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 彼女は光る街の森の深く、遥か高い塔に閉じこめられた憐れな娘ではなかった。
 私はラプンツェルではないと否定された。自らこの檻に入ったのだと。

 ならば、と白い怪盗は思った。
 自らを深い深い闇の底に眠らせた彼女は、

 Sleeping Beauty─── 眠り姫。





□ 漆黒の星 3 □





 杯戸シティホテルの屋上に集まった、中森をはじめとした警官達。そして屋上を囲む何機ものヘリ。
 逃げ場はない。だと言うのに、これらを自ら呼んだ白い怪盗は、不敵な笑みを消すことはなかった。


「あの真珠は諦めろ…貴様にはもう逃げ場はない」


 銃をキッドに向ける中森の言葉に、しかしキッドは薄い笑みを返して盗るつもりはありませんよと答えた。驚く中森に、やはりキッドは笑ったまま、「ちゃんと予告状の冒頭に記したはずですよ」と続ける。そしてひじりの方を横目に見やり、


「まぁ、彼女は気づいていたみたいですが?」

「……」

「答え合わせをしましょう、レディ」


 ハンググライダーを広げたキッドの言葉と、ひじりの平淡な言葉が重なる。


「「April foolウソ」」

「…ってね」


 悪戯っぽく囁き、安全ベルトを締めたキッドに警官達が飛びかかる。だがそれよりも早く、服の袖から閃光弾が放たれ、周囲は目が眩む光に包まれた。
 闇に慣れていた目が光に焼かれ、ひじりは目を腕で覆うと固く閉ざした。代わりに鋭敏になった聴力がキッドの声を拾う。


「よぉボウズ…知ってるか?怪盗は鮮やかに獲物を盗み出す創造的な芸術家だが…探偵はそのあとを見て難癖つける─── ただの批評家にすぎねーんだぜ?」

「何!?」


 ああ、余計に煽ることを。あれではコナンが意地になって追いかけ回してしまう。
 目を閉ざしていたひじりは内心でため息をついて、ふいにポン!と軽快な音と共に光がやむとそろそろと目を開けた。するとそこにはキッドの姿は跡形もなく、目を瞬かせる。気づけば手の中に小さなバラがひと言だけ記されたカードと共に残されていた。


「『またお会いしましょう 怪盗キッド』…」


 消えた!?捜せ!と警官達が騒ぐ中、カードをポケットに仕舞う。
 辺りを見渡しても白い姿はどこにもなく、レーダーにも何も映っていないらしい。
 見事に消えてみせたというわけか。コナンの驚愕に染まる顔をちらと見たひじりは、ふいに強く腕を引かれてつんのめった。


「お前、怪盗キッドの仲間だろ!?」

「痛っ…」


 ぎちりと腕に爪を立てられて小さく眉をひそめる。
 ホテルに入る際、ひじりに食ってかかった警察官だった。確か名前は。


「加藤!やめんか!」


 そう、加藤。中森が怒鳴るが、加藤はいっそ憎々しげな顔でひじりを睨むと腕を捻り上げた。反射的にやり返そうとした体を抑えこむ。やめろ!とコナンが叫んだ。


ひじり姉ちゃんに何すんだ!」

子供は黙ってろ!大体おかしいんだよ怪盗キッドが現れる場所にいて、しかも妙に親しげだったじゃないですか!それに合言葉!俺傍で聞いてましたけど、博物館で中森警部と決めたのと違いましたよね!」

「あ、あれは!」

「怪盗キッドが博物館を盗聴してる可能性があったから、本当の合言葉は筆談でやりとりしたんです」

「その通りだ!ワシが話しかけた3秒後に目を合わせ、それから10秒経ってから挨拶と共にワシの名前を呼ぶ、それがワシらの合図だ!」


 ひじりと中森の言葉に、だが加藤は納得していないようでさらに腕を握る手に力をこめた。
 さすがに痛いしこれでは痕が残る。そうしたら快斗はもちろん、コナンや蘭が怒るだろうと思って振り払おうと体を後ろに引く。


「けど…!キッドはこいつに話しかけてから消えたんですよ!こいつがキッドの仲間じゃないって証拠はない!」

「キッドの仲間である証拠もなかろう!……加藤、お前がワシと同じくらいキッドを捕まえるのに熱を入れとるのは分かるが、現場にいるからと言って、そう人を疑うな。彼女がここに来ることを許可し、中に入れたワシの目まで疑う気か?それに彼女は───」

「あの、痛いのでそろそろ放してもらえますか」


 ひじりは加藤の手首を軽くひねって腕を握る手を離させる。
 半ば無理やり引き剥がせば、治まりつつあった感情を再びカッと爆発させた加藤が勢いよくひじりに掴みかかった。


「今お前の話をしてるんだ、大人しく───」


 加藤がぐいとひじりの体を押し、たたらを踏むために下がろうとしたひじりの踵が低い囲いについた瞬間、勢い余ってぐらりと体が傾いだ。
 え、と加藤の目が見開かれたのが視界に入り、軽い浮遊感と共に三日月が見えたと思ったときには、ひじりは宙に身を投げ出されていた。
 驚いてひじりの腕を掴んでいた加藤の手が離される。支えがなくなり、重力に従って頭から落ちていく。


