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 3月31日。
 エイプリル・フール─── 4月1日を明日に控えたこの日、ひじりはリビングのソファでだらしなく横になっていた。

 暗号は解けた。だがキッドに会えるかもしれないという高揚感はすっかり鳴りを潜めてしまっている。というのも、これまた暗号が原因だ。一番上の文、April foolの言葉。
 おそらくキッドは下見していて、あの宝石が偽物であることくらい気づいたはずだ。だからこその、April foolか。だが狙った獲物は必ず盗るらしいから、何とかして本物を引っ張り出そうとするだろう。


「なら、キッドは必ず来る」


 たとえ姿はなくても、その白い影くらいは捉えられるかもしれない。
 追えるかどうかは分からない。警察ですら決して捕らえることのできなかった彼を、いくらひじりでも捕らえることは難しい。

 けれど、それでも。

 約束したのだ。
 ─── 会いに行く、と。





□ 漆黒の星 2 □





 園子づてに小五郎へとキッドを捕まえてほしいとの依頼があったようで、ひじりはコナンから暗号を見せられ分かるかと問われたが、既に解いてると言わず考えておくとコピーを受け取った。
 どうやら中森は以前会った園子の父親、史郎に破かれる前にコピーしていたようで、コナンに渡された予告状は破れて読みにくい。


「できれば新一には来てほしくないな…」


 暗号を解読すれば、きっと興味を持って来てしまう。そうなればなぜひじりがここにいるのかと問い詰められるだろうし、説明するのが面倒くさい。
 小さくため息をついたひじりは、ちょっと出掛けてくると博士に言い残して止められる前にさっさと家を出て夜道を歩いていた。

 蘭や園子から昼間に博物館に誘われて行ってみたが、数日前に行ったときよりずっと物々しくなっていた。ヘリが飛び機動隊が出動して警備員が大量に配備され、パトカーが何台もずらり。どうせ来ないのにとはもちろん口にはしなかった。
 その中に中森はいなかったので、やはり彼も暗号を解いたのだろう。長くキッドを追っているらしいから、多少時間はかかっても解けるだけの頭脳はあるはずだ。

 現在の時刻は0時6分。早いくらいだが問題はない。
 目的地─── 杯戸シティホテル前で足を止めてホテルを見上げ、少し待つと傍に人の気配が立った。振り返れば当然のように中森がいて、ついと目を細める。


「合言葉を確認させてもらっていいか、ひじり君」


 中森の後ろには、部下らしき男が2人控えている。1人は眼鏡をかけた短髪の男、もう1人はまだ若い男が厳しい目でひじりを睨んでいる。
 どうせキッドかもしれないとでも思っているのだろう。ひじりは中森と目を合わせ、呼吸にしてふたつ半の後、ようやく口を開いた。


「こんばんは、中森警部」

「……分かった。行っていい」

「ちょ、中森警部!?いいんですか、こんな小娘入れて!」


 中森の許可に若い男が食ってかかる。小娘とは失礼な、と思うが確かに自分は小娘だ。しかも合言葉も何とも合言葉らしくない。しかしこれは2人で示し合わせたものなので、やかましい!と中森は若者を一喝した。


「加藤、ワシのやり方に文句でもあるのか!」

「……す、すみません…」


 怒鳴られ、加藤と呼ばれた若者が肩を竦めて中森に謝る。だがその目から厳しさは抜けないままひじりを睨んでいた。
 職務熱心な人だなとむしろ好意的な感想を抱いたひじりは、それじゃあと中森にひと声かけてホテルに入る。
 加藤という警官は嫌いではない。彼は彼なりの正義をもって職務に当たっているだけで、この日この時間に現れたひじりを警戒するのは当然のことだ。相手が変幻自在と謳われるキッドなら尚のこと。

 フロントを素通りしてエレベーターで最上階まで行く。奥の方にある階段を上れば、あらかじめキッドが壊してあったのか、屋上に続く扉はすんなり開いた。

 ひゅおう、と強い風が吹いて髪が煽られる。空を見上げれば三日月。
 遮るものが何もない屋上にはまだ誰もいなかった。コナンすらおらず、ひじりただひとり、静かに人工の光に照らされる街を見下ろす。遠くに米花博物館らしき建物がいくつもの光とヘリに取り巻かれているのが見えた。
 一応屋上に囲いはあるが足首までしかなく、フェンスの類を設置すればいいのにと思ったが、ここに立ち入る人間など限られて一般人が入りこめるはずもないため、あるはずもないかと思い直す。

 明かりに照らされる街をもう一度見下ろす。こうしてあのベランダで見下ろしていた自分の前に唐突に現れた、白。
 初めて会ったあの夜、月はどんな形をしていただろうか。思い出そうとするも、脳裏に浮かぶのは鮮やかすぎる白だけだった。

 白を見て、包まれ、優しさを知り、手を伸ばされ、そしてこの手で振り払った。
 憶えている。かじかんだ指の感覚、冷たい金属の重み、冷気に溶ける火薬のにおい。一方的な約束。会いに行く、そのとき答えを聞くと言った。銃弾と共に、永遠であったはずの別れを告げた。
 会えるだろうか。憶えているだろうか。憎んでいるだろうか。今更何をと罵るだろうか。


(…なのに、どうしてかな…)


 脳裏に浮かぶ白は、それでもただただ優しく笑う気がするのだ。


「─── ひじり?」


 来るだろうと予想していた声に顔だけで振り向くと、思った通り、そこにはコナンがいた。何でここに、とその見開かれた目が言っている。だがひじりは応えず、顔を前に戻して無言で佇み続けた。
 ひじりがなぜここにいるのか気になっているようだが、その態度から言わないと悟ったようで、コナンはそれ以上問わず時計で時間を確かめ、ひじりの近くまで来ると打ち上げ花火が1本刺さった缶を置いた。
 それと同時に、コナンのポケットから電子音が鳴る。イヤリング型携帯電話を取り出すと、コナンは通話ボタンを押した。


