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「元組織の研究員、か」
赤井の低い呟きに、
ひじりは無言でペットボトルのお茶をあおった。
□ シェリー 3 □
空には太陽が雲に遮られることなく浮かび、その光と熱を地上に降らしている。
とある大きな公園の噴水前に並んで座りながら、赤井の方を見ることなく
ひじりはペットボトルから口を離した。
「元は18歳。組織内ではシェリーと呼ばれていました。本名は宮野 志保」
「…宮野 志保?」
「知り合いですか?」
「……少しな」
意外な繋がりを赤井が肯定するが、その顔を横目で盗み見るとどこか痛みにたえるような顔をしていた。ぎち、と赤井の持つペットボトルに力がこめられる。だがすぐに平常心を取り戻し、ペットボトルの中身をあおった。
「お前こそ知り合いだったのか」
「歳が近かったのもあって、時々話をしました。仲良く…は、どうだったんでしょう。初めからお互い遠慮はありませんでしたし、今も悪くはありません。良い方だと言えるのかもしれません」
「そうか」
それきり、2人は沈黙する。
哀が阿笠邸に世話になるようになって早2日。お互い口にはしないが元々何となく気が合っていることもあり、たまに軽口を叩き合いながらも、傍から見れば仲良くしているのだとは思う。
ちなみに、今日は定期連絡の日ではなかったが、哀を博士が拾った日に赤井に連絡しており、都合がついたのが今日だった。
元組織の一員を家主が拾ったとだけ報せ、詳しい話は後日と後伸ばしにしたため、赤井に語り終わったときにはだいぶ時間が過ぎていた。
休日のため子供達が遊び回る公園内を何となく眺める。
話すかどうか迷ったが、結局組織の薬で幼児化した新一のことは話さなかった。
すべてを赤井に話さなかったのは、信用していないからではない。
ひじりとコナンでは、領分が違うのだ。2人が進む道は似て非なり、こちら側の手をコナンに伸ばしたくはなかった。
それに、
ひじりにとって、新一は大切な存在で実の弟のように思っている。
新一は両親の庇護の手すら振り払って「これはオレの事件だからオレが解く」と言い張ったから、幼児化していることを知って近づいてきたFBIと協力し、一気に深く踏みこんでいく可能性があるだろう。
そんなことはさせたくない。それは自分のエゴでしかないと分かっているが、それでも危険な目に遭ってほしくない。
だから、話さなかった。いずれ赤井はコナンがイコール新一と気づくかもしれないが、それまでは知らないでいてほしかった。
巻き込むのは、一緒に死ぬのは─── 快斗だけがいい。
「……シェリーは」
「?」
「…宮野志保は、そのまま本名を名乗っているのか」
「いえ。今は灰原 哀と偽名を使って、数日内には帝丹小学校に入学する予定です」
ペットボトルのお茶をひと口含んで答え、赤井を見る。
赤井もまた表情をはっきり表に出す方ではなく読み取りにくいが、その横顔は苦しげに歪み物悲しさをにじませたものだった。
さすがに
ひじりも首を傾げる。もしかすると2人は知り合い以上の関係なのだろうか。
疑問に思ったが、赤井の雰囲気が問うことを許さない。前髪から覗く目の奥にちろりと憎しみの炎をちらつかせ、瞼を固く閉ざすことで表に出る前に炎を消した赤井がゆっくりと
ひじりを向く。
「ひとつ、お前に頼みたいことがある」
「…何でしょう」
「その灰原哀という娘を、できる限り護ってやってくれ」
感情がこもらないように努めた赤井の声音に、
ひじりは無言でその冷たく煌めく目を見つめる。
哀のことは嫌いではない。だから組織を抜けた彼女を無駄に死なせることはさせないつもりだが、命を懸けては護れない。
ひじりが命を懸けて護ろうとするのは、快斗だけだ。それが分かっているから赤井も「できる限り」と言ったのだろうが、それで快く頷いてあげられるほど
ひじりは優しくない。
「哀との…いえ、宮野志保とあなたとの関係を教えてくれるのなら、できる限り応えますよ」
ひじりの出した交換条件に、赤井は眉を寄せて
ひじりを一瞥し、だがすぐにため息をついて視線を前へ戻した。
薄い唇が開く。宮野志保とは直接的な関係はあまりない、と先に言って話を始めた。
今から3年前まで、赤井は組織への潜入捜査を行っていた。
その際、組織メンバーだった宮野明美─── 宮野志保の姉と接触し、偽名を使って交際を始め、彼女を介して組織へ潜りこんだ。
任務をこなし組織内でうまく立ち回り、暫くしてコードネームを与えられてジンと任務を行うまで何とかこぎつけたが、同じく組織へ潜りこんでいた仲間の1人のミスにより正体が発覚し、潜入捜査は失敗に終わり、組織を追われた。
そうなれば当然組織へ赤井を連れこんだ明美が疑われ、最近「10億円強奪犯が自殺」として処分されてしまった。
「お前とはまた違う、馬鹿な女だった」
小さく、赤井は笑う。
「最初はただの捜査目的で付き合っていたつもりだった」
「……」
「あいつを命に代えても護ってやると約束したんだが、守れなかった。罪滅ぼしにもならないが、組織を抜けたのなら人並みの幸せを知ってもいいだろう」
