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 中森が勧めた通りひと晩入院させてもらい、ひと通り検査を受けて問題なしとされ、むしろ何もトラウマにならなかった図太さに医者から苦笑されてしまった。
 まぁこっちは5年間死と隣り合わせで生きてきたのだし、今更トラウマになるような精神構造ではないのだから仕方ない。

 昼頃には退院して博士に迎えに来てもらうと、何やらコナンが色々聞きたそうな顔をして後部座席に座っていたが敢えて無視を決めこんだ。
 そうして博士が車を走らせて向かったのは家ではなく、警察署だった。





□ 漆黒の星 5 □





「本当に、本当に申し訳ございませんでした!!!!!!」


 警察署の一角の小部屋に、若い成人男性の声が響いた。
 床に正座して指をつき、深く頭を下げたそのさまはまさしく土下座で、その隣で中森もまた床に正座して頭を下げる。


「まことに申し訳ない。部下の教育がなってなかった、ワシの責任だ」

「いえ!自分はどんな手を使ってでもキッドを捕まえるのだということにばかり囚われ、警部の言葉を聞かず、結果工藤さんを危険な目に遭わせてしまいました。自分の責任です!」


 土下座したまま加藤が叫ぶ。
 さて、どうしてこうなっているかと言えば、昨日─── 日付的には今日だが、加藤がひじりを誤って屋上から突き落としてしまった件で、本当は中森と加藤が病院、もしくは家まで謝罪に伺うと言ったのだが、ひじりは自分が伺いますと言って聞かず、病院から直接警察署まで来てこの小部屋に通され、加藤はひじりを見ると真っ青な顔で土下座をはじめたのである。
 ちなみに、博士とコナンは外の駐車場で待ってもらっている。先に帰っててもいいと言ったのだが、聞いてくれなかったのだ。

 ひじりは困ったように首を傾けたが、一見すると表情は一切のない無である。
 演技でもいいから表情を作ろうかと考えるが、それでは彼らに失礼な気もする、などと考えていたのが、怒っていると勘違いしたのだろう、加藤は覚悟を決めた顔で懐から退職届を取り出した。


「俺、警察辞めます。あんなことして、もう警察官だなんて名乗れませんし、むしろ自首します。警部、逮捕してください」


 可哀相なくらいふるふる震えながら完全に血の気を引かせて加藤が中森に両手を差し出す。
 罪状は殺人未遂だろうか。事故とも言えるが、マスコミにでも与えれば一瞬で食いついて警察の面目も丸潰れだ。
 昨日ぎらぎらと輝いていた目は落ち窪んで光をなくし、一睡もしていないのだろう、隈もできている。まだ若いのに、たったひと晩で随分老け込んでしまったようにも見えて、対照的にぴんぴんしてるひじりは何だか申し訳なくなる。
 というか、別にそんなことを望んで来たわけではないのだが。


「私はむしろ謝りに来たんですが」

「は?」

「いえ、キッド対策とは言え、加藤刑事を誤解させるような言動を取りましたから」

「いや、しかし…」

「いいじゃないですか。私は生きてて心も体もぴんぴんしてます。それに、加藤刑事のような人、私は嫌いではありませんので」


 えっと加藤が顔を上げる。ひじりは加藤の前に膝をつき、ぽんぽんと頭を叩いて撫でた。子供扱いのようだが、本当に怒ってないと知らせるのはこれが一番だろう。
 ひじりは加藤の頭に手を置いたまま、ついと目を細める。


「どうしてもキッドを捕まえたくてしょうがなかったんでしょう?あなたは真剣に職務を全うしようとした。それは大変好ましいことです。中森警部、この人は良い警察官ですよ。ここまで真剣に共に追ってくれる人はなかなかいない」

「…う、うむ。少々思い込みが激しくて短気なのが玉に瑕だが、その根性と熱意はワシも認めとる」

「中森警部…」

「だがだからこそ、許せんのだ」


 きっぱりと言い、厳しい目で中森が加藤を見る。加藤は視線と肩を落として床を見つめた。
 加藤のキッドを捕まえるという気概を買ってはいたが、それで一般人であるひじりをあわや殺してしまいかねない事態を引き起こしてしまった。共に追う仲間だからこそ、今回のことはとても許せるものではない。刑事として、人としてもだ。
 ひじりは中森と俯く加藤を交互に見、ううんと顎に手を当てた。


