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 雨が降っている。ぼんやりと自室の窓から外を眺めながら、ひじりは空から滴る雫を眺めていた。
 雨は、黒い記憶を呼び起こす。嫌いではないが、好きでもない。
 赤井達に檻から連れ出されたときも雨で、ひじりが最後に“人形”として檻に戻った日もまた、雨だった。


「にぃ」


 ひじりの膝で丸くなっていた猫がふいに顔を上げて小さく鳴く。
 首を指で掻いてやればごろごろと喉を鳴らし、ひょんと長い尾を振って猫が膝から下りた。小さな足音を立てて猫が部屋を出て行こうとする。だが扉の前で振り返り、にぃ、ともう一度鳴いた。





□ シェリー 1 □





ひじり君!すまん、ひじり君はおるか!?」


 ふいに響いた切羽詰まった博士の声に、猫を見ていたひじりははっとして部屋を飛び出した。階段を降りて玄関へ向かう。そこにはずぶ濡れの博士と、同じく濡れた少女が博士の腕にいた。
 風呂場へ行きバスタオルを2枚抱えて戻る。1枚を博士に渡し、6,7歳くらいの小さな体を覆う、あまりに不釣り合いな白衣を剥ぎ取ってタオルで包んだ。


「博士、この子は?」


 問いながら呼吸と脈を計る。少し速いが問題はない。だが長く雨に打たれていたのか、体が冷えていた。風呂に入れた方がいいが、固く閉ざされた目が開く気配はない。


「あ、ああ。さっき帰ってくる途中に、新一君の家の前で倒れとったのを見つけたんじゃ。見捨てておくわけにはいかんでのう」


 熱はない。気を失っているだけで、今の季節も幸いして、目を覚ましてから風呂に入れても問題はないだろう。
 ひと通りのチェックをすませ少女の濡れた髪を梳いたひじりは、その赤みがかかった茶髪とその下にある顔に珍しく驚きをあらわにした。


(─── この子は…まさか)


 記憶の中よりずっと幼いが、濡れて色の深みを増した髪も可愛らしく整った顔も見覚えのあるものだ。
 ひじりの近くにはコナンという幼児化した例がいる。それに何より、もしひじりの憶測が正しければ、この子は。


「……」

ひじり君…?ど、どうかしたかね」


 厳しさを宿した目を細め、良くはない感情をあらわにするひじりに、博士が不安そうに訊く。
 ひじりはとりあえず考えることをやめ、少女を抱え直すと博士に向かい合った。


「博士、お願い。これから何があっても…どんなに大きな音がしても、絶対に私の部屋に入らないで」

「何じゃと?」

「小さな体に不釣り合いな大きさの白衣。それにこの子の服は大人のもの。普通じゃない。目を覚ましたときに見知らぬ男がいたら混乱するだろうから、とりあえず私に任せてほしい」

「じゃ、じゃが…」

「大丈夫。武器の類は持っていないし、こんな小さな子に負けるほど私は弱くない」


 安心させるように言い、自室に戻るために少女を抱えながら階段を上る。
 博士はまだ不安そうだったが、お風呂沸かしておいて、とやわらかく言うととりあえず頷いてくれた。

 ひじりは自室へ戻り、しっかり扉を閉めて念のため鍵をかけると、濡れるのも構わず少女をベッドにおろした。
 かけていた冷房を弱めると猫がひょいとベッドに上って少女の頬を舐め、枕元で丸くなる。猫を撫でてやり再び少女に視線を落とす。


「……シェリー?」


 ぽそり、呟きを落とす。
 ジンの“人形”であったとき、ひじりは何度かこの少女─── 否、18歳だったはずの彼女と会ったことがある。
 家族は父母姉で、両親は既に亡く、少女と同じ年頃の妹や親類はいなかったはず。他人の空似と思うことを、あの白衣と鼻を掠める独特の匂い・・が否定させる。
 その匂い・・は、組織特有のものだ。直感とも言っていい。ひじりがジンに対して感じたものと似て非なるもの。

 シェリーの本名は確か、宮野 志保。
 この少女があの若き天才科学者であった彼女だとしたら、なぜこんな姿で新一の家の前にいたのだろう。


「ん…」


 小さく少女が呻き、瞼を震わせる。ベッドに腰掛けて少女の前髪を払うと、ゆるゆると瞼が開かれた。
 ぼんやりとした瞳があらわになり、何度か瞬きをした少女は、自分を覗きこみ触れているひじりを視界に入れ、大きく目を見開いた。


 パンッ!


