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 会場が暗闇に包まれ、高笑いと共に現れた白い怪盗が手の中の漆黒の星ブラックスターを軽く宙に投げてみせる。
 それに対し朋子はポーチから拳銃を取り出すと、お仕置きしてあげなくちゃ、と言ってスポットライトを浴びる彼に引き金を引いた。
 甲高い破裂音が数発響くが、その拳銃に弾が入っていないことがひじりには判った。火薬を仕込んで大きな音が鳴るように改造されたモデルガンだろう。

 それに─── 彼は、キッドではない。

 その根拠を言葉にするのは難しい。だが、間違いなく違うと断言できていた。
 白い衣装に身を包んだ彼がテーブルの上に大きな音を立てて落ちる。それと同時に電気が点き、血を流して倒れこむその姿があらわになって悲鳴が上がった。





□ 漆黒の星 8 □





 キッドの憐れな末路を演じさせたという余興に「趣味が悪い」と呟くが、朋子にもマジシャンにもひじりが嫌悪感を抱くことはなかった。
 ひじりが他人を嫌うことはほとんどない。5年もの間人殺しと共にいてひじりの目の前で殺すさまを見せつけるような相手すら嫌悪しなかったのに、どうして今更ただの人間に嫌悪感を抱くことがあるだろうか。
 今でさえ、奪われる前に奪い殺すと決めたジンを嫌いも憎みもしていないのに。

 タネは単純だが入りとしてはこれ以上ないだろう。それを見事やってのけた朋子と真田というマジシャンの度胸に拍手を贈る。


「ねぇひじりお姉様!真田さんのマジック、もっと近くで見に行きません?」

「うん、行こうか」

「蘭も行こうよ!」

「うん!」


 園子に手を引かれて蘭と共にステージに近づく。トランプを切っていた真田は、色黒の男に「俺に切らせてくれないか」と言われ快く渡した。


「よかったら他の方もどうです?そちらの綺麗なレディも、どうぞ」

ひじりお姉様、ご指名よ!」

「ありがとうございます」


 にこりと微笑まれて差し出されたトランプを受け取り、適当に切る。確かカードマジックにおいて、観客に切らせることには特に意味がないのだと快斗は言っていた。
 はい、と真田に返したトランプがまた少し気弱そうな男性に渡る。確か園子の姉である綾子の婚約者だっただろうか。


「あっ」


 切っていたトランプが取りこぼれてばらばらと床に落ちる。ひじりも蘭や園子と一緒に屈んで拾い、纏めると真田に返した。


「ありがとうお嬢さん達。お礼にカードを1枚差し上げましょう!」

「えーいいんですか!」


 真田の手の中で広げられたトランプに蘭が手を伸ばす。指がトランプの1枚に触れそうになったとき、「待った!」とストップがかかった。透視眼とやらで選ぶカードを予言するとのこと。
 真田がマジックで鳩を出し、それを見て顎に手を当てふむと呟く。観客の目が鳩に向く中、ひじりは真田の左手に向けていた目をそっと戻した。
 初歩的なマジックだ。だが真田は天才マジシャンだと言うし、このあとひじりに見抜けないマジックが披露されるのだろう。
 だが真田が選ばれるカードは“ハートのA”と予言し、再び差し出されたトランプを蘭が引いたことによって、続きが見られることはなくなった。


「「か、怪盗キッド!?」」




クレオパトラに魅了された
シーザーのごとく
私はもう貴方の傍に…
 
    怪盗キッド




 そう小さなカードに書かれていた文面に、会場が大きくざわつく。茶木が落ち着いて合言葉の確認を、と言うが聞いている人間は少ない。
 キッドの名前が記されたカードが出てきたということは、キッドは既にこの中に紛れ込んでいるということだ。中森が出入口を固めろと大声で指示を出す。
 ガヤガヤと人々がざわめく中、ふと園子が蘭の胸から真珠が取れていることに気づいた。ひじりも床を見て捜せば少し離れたところに転がっていて、それが突如プシュウウウと煙を上げると音を立てて破裂しさすがに驚く。


「し、真珠だ…真珠が爆発した!!

(成程…これが狙いか)


 朋子の策が逆手に取られたというわけだ。
 気づけばさらにいくつか真珠が転がっており、それが立て続けに破裂する。自分のものも破裂してはたまらないと人々は真珠を投げ捨て、床に落ちた真珠は次々破裂し、会場内は一気にパニックに陥った。
 塞がれた出入口に人が殺到する。園子を支えていたひじりは、ふいに人の波に押されて倒れた朋子にも手を伸ばした。


「大丈夫ですか?」

「お怪我は?」

「あ、ごめんなさいね蘭ちゃん、ひじりちゃん…」


 蘭に遅れて朋子の手を取る。怪我がないことを素早くチェックし、胸元を飾ってあったはずの真珠がなくなっていることに気づいた。
 園子もそれに気づき、なくなってるわよと声をかける。朋子が慌てて見下ろすと、確かにそこにあったはずの黒真珠はなくなっていた。さっと顔を青褪めさせた朋子が悲鳴を上げて叫ぶ。


「キッドよ!キッドに漆黒の星ブラックスターを盗まれましたわ!!」


 やはり、本物の漆黒の星ブラックスターは朋子が持っていたか。
 ひじりが腰を伸ばすのとほぼ同時、ついに押し寄せる人の波に負け扉が開かれた。ドバッと勢いよく人があふれ出る。中森が駆け寄って指示を出すと、コナンも蘭を連れて走り出した。
 ショックを受けて項垂れる朋子を園子に任せ、人の波に乗ってひじりも外に出る。その際、どさくさに紛れてシャンパンをこぼしドレスにかけた。
 外ではひとりひとり顔を引っ張ってキッドを捜す警官でごった返している。その中で素早く目当ての人間を見つけるとそちらへ駆け寄った。


