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「……以上です」
すべてを話し終えた快斗の頭を無言で撫で、すっかりぬるくなった紅茶に初めて口をつけた。
□ 漆黒の星 10 □
ボレー彗星。月。宝石。パンドラ。不老不死。
何とも壮大な話で作り物と思われても仕方ないようなものだったが、快斗が嘘をつくはずもないし、だからキッドは最近宝石ばかり盗るようになり、目的のものではないと後で返していたのかと納得した。
カップをソーサーに戻すと、寺井が素早く新しいものと替えてくれた。
寺井もまた、父親から怪盗キッドを引き継いだ快斗をサポートするために動いている。
(黒ずくめの男、スネイク…)
話に出てきた、キッドの命を狙う者達。
黒ずくめというのは同じだが、あの組織はコードネームを酒から取ってつけている。関わりがあるのか全くないのかは分からないが、今も尚度々狙うことがあるらしい。
いっそ混同させて赤井達に情報を流して捕まえてもらうという手もある。快斗は渋るだろうが、使えるものは使うのだ。それに、スネイクという男をはじめとした黒ずくめの連中が組織と関わり合いがないという証拠もない。
そういえば、赤井とジェイムズの2人は
ひじりより先にキッドの正体を掴んでいたらしく、内心で驚きはしたが同時に納得もした。
快斗は
ひじりの前では単なるマジック好きな優しい少年で、キッドと知らなければ
ひじりのもとに連れて来はしなかっただろう。そして、協力も。体術も射術も他の技術や知識も、キッドであったからこそのものだった。
ちなみに、快斗が怪盗キッドであるということは2人しか知らないとのこと。吹聴したりすることはないから安心しろ、らしい。
「探偵が好きじゃないのも、キッドだったから?」
「まぁ…どっかの嫌味で甘ったるい口調のキザ野郎のせいで」
「白馬探?」
無言で頷かれる。そういえば彼にあの日から会っていない。しかし特に興味もないのですぐに流す。
ぼやくような快斗の言葉を聞けば、探もキッドの正体が快斗だと分かっているらしい。快斗は否定しているが。
成程だからこその忠告だったのかと探の忠告を思い出す。しかし、もしキッドの正体が快斗だと
ひじりに言っていれば、むしろ逆効果だっただろう。
知らなかったとしてもそれを突っぱねたのだから、いずれにせよ忠告は受け入れられなかっただろうが。
「……
ひじりさん、もしかしてオレが予告状出したらまた来ます?」
「行くよ?予告状出してなくても、キッドが関係してるなら行く」
「気をつけてくださいね」
危ないから来ないでください、とは言わない快斗にそっと頬を緩ませ、気をつけるのは快斗の方、とその額を指で軽く押す。厄介な探偵に目をつけられてしまったし、今までのように簡単にはいかなくなるだろう。
巻き込まれに行ったのは
ひじりなのだから好きに使え、とは言ってあるが、快斗は自分から申し出ないだろうし
ひじりから言うしかない。
まったく、優しすぎる。そういうところも好きだけど。
「快斗。そのスネイク達がもし快斗に─── キッドに手を出したら、そのときは連中に目にもの見せてあげる」
鋭く目を細め、ほんの僅かに口の端を吊り上げて不敵に笑う
ひじりに、ぞくりと快斗と寺井の背筋が凍る。
忘れがちではあるが、
ひじりは快斗よりまだ強く、射撃の腕も赤井にすら引けを取らない。
体術も刃物の扱いも一切の無駄がなく、確実に急所を狙ってくるのを見ると、もしかするとジンは
ひじりを忠実な殺人人形に仕立て上げたかったのかもしれないと快斗に思わせた。
味方だと頼もしいが、敵となったら末恐ろしい。だけどそんなところも素敵だと思うのだから、快斗は
ひじりにべた惚れだった。
しかし、
ひじりのスタイルは自ら攻撃するのではなく、あくまで迎え討つ形だ。これ以上スネイク達がキッドに手を出さなければ
ひじりも手を出すことはない。
殺しはしないだろうがいっそ殺してくれと思うくらいには痛めつけそうな
ひじりを見て、頼むからもう手出しをしてこないでくれよと逆にスネイク達の身を案じてしまった快斗である。いや、
ひじりに傷ひとつでもつけたらそれこそ快斗が容赦はしないけども。
2人がそれぞれ冷たい決意をみなぎらせていると、ふいに
ひじりが「そうだ」と声を上げた。快斗と寺井を交互に見る。
「快斗、寺井さん。優哉って知りませんか。工藤優哉。私の父です。盗一さんが亡くなるまで、どうやら親交があったみたいなんですけど」
「えっ、そうなんですか?」
快斗にとってそれは初耳だが、
ひじりとて有希子に聞くまで全く知らなかった事実だ。確かに以前父に連れられ盗一に会ったことはあるが、親交が深かったとは一切聞いていない。
寺井は工藤優哉様、と名前を繰り返し、宙を見て心当たりがあるのか「そうですねぇ、確か」と口を開いた。
「盗一様から何度か友人であるとお話を聞いたことがありますが、私が実際にお会いしたことはございません」
「ただの友人…だったんですか?」
「優哉様はお医者様でありましたから、たまに診てもらうことがある、と仰っていましたが」
「それは───」
言いかけて、
ひじりは言葉を切った。
確かに父の工藤優哉は医者で、だが開業医ではなくそこそこ大きな病院の勤務医だった。