あなた…!─── っ!ここは!?」


 ひじりの手を払い、上体を起こして血相を変えた少女が辺りを見渡す。
 窓から見えた外が住宅街であることに小さくほっと息を吐いたが、すぐにひじりの存在を思い出して頬を引き攣らせ、厳しい目で睨んでくる。
 怒りではない。言うなれば、恐怖だろうか。


「ドール…!あなたがここにいるってことは、ここはもしかして…!」

「大丈夫。ジンはいない。私ももう、“人形ドール”じゃない」

「ドールはジンを裏切らない!ジンもドールを手放さない!嘘を…!」

「嘘じゃない」


 ひじりには“人形”であった間、名前がなかった。だから誰かがひじりを“ドール”と呼びはじめ、それが定着した。
 少女はひじりの言葉に疑わしげな眼差しを向けていたが、ふいにいつの間にか起き上がっていた猫が少女の腕に頭をこすりつけ、毒気を抜かれて呆然と見下ろす少女に「にぃ」と小さく鳴いた。


「…あ…」


 それにより、どうやら少女は落ち着きを取り戻したようで、恐る恐る手を差し出して猫を撫でると、猫はごろごろと喉を鳴らしてひょんと尻尾を伸ばす。
 にぃ、ともう一度鳴いた猫がベッドから下りてひじりの膝に飛び乗る。ひじりは猫の頭を優しく撫でてやった。


「……落ち着いた?シェリー」

「……ええ」


 ぽつりと応えて少女は顔を上げ、だがひじりを見るとすぐに視線を落とした。


「……ドールをジンが手放したって噂、本当だったのね」

「殺される覚悟だったんだけど、生き延びちゃった」

「ドールがいなくなったあと、ジン、すごく不機嫌だったわ」

「もう私には関係のないことだよ」


 ひじりのきっぱりとした否定─── 否、拒絶に、少女は少しの沈黙を挟み、そうね、とか細く頷いた。
 それから少し2人の間に沈黙が下り、それを破ったのはひじりの方だった。


「あなたは、やっぱりシェリーなんだね」

「やっぱりって…分かってなかったの?薬のこと、あなたにだけは話してたじゃない」

「3割疑ってた。反応から見て間違いないと確信したけど。……何があったか、聞いてもいい?」

「……」


 少女、もといシェリーが作っていた薬。それがどんなものかは知らされず作らされていた毒薬。
 ひじりはジンから聞いていたから知っていたが、それをシェリーに教えることはなかった。

 ある時、シェリーは知能の高いひじりに、動物実験のマウスが1匹だけ幼児化したことを教えてくれ、どう思う、と意見を求めた。
 ひじりは薬により細胞の自己破壊プログラムの偶発的な作用であらゆる細胞が幼児期の頃まで後退化する可能性があると仮説を立て、シェリーもまた同じことを考えていたようで「同じ考えよ」と頷いた。
 そしてこのことを、ひじりが他の誰かに、ジンにさえ話すことはなかった。ひじり自ら話す必要性も義務もなかったからだ。

 俯いていた少女は、やがてゆっくり顔を上げ、ひじりを真っ直ぐに見つめた。それをひじりもまた同じように見返し、少女が口を開くのを待つ。


「……私、組織を裏切ったわ。あの試作段階の薬を勝手に人間に投与したことも組織に嫌気が差した理由のひとつだけど…最も大きな原因は私の姉。殺されたのよ、組織の手にかかって。何度問い質しても、組織は理由は教えてくれなかったけど」

