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 私は探偵ではない。
 だから真相などに興味はなく、ただ目の前で起こることを止めたかっただけだ。
 生きて帰って来てくれて嬉しいと涙を浮かべて喜んでくれたこの人に、心配をかけさせた贖罪ができるのなら、できることをしたかった。





□ レモンティー 3 □





 鍵のかかった扉がガンガンと外から叩かれているのを意識の外へ弾き出しながら、ひじりは青い顔をして俯く俊彦を睨みつけていたが、ふいに手の中の缶が俊彦ではない人物に取られて振り返る。


「いいの」


 小百合が、笑っていた。


「分かってたから、本当は」

「え…?」

「……高杉さんが毒を入れたのを知って、飲もうとしたと?」

「だって、仕方ないもの」


 切なそうに目を細めて、だが儚く綺麗に小百合は笑う。
 ああ、馬鹿な人だ。ひじりは内心で呟いた。

 俊彦はまさか小百合が分かっていて自ら毒を飲もうとしていたことを夢にも思っていなかったようで、限界まで目を見開くと「どうして」と茫然と震える声で小百合に問うた。
 小百合は俊彦を見て愛しそうに、そして悲しそうに微笑み、手に持った缶を見下ろす。


「私の父があなたの母親を殺してしまった……そうでしょう?」

「何で……それを、知って」

ひじり!おいひじり!何してやがる、ここを開けろ!!」

ひじりお姉ちゃん!?いったいどうしたの!?」



 強く扉が叩かれ、外からコナンと蘭の声がするがやはりひじりは無視をした。小百合がちらりと扉を見たが、すぐにひじりへと目を移すと小さく微笑みまた俊彦の方を向く。


「20年前、連続殺人犯を追っていた父は、犯人の車に巻き込まれたあなたの母親に気づかずに犯人を追い、結果見殺しにしてしまった」

「……俺が、復讐のためにお前に近づいたと、知ってたのか。知ってて……プロポーズも、受けたのか」

「ええ。だって……─── あなたは、私の初恋の人、だもの」


 ガンッ!!


ひじり!」

「お姉ちゃん、先生!」

「いったいどうしたっていうのよ!?」


 タイムオーバー。できればもう少しゆっくり話をさせてあげたかったが、無理だったようだ。
 部屋になだれこんで来たのはコナンと蘭、園子、騒ぎを聞きつけて来たのだろう、一美や梅宮、小百合の父親である松本に目暮まで揃っていた。
 彼らは微笑む小百合と顔面蒼白な俊彦、そしてゆっくりと感情のない顔で振り返ったひじりの3人を見て、そのただならぬ雰囲気に息を呑んだ。


「まさか……俊彦、あんたまさか!


 ひと足先に事情を察したらしい一美が俊彦に掴みかかる。だが俊彦は一美が視界に入っていないようで、虚ろな目で小百合を見た。


「……レモン、ティー」

「そう。あなたがくれたのよね」

「……っ…」

「俊彦!答えなさい、あんた小百合に何をしたの……何をしようとしたの!!

「一美さん、落ち着いて」


 ひじりは激昂したまま俊彦を揺さぶる一美の肩を抱いて引き離し、涙を浮かべる彼女の背中を撫でる。
 俊彦は小百合を見つめ、古い記憶の中の少女と照らし合わせたのだろう、ぐしゃりと顔を歪めると小百合の手の中にあるレモンティーの缶を勢いよく横に払った。


 カン!


 軽く固い音を立ててレモンティーの缶が床に転がり、中身をこぼす。コナンが缶を覗きこんでその口が腐食しはじめているのを見て、何が入っていたのかを悟ったようだった。
 俊彦を睨み、次に鋭い目でひじりを見る。その目を正面から受け止め、ひとつ瞬きをしたひじりは小百合と俊彦へ視線を戻した。


「何で……お前、馬鹿じゃないのか…」

「そうね、馬鹿かもしれない。一美にも散々言われたもの」

「……小百合が似てる似てるって騒ぐから、調べたのよ……それで分かったの、あんたが初恋の人だったことも、20年前の事故のことも。小百合、あんたのプロポーズを受けてからも、ずっと悩んでたんだから……どーしたらあんたが、父さんのことを許してくれるかなってね…」

「20年前の事故……、……まさか!


