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 私は卑怯な大人だ。
 目的のためならば手段を選ばず、そのためならば利用できるものは何だって利用する。

 それを、まだ幼いあなたに課すのは酷かもしれない。
 けれどこちらに足を踏み入れて来たのはあなた。逃げられない道を選び取ったあなたの手を、私は引いてやらなければ。

 すべてはあなたのために、と嘯きながら。





□ 漆黒の星 9 □





 キッドが向かいの椅子に腰をおろしたのを見て、ひじりは口を開いた。


「船が港に着くまではここにいて、そのあと乗客に紛れて船を降りることをお勧めします。どうせもう何人分かのマスクは用意しているんでしょう?」

「……流石、ですね。あなたの慧眼には恐れ入る」


 ふっと笑みをこぼし、その通りと頷くキッドにひじりは何てことないのだと首を振った。


「大体の性格は熟知してますから。そのマジックの腕も、用意周到さも。そうでしょう、─── 快斗」


 キッドの表情は動かない。だが一瞬ぴくりと頬が引き攣ったことと、シルクハットの下で翳ったその青い目を見逃すはずがなかった。


「……何の、ことでしょう」

「声も顔も変えている可能性はある。けど、私を“眠り姫”と呼べるのは…知っているのは、快斗だけ」

「……」

「カードをもらったときに確信した。快斗がはじめから私のことを知っていたのは、キッドとして私に会っていたから。違う?」

「……」

「だから、私の『死んでほしい』という告白を受け入れたんでしょう。私がキッドにあの問いをしたから」

「だから…オレは、覚悟を決めたんです」


 返ってきた静かな声と細められた目を見て、ひじりはゆっくりキッドのシルクハットを取ってモノクルに指をかける。キッドは抵抗せず目を閉じて受け入れ、モノクルが外された裸眼と素顔で─── 快斗の顔で、優しく笑った。


「まだ名前も知らないあなたとの約束を守りながら、問いの答えをずっと考えていました。ただオレは、あなたをあそこから連れ出したかった。先のことなんか何も考えてなくて、あなたを盗んでしまいたかった」

「けど私は、キッドの手を振り払った」

「……考えが甘かったんです。あなたにあそこまでさせてしまった理由があの問いの中にあるのなら、その答えは、容易に出してはいけない」


 ─── あなたは私のために、死ねますか。


 それが、ひじりがキッドに向けた問いだった。
 死ぬための覚悟があるか。大切な家族も友人もすべてを犠牲にしかねない可能性の上で、それでもなお立っていられるか。二度と平凡ではありえない、逃げることも投げ出すこともできない道を歩む覚悟はあるかと、ひじりは問うたのだ。

 考えて、悩んで、その中でひじりに“快斗”として出会って─── “人形”の目を見て、初めて触れた手はあたたかく、名を呼ぶ声は心地好く、向けられた小さな微笑みに覚悟を決めてしまった。
 愛し、恋したこの人と共に───。


「あなたのために、死なせてください。あなたが永遠に目を閉ざしてしまうその時まで、どうか傍に」


 眠り姫。そうならないようにとの願いをこめたあだ名。
 ひじりは目を伏せ、腕を伸ばして胸元に快斗の頭を抱きこむと「馬鹿ね」と小さく囁いた。腕の中で快斗が笑う。そう、オレは馬鹿なんですよと喉を鳴らした。


「あなたの黒曜石に心を奪われた。それが欲しく欲しくてたまらない、馬鹿な泥棒なんです」


 ひじりの腕の中から抜け出し、優しく微笑んだ快斗に両頬を手袋に包まれた手で触れられる。それが何だかもどかしく、ひじりは快斗の手袋をさっさと外すと、満足そうに快斗の両手を握った。
 ふっと快斗が噴き出す。可愛い人だ。笑みを含んだ囁きがひじりの耳朶を打ち、2人の唇が静かに重なった。
 顔を離して快斗の両手からその頬へと移して包み、ずいっと顔を寄せたひじりは「それで?」と問いかけた。


「どうして、快斗はキッドだって私に言わなかったの?」

「そ、それは…」

「私のことは何でも知っているくせに、私は快斗のことを知らないだなんて、フェアじゃないと思うけど」


 じろりと半眼で睨むと、視線を右へ左へ流しながら快斗はもごもごと口を開く。


「最初は、言い出すタイミングが分からなくて…そしたら今更言うのも難しくなって……それに」

「それに?」

「……オレ、キッドとしても命狙われてるから、巻き込みたく、なくて」


 恐る恐る上目遣いに見られる。ひじりが怒るとでも思ったのだろう。自分は喜んで巻き込まれといて何を言っているんだ、とでも。
 だがひじりは僅かに目を細めたくらいで、表情は無くじっと快斗を見つめている。そうしてひとつため息。びくっと面白いくらい快斗の肩が跳ねた。