「それで、歯向かった?」

「ええ。正式な回答が得られるまで、薬の研究を中断するという対抗手段を取った」


 だが、そんなことをしては。
 ひじりの無表情からでも読んだのだろう、少女は自嘲気味に笑うともちろんと言葉を続ける。


「私は拘束されたわ。処分を上が決定するまでね」


 ひじりは組織に属していなかったとはいえ、その非道さはよく理解している。
 一度組織に入った人間が裏切れば、ほとんどが見せしめとして殺される。それがたとえ、長年組織に貢献し続けてきたシェリーでも。
 もしかしたらその頭脳を惜しんで生かしたかもしれないが、自由は全くなくなる上に全ての行動が監視されるだろう。そして目的を果たしたら─── 薬の研究が終わった時、殺される。


「どうせ殺されるならと思ってそのとき飲んだのが、例の薬」

「……APTXアポトキシン4869」

「そうよ」

「……新一の家の前に倒れていたのは、どうして?」


 ひじりの問いに、少女はふいと顔を逸らした。


「……私にはどこにも行くあてがなかった。噂が本当ならあなたを頼ろうとも思ったけれど、居場所が掴めなくてね。それで次に思いついたのが、工藤新一─── 私と同じ薬を飲んで幼児化した可能性がある、彼だけだった」


 多くはない言葉だが、ひじりには理解できた。
 薬の研究員、そして開発者でもあるシェリーのもとには、勝手に人間に投与されたとはいえ、薬の結果データが数多く渡されただろう。その中には当然工藤新一の名前も載っていたはず。だが新一の死体は見つからず、組織は家を検めに来た。事実、ひじりは怪しげな男達が工藤家に二度ほど入っていたのを知っている。
 ひじりを連れ戻しに来たかと思って赤井には報告して他には黙っていたが、後であれは新一を探りに来ていたのではと思い当たった。その考えは、おそらく外れていない。

 そうなると、気づいたはずだ。
 コナンが幼児化した自分の服を取りに行ったため、それらがごっそりなくなったことに。それを見て以前立てた仮説の信憑性を増したに違いない。
 だがあれからもコナンをはじめとした周囲には何事もないということは、おそらく組織には報告していない。
 研究者らしく、興味深いサンプルであるから生かしておいたのか。組織に報告すれば生きて手元に届く可能性は限りなく低いから。

 シェリーを知っているからこその推理は、間違っていない。
 成程、とひとつ頷いたひじりに少女は満足そうに微笑み、それを見てもうひとつだけ、と問いかけた。


「組織は、私が工藤新一と関わりがあると知っている?」

「知らないわ。あなたはあくまでジンの“人形”。いつ殺されるかもしれないただの愛玩物だったもの。誰もあなたの過去になんか興味を抱かなかっただろうし、私だって今の言葉であなたが工藤新一と関わりがあると知ったくらいよ」

「工藤新一は、私の幼馴染。ここは新一のお隣さんの阿笠博士の家。……新一がジンにあの薬を飲まされたその日、同時に私が“人形”をやめた日まで、新一の家で世話になってた」

「成程。あの家にあった女性の私物、あなたのだったのね」


 母親のものにしては随分若気だったから不思議だったのよ、と謎が解けてすっきりした顔で少女が小さく笑う。
 ひじりは少女を見た。組織を裏切った彼女。信じられるか、と問われればイエスだ。
 少女の言葉に嘘はない。垣間見えた感情も嘘ではない。だからひじりは信じることにした。


「私から博士に頼んでおくよ。あなたをこの家に置いてもらえるよう」

「いいの?危ないわよ」

「それは博士が判断すること。それに…もう工藤新一という例がいるしね」


 言いながら、ひじりは少女の顔に貼りつく前髪を払った。
 体が冷えてるから、お風呂に入りながらもう少し詳しい話をしよう。そう言って伸ばした手を、今度は振り払われず小さな手が取った。






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