「そうは言いますがね中森警部、私は加藤刑事に何をされたんでしょうか。こうして土下座されている理由も分からないのですが」

「は?何を言っとる、君は加藤に屋上から突き落とされて…」

「そうでしたっけ?私は、私が勝手に足を滑らせて落ちそうになったところを、むしろ加藤刑事に助けられかけたと記憶してますが」

「……工藤…さん…?」

「ほら、加藤刑事、落ちる私に必死に手を伸ばしてくれたじゃないですか」


 しれっと嘯きながらぺらぺら喋るひじりを、中森と加藤は目を見開いて見つめ、中森は何度か口を開閉したが、「そうですよね」とひじりに問いかけを断言されて、ため息をこぼしただけだった。
 言い返す言葉がなくなったらしい。本人が「謝られる理由がない」と言い切っているのだから、それに反論するのは野暮である。
 だがひとりまだ理解しきれていない加藤が呆然とひじりを見上げ、目を白黒させている。ひじりは言葉を切って加藤が理解するのを待ち、加藤の目にぼんやりとした光を宿ったのを見て再び口を開いた。


「ですが、どうしても加藤刑事が『自分のせいで』と言い張るんでしたら、これは貸しということで手打ちにしましょう。そうですね…私はこれからも何度かキッドの現れるところに行くでしょう。そのときに私が危険な目に遭いそうになったら、加藤刑事、あなたがその身を挺して私を庇ってくださいね」

「え…」

ひじり君がそれでいいと言うのなら、ワシはもう何も言えんな」

「え、俺…もしかして……許された…ん、ですか…?」


 呆然と呟いた加藤を、中森はすぐに否定した。


ばかもん!!んなわけあるか!たとえひじり君が許してもワシが許さん!!お前にはこれからも今まで以上に馬車馬の如く働いてもらうからな!無論、ワシの隣でだ!!

「な…中森警部…」

「それと!ひじり君に危険が迫ったとき、お前が命を懸けて護るんだぞ!!」

「あ、いえ護らなくて結構です。弾除けくらいであれば」


 なかなかさらっとひどいことを言ったが、幸いか、どうやら中森と加藤の耳には入らなかったようだ。
 自分の身くらいは自分で護れるし、今回のように疑ってかからなくなればそれだけでいいのだが。
 これから何度かキッドのもとへ行くことは約束を果たすまで、あるいは果たしてからも続くのだから、そのときに動きやすくなればと思っての方便だったが、思ってもない方向へ転がりそうだ。


「分かりました、警部…!この加藤一郎、不肖ながら全身全霊で工藤ひじりさんをお護り致します!!」

「…………ま、いいか」


 ビシッと敬礼をして決意表明をする加藤に頬を掻き、訂正して水を差すのも無粋かと思い直す。


「よろしくお願いしますね、加藤刑事」

「はい、工藤さん!……あの、自分も中森警部と同じように、名前で呼んでも構いませんか!?」

「? どうぞお好きに」

「ありがとうございます、ひじりさん!これからは俺があなたを命に代えてもお護りします!!!」

「命には代えなくてもいいですよ?」

「何とお優しいお言葉!!やはりひじりさんは聖女のように優しい方ですね!」


 きらきらと目を輝かせて昨日とは全く違った正反対の態度を取る加藤に少し引いて、中森を振り返ればひじりより引きながら諦めろと言わんばかりに首を横に振られた。


(ええー…)

「あ、あの、よろしければ職務でなく、プライベートでもお護りしたいのですが…」


 頬を紅潮させながらの申し出を、ばっさり切り落としたのは中森だった。


「何を言ってるんだ。それはダメだ加藤。お前、気づいてなかったのか?ひじり君には既に年下の彼氏がいるんだぞ」

何ですって───!? いったいどんな奴…いえ、どんな人ですか!?」

「あー…ひじり君にとって、どんな人だ?」


 呆れたように中森に話を振られ、ひじりは頭の中に快斗を思い浮かべた。にっこり笑ってひじりさん!と手を振ってくれる姿が浮かぶ。
 一応今回のことは吹聴しないという暗黙の了解が成立したが、さすがに快斗には言っておく必要があるだろう。中森と加藤とのやりとりを話すとひじりさんは甘いです!と怒る姿が容易に浮かんで、思考がずれたことに気づいて修正する。
 ひじりにとって、快斗はどんな人か───。


「太陽みたいな人……彼がいなかったら、私はきっとすぐに凍えて死んでしまうでしょうね」


 そして快斗にとっても、自分もまたそんな存在であったら嬉しい。そう思って、キッドに助けられたことをもっと感謝すべきだと思った。危うく死にそうになったところを救ってもらったのだ、今度は逃がすのを手伝うくらいはした方がいいだろう。
 何だか盛大なショックを受けたらしい加藤が叫ぶが耳に入らず、ひじりはそうだ快斗に会いたいなぁ、とぼんやり考えていた。






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