか、邪魔が入らないようにしているのか。
 もし予想通りなら電話も繋がらない可能性がある。圏外だから携帯電話も通じない。小五郎が警察を呼んだとしても、ここは山奥なので夜間にヘリを飛ばすことはできない。


(まだ来ていない“影法師”と“脱出王”…チャットでは仲が悪かった2人。“脱出王”がボードリーダーの西山さんで、“イカサマ童子”が田中さんなら、“影法師”は…誰?)


 チャットでの情報と快斗からの情報、ロッジで知り得た情報をそれぞれ線で結んでいく。
 半年前、“イカサマ童子”が春井風伝だと知らずに、脱出マジックが見たいとチャットでは盛り上がったと園子から聞いた。
 その後先月のショーで脱出マジックを行い、事故で春井風伝は亡くなった。その直後激昂した“影法師”と、すり替わった“イカサマ童子”。
 “影法師”はもしかすると春井風伝の関係者なのかとそのとき考えたが、実際オフ会にいた関係者は孫娘の田中が名乗る“イカサマ童子”だった。
 ならば“影法師”はいったい何者なのか。最近入ったにも関わらず半年前の内容を知っている人物。
 田中以外の関係者の可能性も否定できないが───


(まさか“影法師”と“イカサマ童子”は、イコールできる?)


 だが、それに一体何の意味がある?
 複数のIDとハンドルネームを使い分けることは快斗もやっているのでありえなくはない。しかし、もし2人がイコールできるのなら、わざわざ2つのIDとハンドルネームを使い分け同じチャット内にいたのはなぜだ。
 “影法師”が来ていないという事実から、もしかしたら田中が起こした事を全て“影法師”に押しつけるつもりなのか。


「……?」


 つらつら考えているとふいにくらりと視界が揺れ、額を押さえた。
 思考が散乱して、頭に霞がかかったような不快感と共に感覚も鈍くなり、先程まで聞こえていた階下の声が遠くなる。倒さないよう床の端にコップを置いてベッドに寄りかかった。もしやコナンから風邪をもらったか。


ひじりお姉ちゃん?」


 ふいに蘭がドアから顔を覗かせ、その気配に全く気づかなかったことに小さく眉をひそめた。それでも蘭に顔を向け、どうした?と平静を繕って問う。


「これから飲み会するみたい。コナン君の熱も下がったみたいだし、一緒にどうかなって思って。そうそう、浜野さんのマジック、すごかったよ。最後ちょっと失敗しちゃったけど」


 部屋に入り、コナンが静かな寝息を立てているのを確認して蘭が笑う。
 ひじりは浜野が行ったというマジックの内容を、霞を振り払いながら聞いた。
 蘭とコナン以外全員の名前を書いた紙に園子が適当に○×△を書き、それぞれの名前を当てるというもの。
 ○は西山が来るまでの仮のリーダー、×は宴会部長、△は風呂焚き係。浜野は仮のリーダーは黒田、風呂焚き係が田中と次々当て、最初宴会部長は土井塔だと予言したが実際は浜野で最後は失敗したと。


「宴会部長になっちゃったから、何かするみたい。ひじりお姉ちゃんも来ない?」

「ああ…ごめん。コナンの風邪がうつったかもしれなくて少し体がだるいから、休むよ。でも浜野さんがマジックをするのは見たいから、そのとき迎えに来てくれる?」

「分かった。土井塔さんから風邪薬もらう?」

「気のせいかもしれないし、いいよ」


 田中が風呂焚き係となったなら、その間は何もできない。素人とはいえ浜野が自ら言い出したマジックを失敗したことが気になるが、そういうこともあるだろう。
 蘭が部屋を出て行って、ふとすれば遠くなりそうな意識を掴んで鈍い思考を何とか働かせる。


(…熱はない、疲労からでもない強制的な睡魔……もしかしたら、これは)


 ─── 睡眠薬。

 だが、なぜ自分が。誰が仕込んだ。このジュースは蘭から受け取ったものだが、蘭がまさか仕込むはずがない。
 しかし隠れて睡眠薬を入れることは誰にでもできただろう。届けるのだと分かりやすく盆にのせていたし。
 ぐらぐら頭が揺れる感覚にたえきれず、ひじりは目を閉じた。


(……だめだ、もう、いしき、が)


 抗い難い睡魔に見舞われながらも、何とか保とうと上着のポケットに入れておいたペン型スタンガンを震える手で取り出す。だがロックを解除しようとしたときペンが手から滑り落ち、それを拾おうとして体を傾けると床に倒れこんでしまった。
 ふっと意識が遠のく。コナンの寝息だけが静かに響く中、ひじりの意識は闇の中に沈んだ。