「お、博士か?ああ、何でか知らねーが、ひじりもここにいるよ。……18年前ってことは、かなりのおっさんになっているわけか」


 博士の声は聞こえないが、察するに博士にキッドについて調べてもらったというところだろう。ひじりのことも話したのは、ただ出掛けてくるとしか言わずに出たからかもしれない。


 ふと、ふわりと闇を映す視界の端に白がよぎる。


 ひじりはつられるように後ろを振り返った。三日月が雲の合間から姿を現す。
 静かな黒曜の瞳が、闇を裂く白を捉えた。


KIDケーアイディー?」

「─── キッド」


 ひじりの言葉と同時にばさりと布がたなびく音がして、コナンもまた振り返る。
 タンクの隣─── 塔屋に、静かに白が降り立った。その唇に刷いたのは、何もかもを見透かすような不敵な笑み。
 変わらない。あの日を最後に見た姿と、テレビの向こうで見たものと、何一つ。

 キッドはコナンを一瞥し、すぐにひじりの方を向いた。
 どくり。一度だけ心臓が跳ね、モノクル越しに目が合う。
 用意していた言葉は何だったか。そうだ、とりあえずお礼を言わなければ。
 ひじりがゆっくりと唇を動かすと、それより早く、キッドの方が言葉を紡いでいた。


「お久しぶり…ですね、レディ」


 風が吹く。煽られた髪は短く、もうあのときのように押さえる必要はない。
 記憶通り耳に心地好く馴染む声で優しげに微笑むキッドとひじりとを、コナンが戸惑うように交互に見る。だがひじりは真っ直ぐにキッドだけを見て、すっと息を吸った。


「約束でしたから。私から、あなたに会いに行くと」

「……決して叶うことはないと思っていたのですが」

「私も、叶うはずがないと思っていたから、約束をしたんです」


 礼と、罰を兼ねて。


「けれど、私はあの檻から解放された。だから─── 約束を、果たしに来たんです」


 ふわり、ひじりの髪が風になびく。月明かりに照らされた四葉のピアスが煌めき、黒曜の瞳はほんの僅か、笑みを見せた。
 キッドも笑みを深めて歩み寄る。白い手袋に包まれた指で恭しく手を取られ、手の甲に口付けを落とされたが振り払いはしなかった。


「ならば私も、あなたと交わした約束通り、あの問いの答えを返さなければいけない。─── しかし今はこの小さな少年がいるので、その答えはいずれまた」


 じっと睨むようにキッドを見つめるコナンを一瞥し、ひじりの手を離したキッドは口元に指を立てた。
 いずれまた。また、会いに来いと言うのか。今回だって来れたのは偶然なのにと思いながらも、ひじりは小さく頷いた。ひじりとて、コナンがいるこの場であの問いの答えをもらう気にはなれない。
 キッドは満足そうにくすりと綺麗な笑みをこぼし、コナンへと意識を移した。


「それで、ボウズ…何やってんだこんなところで」


 ひじりとは違う、少し雑な物言いが何だか新鮮だ。キッドはいつも自分の前では紳士であったから。
 コナンはしゃがみこんで先程セットした花火に火を点け、空へと打ち上げた。


 パァン!


「花火!」


 成程、花火で警察の目をこちらに向けさせ、キッドが逃げようとしたところを捕らえるつもりか。それでキッドが捕まるのなら警察は苦労しないだろうからたぶん無理だと思うが。
 コナンの思惑通り、彼らが気づいてヘリがこちらへ向かって集まり始めた。中森も当然気づいたはずだ。
 さて、キッドはどうするのか。ひじりは中森にああは言ったが、キッドを捕まえる気はない。かと言って逃げる手伝いをする気もない。
 ただ約束を果たしたかっただけだ。コナンがいたお陰で半分しか果たせなかったが。

 成り行きを黙って見ていると、集まってくる警官達に対して焦るわけでも逃げ出すわけでもなく、キッドは懐から無線を取り出すとひとつ咳払いをした。


「あーこちら茶木だが!杯戸シティホテル屋上に怪盗キッド発見!」


 機械も使わずに全く違う声に変えたキッドに、さすがのひじりもぽかんと目を瞬かせる。
 茶木という者の声が本物かどうかは分からないが、キッドのことだ、間違っているはずがない。
 そして、続いてまた特別な様子も見せずキッドは声を変える。


「えーワシだ!中森だ!!杯戸シティホテル内を警戒中の各員に告ぐ!」

「…わあ」

「キッドは屋上だ!!総員ただちに突入!奴を取り押さえろ!」


 中森と名乗った通り、確かにその声は中森だ。何度か聞いたものだから間違いない。ひじりが思わず感嘆の声を上げれば、気づいたキッドが得意そうにウインクをする。
 しかしなぜ、キッドは敢えて警官達をこの場に呼び寄せたのか。取り囲まれれば逃げられなくなるのに、いったいどうして。


「これで満足か?

 ─── 探偵君?」

(─── まさか)


 ひじりの脳裏にひとつの可能性が走る。
 キッドはマジックを使う。快斗としたマジック話の中に、大勢の人の前で跡形もなく消えてしまうマジックがあった。あれと同じことを、あるいは似たことをするつもりなのか。だから敢えて人を呼んだのか。
 ヘリの風に煽られて髪が暴れる。それを押さえつけ、ひじりはキッドの一挙手一投足を逃さぬよう目に鋭い光を宿した。






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