ひじり!!!」


 慌ててコナンが手を伸ばすが、届くはずもなく。
 ひゅぉっと耳元で切れていく風の音に、ああ落ちているのか、と鈍く理解した。加藤の呆然と見開かれた目が遠い。
 警官が大きくざわめいたのが分かる。急いで下に、ダメだ間に合わない!ヘリで受け止めろ!無理だ!どこか遠くで怒号のような声が聞こえた。


ひじり───!!」


 ああ、そんな声で叫ばなくとも聞こえている。そんなに泣きそうな顔をしないでほしい。
 届かないと分かっていながら手を伸ばすコナンにそっと微笑みかける。
 すべてがスローモーションに見えたのは一瞬で、ひじりの体は無抵抗に地上へと落下していっていた。


(このまま落ちたら、死ぬな)


 確か人は防衛本能もあって気絶するものではなかったか、と遠いところで思いながら迫る地上を見る。
 ひじりが持っているものといえばペン型スタンガンか小型ターボエンジン付ブーツくらいで、ブーツをうまく使えば命は助かるだろうが、ビルの側面から完全に足が離れているからそれも難しい。

 まだ死ねないのに。快斗もいないこの場所で、まだ死ぬわけにはいかない。
 何もなしていないのに。やっと解放されて、快斗と共に死ぬまで生きるはずだったのに。
 大体、警察官に突き落とされて死んだなんて冗談ではない。


「─── 快斗」


 三日月に左手を伸ばす。きらりと薬指にはまった指輪が煌めき、その指の合間に、何かが見えた。
 それは、1人の警官だった。軽く目を瞠っていると、彼はすぐにひじりに追いつき、知った笑みを浮かべてひじりを強く引き寄せる。


「しっかり掴まっててください」


 強く腕に抱え込みそう囁いた彼がカチッと何かボタンを押す。途端、ぶわりとひじりの視界を翻った白が埋め尽くした。
 反射的に白に抱きつく。勢いよく落下していた体が急に止まった。内臓が揺れる感覚に眉を寄せて目を細め、次いで安定した浮遊感に長く息を吐き出した。


「大丈夫ですか?」

「……はい。助けてくれてありがとうございます、キッド」

「今度は、あなたに届いてよかった」


 キッドの片腕に抱かれながら礼を言うと、警官に扮していたキッドの方が安心したようにほっと息をつく。
 ひゅぉおお、と耳元を風が流れていく。ホテルはもう遠いが、きっと屋上では中森達が大騒ぎしているのだろう。ヘリもひじりが落ちてキッドが助けたという突然の事態についていけず、レーダーで追うことを忘れている。


「……あの日、あなたをこうして攫ってしまいたかった」


 遠くなるホテルを見ていればふいに切なそうな声がかかり、キッドを見ると顔を隠すように俯いている。
 あの日─── ひじりがもうここに来てはいけないと言って、その白い手を振り払った日のことか。
 何と返せばいいか分からず黙っていると、キッドもそれ以上何も言うことなく、近くのビルの屋上へと降り立った。
 優しく手を取られて降ろされる。今度は胸元まである高さの塀が囲む屋上で、先程のような事故は起きないだろう。


「本当に…ありがとうございました」

「その美しい目が永遠に閉ざされずに済んで、よかった」


 微笑み、腕を伸ばしかけたキッドは、何かに気づいたようにはっとすると苦い笑みを浮かべて腕を引っ込めた。代わりにひじりの髪をひと房手に取って唇を落とす。髪が短いから、2人の距離はほとんどない。
 キッドは顔を上げ、名残惜しそうに髪から手を離す。


「問いの答えを、聞いていいですか」


 なぜそんな言葉が口を突いて出たのか、ひじり自身にも分からなかった。だが出た言葉を口の中に戻すことはできない。
 ここにはコナンも警官もおらず、2人だけだ。問いの答えを聞くには問題のないように思ったが、キッドはふっと微笑むと首を振る。


「まだ、あなたに問いの答えを返すには早すぎる」

「……どうして?」

「あなたの問いに答えを返してしまえば、あなたは私の前に現れなくなってしまうでしょう?何度でも私を追って来てほしい、などという─── 単なるわがままです」


 シルクハットを深めに被って表情を隠され、どんな顔をしていたのかは全く分からない。
 風が吹いて白がなびく。一方的な約束は、一方的だったからこそ完全に果たされるのはそう簡単ではないようだ。
 キッドはひじりの言葉を待たずに塀の上へと跳び上がった。月光を背に見下ろされ、それではと綺麗に一礼をされる。


「またいずれ、淡い光に包まれた月下でお待ちしております。私の眠り姫」


 ポン!


 小さな音と煙と共に、ひじりを眠り姫と呼んだキッドが一瞬で消える。
 煙が完全に消えてしまうまで見送れば、足元に1枚のカードがひらりと落ちてきた。




4月19日
横浜港から出航する
Q.エリザベス号船上にて
本物の漆黒の星を
いただきに参上する

      怪盗キッド




 成程、次に会えるとしたらこのときか。
 ひじりはこちらへ向かってくるヘリのライトに照らされて目を細め、やがてやって来るだろうコナンを待つために、塀に背中をつけて座りこんだ。






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