「だから、私に哀を?」
「俺には、彼女と合わせる顔がないからな」
つまり、赤井は贖罪として自分に代わって
ひじりに哀を護ってもらいたいということか。
何だ、やはりこの男は、どんなに強かろうが冷たい目をしていようがただの人間で、ただ1人の女を愛しただけの男だった。
本来なら自分を都合良く使いやがってと怒るところなのだろうが、赤井の人間くささが知れて、赤井秀一を1人の人間として好ましく思ったので、むしろ上機嫌で頷く。
「赤井さんに免じて、できる限りのことをすると約束します。面白い話も聞けましたしね」
「……フン」
「ところで、哀には証人保護プログラムを勧めないんですか?」
意地の悪い問いだと分かっていて敢えて問う。
灰原哀、あるいは宮野志保としての幸せを願う赤井は「考えておく」とだけ言うと立ち上がり、さっさと公園を出て行った。それを見送り、
ひじりも立ち上がって公園を出て行く。
彼女の幸せを願う人間がいるのなら、彼女は幸せにならなければならないと心の中で呟いて。
赤井と会ったその日の夕刊に、ある薬品会社が原因不明の火事を起こし全焼した記事が載っていた。
哀がシェリーとして携わっていた研究所だ。おそらく逃げ出した彼女の口からバレるのを恐れて先に手を打ったのだろう。この分では、彼女が関わった他の施設も潰されている。薬のデータもおじゃんというわけだ。
「……哀は、元の体に戻りたい?」
博士がいないリビングで、夕刊を広げて読んでいた
ひじりが向かいに座る哀にそう問うた。
赤井に話を聞いても、
ひじりの哀に接する態度は変わらない。
突然の淡々とした問いに、哀は少し考えて首を振った。
「元の体に戻ったらすぐに見つかって殺されるわ。……せっかく幼児化して生き延びたんだもの、もう少し生きてみるわ」
「とはいえ、対して新一は元の体に戻りたい。哀の存在を知れば、解毒剤を作るよう迫ると思うけど」
「あんな膨大なデータ、いちいち覚えてないし研究所は潰された…。難しいわよ。彼は私を追い出すかもしれない」
「それはない」
「あら、どうして?」
ひじりの即答に哀が首を傾げる。
その小さな頭をぽんぽんと優しく叩いて、
ひじりはやわらかく目を細めた。
「私がそうさせないから」
「……」
「それに、へたに哀を追い出して哀の幼少期を知ってる組織に生きてることがバレたら、新一のこともバレる可能性がある。だったら傍で監視しておいた方がいいと新一は判断するよ、きっと」
「流石幼馴染、かしら」
「でも怒るだろうね。知らなかったとはいえ、哀は人を殺す薬を作っていたんだから」
夕刊をたたみながら淡々と言えば、哀の目が大きく見開かれた。
「あなた…知って、たの…?私が知らずに作ってた薬が毒薬だって」
「私はジンの“人形”だったから」
ひじりは黙っていたことを謝らない。ジンの“人形”であった
ひじりにとって、知ればきっと研究を放棄するだろうと分かっていたから口にすることはできなかった。
哀は眉間にしわを寄せて俯き、しかしすぐにふふ、と小さな笑みをこぼした。
「なのにあなた、動物実験の結果をジンに言わなかったの?」
「仮説は立てられても信憑性に欠けてた。それに、いくら“人形”でもすべてを報告する義務はない。私はただの“人形”。抗わず従い続ける、けれど意志をもったもの。まぁ、ジンが話せと言ったら話しただろうけど」
「そうね…そんなあなただったから、私はあなたが嫌いじゃなかった」
ジンの“人形”としてあらゆる知識と技術を詰め込まれながら、宿した意志までは失わずジンに従い続けた女。
しかし、ジンの命令には基本的に従っていたが、爆弾を作ったり銃で撃って人を殺したりすることなどを拒否して絶対に頷かなかった。
それでジンの機嫌を損ねて殺されてしまいかけた場が何度もあったのに、そのたびに
ひじりは恐怖を抱くことなく与えられる“死”を静かに待った。結局、そうして意外と図太くしたたかな
ひじりにいつも折れたのはジンだったのだけれど。
何度か目にしたその光景に、哀がいっそ感心すらしたのを覚えている。
「ねぇ、あなたは檻の外に出て、変わった?」
ぽつり、哀が問う。
ひじりは迷いなく頷いた。
変わった。変わってしまった。だから
ひじりは“人形”でいられなくなり、こうして生きている。
私はジンを殺す。淡々と紡がれた言葉にこめられた意志が、一番変わったのかもしれない。
「ジンはまた私のすべてを奪いに来る。だから奪われる前に奪う。ジンを、殺す。その機会を、私は待ってる」
新一のように追いかけるでもなく、哀のように逃げるでもなく、ただ実弾のこもった銃を手に待っている。
ひじりの言葉に目を見開いて凝視していた哀は、ふと苦く笑うと哀愁を帯びた目を伏せた。
「私も、変わるのかしら」
変わるだろう。嫌でも人は、場所と環境が変われば良くも悪くも変わってしまう。
ひじりがそうだったように。
赤井の言葉が耳の奥に蘇る。人並みの幸せを。彼女に。何も知らない、幼い少女に。
ひじりは目を閉じてただひと言、「変わるよ」と、そう断言した。
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