「加藤刑事」

「あっ、ひじりさん!危ないですよ、キッドが出ましたから!中に戻って…」

「そうしたいんですが、ドレスを汚してしまったので着替えに行きたいんです」

「ええ…困ったなぁ」


 確かにひじりのドレスの胸元はシャンパンで汚れてしみになっている。
 加藤は頭を掻き、眉尻を下げると中森を捜すように辺りを見渡した。だが、中森もまた人々のチェックで忙しそうなのを見てううんと首を捻る。
 もうひと押しか。ひじりは意識して表情筋を動かした。


「……あの、実は下着まで濡れていて…早く着替えたいんですけど…」


 そっと胸元を押さえ、軽く目を伏せて困ったように眉を小さく寄せる。声はか細く、恥じらいをもって。
 ゆらりと儚げに瞳を揺らして加藤を見つめれば、うっと息を呑んで顔を赤く染めた。いらぬ想像までしたのか、ぶんぶんと首を勢いよく振った加藤は分かりました!と赤い顔のまま頷く。


「中森警部には自分から言っておきます!そ、その代わり、あなたがキッドでないという証のために、その…あの」

「はい、どうぞ」


 言いたいことを悟って加藤の手を頬に当てる。びくっと身を竦ませた彼が震える手でひじりの頬をむにっと軽くつまんだ。
 や、やわらかい…。呆然とした呟きを無視して軽く首を傾け、もういいでしょうかと問いかける。加藤は今度はぶんぶんと大きく首を上下に振った。


「ありがとうございます」


 最後にちらりと小さな笑みを見せてやれば完璧だ。
 真っ赤な顔で呆然と見送る加藤に背を向けて客室へと走り出したひじりは、ちょろいなと内心で呟いて舌を出す。有希子に仕込まれた演技はここで役に立った。感謝である。

 蘭とコナンの姿は見失ったが、行き先は大体判る。
 甲板は警察の目が光っているだろうし、ならば船内、特に人気がない場所─── 機関室あたりが妥当だろう。乗船してすぐ、コナンがそこにこっそりとサッカーボールを隠していたから間違いない。


(新一はたぶんキッドが蘭に変装してたことを見抜いた。キッドが逃げるとするならハンググライダーだけど、新一から逃げ切ることができるか…)


 船やその周りの海を照らすヘリのライトを横目に、頭の中に船の見取り図を描き出してキッドの逃げ道を予測する。
 蘭に変装していたということはどこかに蘭がいるのだろうが、紳士な彼は手荒な真似はしないから心配はしていない。
 さて、とキッドの予測逃走ポイントの陰に潜んだひじりは、機関室にあるふたつの気配に集中した。





■   ■   ■






 ひじりから初めてコナンを紹介されたとき、頭が良い子だとは聞いていた。
 あの別荘での宝探しゲームの暗号もあっさり解いたし、星と月と太陽の難しい暗号も自分と同じくらいで解いてみせた。その頭の回転の速さはただの小学生ではないと思っていたが、それを今日確信した。

 探偵と名乗る彼。どこかあの工藤新一を思い浮かばせるような不敵な笑みに、ぞくりと背筋が冷えた。
 そして見事蘭に変装した自分の正体を見抜いてみせたコナンを少しからかい、隙を突いてあの場から逃げ出したのはいいが、ハンググライダーを使うのは危険だと判断して船の中を隠れながら逃げていたキッドは、ゆらゆらと黒く揺れる水面を見下ろして泳ぐしかねぇかと渋い笑みを浮かべる。
 白いマントとスーツ、それにシルクハットを脱ぎ捨てようと手をかけたそのとき、ふいに背後に気配を感じ、目を見開いて振り返った。


(やばっ!誰か───)


 赤井との鍛練のお陰で、人の気配にはだいぶ敏感になっていたはずだ。今は逃げている途中であるから気を抜いてはいなかったのに、気づかれず後ろに立つとはただ者ではない。
 警戒心を鋭く瞳に宿して顔を向ける。そこにいたのは、


「え───」

「約束通りまた会いに来ましたよ、キッド」


 淡い若草色のドレスに身を包んだ、ひじりだった。
 どうしてか胸元が濡れてしみになっているが、彼女は気にした様子もなく見つめてくる。
 自分をひたと見据える黒曜の目。あまり長く覗きこめば深淵に囚われるような感覚に陥らせるその目が瞬きをして我に返る。


「眠り姫…なぜここに」

「……あなたが蘭に変装してたのは、ほぼはじめから気づいていました。その前に会長に変装していたのには少し気づくのに遅れましたが」

(なっ…)


 淡々とした言葉にシルクハットの下で目を見開く。
 まさか。自分の変装は完璧だったはず。“快斗”のときだって、ひじりに変装術をして見せたり声色を変えたりはしたことがなかったのに。
 だがひじりの言葉に嘘はないだろう。嘘をついたところで何の意味もない。つまり言葉の通りで、ひじりの慧眼に舌を巻く。


「それで、私を捕まえに?」

「ホテルの屋上から落ちたときに、助けてもらいましたから。今回はそのお礼をしようと思って」


 言い、ひじりがぐいと腕を引く。このまま警察に引き渡す可能性も無きにしも非ずだが、信じないという選択肢はない。
 連れられるままこっそり入った部屋は、どうやら客室のひとつだった。ひじりが部屋に設えられた椅子へ促し自分も向かいの椅子に腰かける。
 入口からは見えないようになっているその椅子に、ひとつ息を吐いて腰を下ろした。






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