「……快斗、あなたは少しズルを覚えなきゃいけない」

「ズ、ズル?」

「卑怯な手、とも言うかな。利用できるものは利用するの。たとえそれが、私でも」


 快斗の目が見開かれた。
 ひじりは快斗の頬から手を離し、真っ直ぐに目を見つめながら自分を示す。


「私は今、快斗より強いよ。射撃の腕も、その他の技術も」

「それはそう、ですけど」

「……私はね、私の事情に自ら巻き込まれにきた快斗を利用してる。FBIの人達のように。だから快斗も私を利用しなさい。何だったらFBIの人達だって。快斗にはその権利がある」


 利用、と小さく繰り返した快斗は、しかし驚いた様子がない。
 快斗自身、ちゃんと分かっているのだ。FBIにもひじりにも自分が利用されていることくらい。または、これから“使う”ためにひじりが赤井に鍛練を頼んでいたことを。
 分かっていて、それでも構わないと受け入れている。自ら巻き込まれるというのは、そういうことだ。


「私が、快斗をキッドだと見抜いて黙ってるわけでもなくこうして話をしているのは、そのためだよ。教えて快斗。どうして快斗はキッドをしているの?その理由を教えて、私を巻き込ませてほしい」

ひじりさん…」

「命の危険がある?尚更のこと。私は快斗に『死んでほしい』と言った。快斗はそれを受け入れた。だから、私の知らないところで快斗が死ぬような目に遭うことは、許さない」


 快斗のためと言いながら、やはり本当のところは自分のためなのだ。そんなこと重々理解していながら、小さくだがはっきりと続ける。


「傍にいたいと思うのが快斗だけだなんて、思わないで」


 ひじりの常に揺れることのない瞳をほんの一瞬揺らめかせたことに気づいた快斗は、ゆっくりと息を吸い、静かに吐き出してくしゃりとへたな笑顔を浮かべた。


「はは……オレ、愛されてますね」

「まだ分からなかった?快斗が思っている以上にね、私は快斗を愛してるよ」


 呆れたようにため息をつく。快斗はすみませんと苦く笑い、椅子から立ち上がって腕を伸ばすとひじりを抱きしめた。
 快斗の腕の中、そういえばこうして強く抱きしめられるのは初めてだと目を瞬かせる。快斗はいつだって優しく丁寧に触れてくるから。


「すみません、ひじりさん。オレの事情に…キッドに、巻き込まれてください」

「もちろん…喜んで」


 あたたかい腕の中、小さな笑みを浮かべて快斗の背に腕を回す。抱きしめてくる腕の力が少し強まる。頬にかかる癖毛がくすぐったかった。
 暫くして体を離した快斗はほんのり顔を赤くしていて、その可愛さに思わず頬を指でつつく。快斗は悪戯してくるひじりの指を取ってキスを落とした。


「本当はちゃんと全部話したいところですが、もう時間がないので」


 言うが早いか、ボーッ!と船の汽笛が鳴った。どうやら入港したようだ。
 快斗はすぐさまキッドの姿に戻り、流れるようにひじりを白い布で全身を覆ったと思ったら、ポンッと軽い音と共に白いワンピースへと服装を変えた。黒真珠をつけていた胸元には一輪の赤いバラが咲いている。


「あなたにいつまでも濡れた衣装を纏わせるわけにはいきませんから。……ブルーパロットですべてをお話し致しましょう。お待ちしておりますよ、私の愛しい眠り姫」


 キザな台詞を残して軽い音と共にキッドが消え、ひじりの向かいにある椅子の上に残されたのは1枚のカード。手に取ってみれば「幼馴染の姿を借りて申し訳ありません」とだけ記されており、港に着いたことだし、キッドなら心配はないが一応蘭の様子を見に行くかと部屋を出る。

 ブルーパロット。つまりは寺井も関係があるということか。そして寺井は昔快斗の父親、盗一の付き人でもあった。
 怪盗キッドが世に現れたのは18年前。そのとき快斗はまだ生まれていないから、おそらく今のキッドである快斗は2代目。

 それはつまり─── そういうことか。

 そしてそれに、盗一が死亡するのと同時に付き合いをやめたひじりの父親が関係あるのか。
 この日から、今まで何も気にしたことがなかった父のことが、少しだけ気になりはじめた。






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