■   ■   ■






 すっかり宴会の準備が整ったリビングにひじりとコナン以外の全員が集まって席に着く。
 先程コナンの様子を見に行った蘭によると、コナンの風邪がうつったかもしれないから少し休むとのこと。風邪薬持って行きましょうかと土井塔が問えば気のせいかもしれないからいいって、と言われ素直に引き下がった。
 ひじりのことが心配ではあるが、今の自分は土井塔克樹で、しかも彼女を「ひじりお姉様」と慕う園子にじろりと半眼で睨まれて半ば監視されているのだからへたなことはできない。
 ハハハ、と乾いた笑いを向けて怖ぇと内心で呟きすぐに視線をそらし、その先に田中を視界に入れて目を細めた。
 彼女は春井風伝の孫娘。死んだはずの春井風伝こと“イカサマ童子”が通信し続けていることを不審に思って今回のオフ会に参加し、田中が騙っていたことにはすぐに気づいた。
 何事も起きず終わってほしいと願うが、鍛えられた第六感が無情にも否定する。


(さっきのマジック、彼女がサクラなのはすぐに判ったけど…最後に浜野さんが外したことには何か意味があるのか?)


 田中が浜野のマジックのサクラであれば、浜野が外すはずもない。
 浜野は“消えるバニー”。先月春井風伝が亡くなったあとのチャットの内容を知っているので、何かするつもりなのかとは思うが。
 だが田中もまた風呂焚き係。風呂焚き場は外。浜野の部屋は3階。距離は遠く、あらかじめ風呂を焚いておいたとしても、もし殺人を犯せばすぐに疑われてしまうから滅多なことはしないだろう。


(あるいは何かトリックを使って…?)


 考えるが、それは自分の分野から外れている。自分は探偵ではない。けど、と夕方ロッジの周りを見て回っていたときのひじりの顔を思い出す。
 ひじりは基本無表情ではあるが、自分にはその表情の差がよく判る。難しい顔をしていた。嫌な予感を感じ取っているような。あれがどうしても、気を抜けさせないようずっと警鐘を鳴らし続けている。
 とにかく後でひじりと相談しようと決め、そっと息を吐いたのとほぼ同時に荒が席に着いた。


「ボードリーダーの“脱出王”さんはきっとそのうち…」

「─── 来ないよ」


 荒の言葉を、突然固い少年の声が否定した。
 振り返って見れば目を覚ましたらしくコナンが少々荒い息をしながら立っていて、驚愕の事実を皆に告げる。


「その人殺されたよ…自宅のマンションで」

「こ、殺された!?」


 鋭く目を細めて田中を見る。驚いた顔をしているが、それが本物ではないことくらい見抜ける。
 遅かったか。このロッジに来た時点で、事はもう始まっていたのだ。
 コナンは“脱出王”が西山 務という名前であることを確認し、ラジオで言っていたものと同じだと続けた。


「ボクはそれを教えるために戻って来たんだ…みんなに危険が迫ってるってね」

「でも、何で私達まで危ないわけ?」

「殺された西山さんの傍にあったパソコンのモニターに、メッセージが残されてたんだ。『まずは1人目… 影法師』ってね」

「な、何だって!?」


 誰もが驚き声を上げる中、土井塔はひとり違うところに眉をひそめた。
 “影法師”。誰だろうとは思っていたが、まさかここでイコールで繋げられるのか。
 西山を殺害したのは、間違いなく田中だ。ならば狙うはもう1人─── 浜野。


(くそっ、間に合ってくれよ…!)


 ひとりで部屋にいるはずの浜野の身を案じて全員で部屋に行き、ノックしても返事がないためやむを得ず中に入る。
 窓が開いていることに気づいて誰よりも早くコナンが駆け寄った。下を覗いたが落ちてはいないようでコナンがほっと息を吐いたが、同じく窓に寄った蘭が何かに気づき、震える声で「ちょっとあれ…」と言いながら指を差す。


「浜野さんじゃない?」


 裏庭のほぼ中央。何の足跡も引きずられた跡もなく、彼は静かに雪の中で横になっていた。
 それを目にした土井塔は素早く部屋を飛び出すとロッジを出て浜野に駆け寄る。真っ白い顔、半開きの口、見開かれた目。上体を起こして脈に手を当てれば既になく、生きる人間の体温は感じられなかった。


「来るな!!」

「え!?」

「来ても無駄だ…もう死んでるよ」


 脈を取るために起こした体を元に戻し、深くため息をつく。


「それに、これ以上現場を荒らしたくない」

「げ、現場…?」

「見て分からないの?」


 土井塔が吐き捨てるように言えば、戸惑う荒にコナンがすぐさま返した。
 死体はロッジから10m以上離れていて、しかも周りには今駆け寄った土井塔の足跡しか残っていない。
 雪も降っていない今、足跡を残さずに移動することなど翼でも持っていない限り不可能な、ただの人間ではなしえない、自殺ではない殺人。


「─── 不可能犯罪だ」





 top