初代キッドであった盗一をたまに診ていたというのは、キッドとして負った傷を診てもらっていたとも言えるが、寺井が実際にその場面を見たわけでなし、憶測にすぎないだろう。もしかすると、友人として本当にただ診ただけかもしれない。
優哉は実は生きているが、証人保護プログラムを受けて名も戸籍も変わっているから、再び会うことは叶わない。赤井に訊けば分かるかもしれないが、優哉に危険が迫るかもしれない可能性がある以上、接触はできそうにない。
そうなれば、この話は手詰まりだ。寺井は知らず、盗一はこの世にもうおらず、優哉とも会えない。諦めるしかない。
「お役に立てず申し訳ございません」
「いえ。少し気になっていただけですし、知ってどうにかなるものでもないですから」
頭を下げる寺井に首を振る。
「アルバムとかに写真ねーの、ジイちゃん」
「優哉様は写真嫌いだと盗一様が仰っておりましたので…」
「そういえば家族写真もあまり撮らなかった」
七五三のときも、入学式卒業式のときも、優哉はなるべく写りたくなさそうにしていて、だが娘の晴れ姿に並ぶ父親の写真がないのもどうかと思い、渋々撮っていた。
それ以外で優哉が写っているものは少ない。もっぱら撮る方だったからかもしれない。もっとも、家も全部焼けてしまった今では、数少ない優哉が写ったものもすべて焼失してしまったが。
「そういえば、
ひじりさんの本当のお母さんは?」
父親の話から母親が気になったのだろう、快斗の問いに、教えたことがなかったことに気づいた。
意図して避けていたわけではない。もう10年も前に離婚した母の顔を、あまり憶えていないからかもしれなかった。
「お母さんは、10年前にお父さんと離婚した2年後に事故で死んだって聞いた」
「え?」
「両親は離婚するまで仲が良かったはずだけど、何があったのか、離婚してからは一度も会わせてもらってない。葬式もお父さんは絶対に連れて行ってくれなかったから、お墓がある場所も判らない」
優哉は、母親の分まで
ひじりを愛すると言い、言葉通り惜しみない愛情を注いでくれた。
母親とどうして離婚したのかは、
ひじりは最後まで聞けなかった。
嫌っていたわけではない。憎んでいたわけでもない。優哉は再婚するまで、ずっと写真を見つめ切ない顔をしていたから。だから何か、どうしても離婚しなければいけない理由があったのだろうと察した。
母方の親類と交流がなかったのも、葬式に連れて行ってくれなかったのも墓の場所を教えてくれなかったのも、きっと全部に意味があると。
それを確かめることは、もうできないけれど。
「…すみません」
「謝らなくていいよ。変な話をしてごめん、快斗。寺井さんも」
「いえ。……紅茶のお代わりはいかが致します?」
「お願いします」
カップを差し出し、寺井が恭しく受け取って新しく淹れ直してくれた。
複雑な家庭だったと言えばそうなのかもしれないが、
ひじりは父親が大好きであったし、2年間手紙ひとつよこさない母親を薄情だと思ったこともない。
家を出て行く直前の母親の慈愛に満ちた笑顔のせいかもしれなかった。顔はほとんど憶えていないけれど、名前を優しく呼んでくれた声は今もまだ憶えている。
「そんなわけで快斗、もしもっと先まで生きていたら、幸せな家庭を築こう」
「ごふっ」
快斗が勢いよくむせる。寺井が慌てずナフキンを差し出した。
真面目な顔で言った
ひじりはやはりどこまでも真顔で、快斗は顔を真っ赤にさせて目をそらしながらも小さく頷き、やけになったように言った。
「こ、子供は2人は欲しいですね!
ひじりさんに似た女の子とか、絶対可愛いですよ!」
「じゃあ男の子は快斗に似てるのかな……小さい頃の快斗、きっとすごく可愛いだろうね」
快斗にそっくりな新一の小さい頃はコナンとして傍にあるが、
ひじりが見たいのは新一ではなく快斗である。それに幼少期となれば結構顔は変わるものであるし、小さいときのは然程新一と似ていないだろう。
寺井は
ひじりと快斗の会話を微笑ましそうな目をして聞いていた。
「
ひじりさん、よろしければ今度快斗坊ちゃまのお小さい頃の写真をお見せしますよ」
「やった」
「ええっ、いや
ひじりさん!ジイちゃんよりオレの方がいっぱい持ってるから!アルバムあるし!オレん家来て見てくださいよ!」
「どさくさに紛れて黒羽家にお呼ばれされました」
「快斗坊ちゃま、随分と積極的になられましたな」
「ちーがーぁーうー!!!」
ひじりの寺井との息が合った言葉に、さらに顔を赤くした快斗がぶんぶんと勢いよく首を振る。
何だ違うのか。
ひじりとしては別に構わないのだが、まぁ照れ隠しだろう可愛い人だ。
「快斗は今も可愛い」
「……オレはカッコいいって言われた方が嬉しいです」
「カッコいいのはいつもだよ」
「ぅうう…」
耳まで赤くした快斗がカウンターに顔を伏せて撃沈する。寺井は静かに笑っていた。
快斗の癖毛を撫でながら、
ひじりは少しだけ未来を夢見る。
組織との闘いを終えて、平穏を取り戻して、もう少し互いに歳を取って。
ひじりはもう少し感情豊かに表情を出せるだろうか。幸せそうに笑いながら、我が子をこの腕に抱けるだろうか。
そんな夢を、瞼の裏に見た。
漆黒の星編 end.
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