 ひじりの腕に縋りつきながら一美が訥々と紡いだ言葉に、蚊帳の外だった松本が驚愕の声を上げる。あの事故の被害者の息子が目の前の男だと、そして今まさに復讐をしようとしたのだと悟ったようだった。


「なぜだ……どうしてワシを狙わなかった!?」

うるせぇよ!てめーが死んだら味わえなかっただろうが!大切な…大切な人を失った、あの悲しい思いは…!」


 吐き捨てるような、けれどどこまでも悲しげな横顔に、誰もが言葉を失う。


「……なぁ、小百合…教えてくれ。何でお前、毒が入ってること分かってて、飲もうとしたんだ?」

「それであなたの気が晴れるなら、それでいいと思ったの。それに、私を本当に愛してくれてたなら、きっとあれは単なる見間違いだったって、分かるじゃない…」


 見間違いじゃなかったけど、と小百合は気丈に笑って見せたが、その目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
 小百合が俯いて顔を覆う。ひじりの腕から離れ、一美が駆け寄って小百合を抱きしめた。
 馬鹿な女だ。だが一番馬鹿で愚かだったのは、俊彦の方だろう。何も知らないくせにと内心で嘲っていた女が、実は何もかもを知って分かっていたのだから。


「……高杉俊彦さん。詳しい話は、署の方で」

「……ああ」


 刑事の顔をして目暮が俊彦に声をかけ、俊彦は抵抗せず素直に頷いて目暮の後をついて行った。泣き続ける小百合を見つめ、深く息を吐いた松本も肩を落としながらその後を追う。
 3人を見送ったひじりは、未だ鋭い目をするコナンの頭をひと撫でして机の上に置いた一輪のバラを手に取ると小百合の前に立った。


「先生。私はね、あなたに贖罪がしたかったんです。どんなに悲しい結末になろうとも、先生に生きてほしかった。先生は、私の帰りを心から喜んでくれましたから」

「……工藤、さん…」

「でも私ができることといったら、先生を助けることだけで。先生を助けるなら、高杉さんを助けられなかった」


 あそこで毒の入った缶を小百合が飲む前に処分したとしても、おそらく俊彦の復讐の炎は消えはしなかっただろう。小百合が確実に助かるには、あの場ではああするしか思いつかなかった。
 できれば何もなかったこととして済ませたかったが、ろくな説明もなければこうなってしまうのも仕方がない。


「…私、ちゃんと話してればよかった…」

「小百合…」

「でも本当のことを言ったら、嫌われちゃうんじゃないかって。あの思い出ごと、切り捨てられるんじゃないかって、怖くて…。だから言えなくて、だから、俊彦さんはこんなこと…」


 ごめんなさい、と涙をこぼしながら小百合が謝る。謝っているのは、俊彦に対してだろう。
 殺されかけたのだというのに、本当に馬鹿な人。この人はとても強くて、とても優しすぎる。
 ひじりは小百合の涙を拭い、秘密を囁くように小百合の耳に唇を寄せた。


「今ならまだ、彼を先生が助けることができるかもしれない」

「え…」

「きっと先生にしか、助けられない」


 ねぇ、とひじりが悪戯っぽく目を細め、ほんの小さく、見間違いかと思うほど小さく笑った。
 手に持ったバラを握り潰し、花弁をいくつか床に散らす。


「花はね、どんなに美しくても、いずれ散るんです。けれど同時に落ちた種が再び芽吹いて、また花を咲かせる」


 手の平を返すように軽く回して指を鳴らせば、そこにはまた、一輪の赤いバラ。


「けれど花を咲かせるには、土が必要です。先生と高杉さんが咲かせた花は歪なものだったけれど、その花を育んだ土は、2人の思い出でしょう?」


 小百合のベールを取り、髪をほどいて赤いバラを差す。


「ひとつ花が散ってしまったのなら、また咲かせればいい。今度はちゃんと2人の手で。偽りのない、2人の思い出で。この花の種は今先生の手にあるんですから、咲かせるも捨てるも先生次第です」

「……やぁね、工藤さん。本当にあなた…キザすぎるわ」


 ふわり、小百合が笑う。花のように可愛らしくも力強さを宿した、美しい笑顔だ。
 それを見たひじりは身近にキザな人がいるものでと肩をすくめた。
 小百合がくすくすと笑い、そして涙をぐいと拭うとドレスの裾を持って駆け出し、控室を飛び出した。


「待って父さん、これはね─── ただの痴話喧嘩なのよ!」


 廊下から響いてきた声に、ふっと笑みのこもった息を吐く。
 何事かと廊下を見る波に逆らい傍に寄って来たコナンを迎え、ひじりは無言で促した。


「オメー、高杉さんが毒入れるとこ、見てたのかよ?」

「ううん、見てない。でも隠しきれてないあの人の殺気と缶と先生の態度に、ピンときてしまってね」

「殺気?んなもん分かんのか?」

「……分かるよ。自分やお父さん達に向けられたあの心臓が痛むような殺気は、忘れられるはずがない」

「……そうか」


 悪かったな、変なこと訊いて。そう小さく気遣いを見せるコナンの頭を無言で撫で、ひじりもまた波に乗って廊下を見た。
 痴話喧嘩、で取り繕えられればいいが。少なくともあんなことがあっては、今日の披露宴は中止となるだろう。結婚も白紙。
 初めからやり直しだ。そう、ひじりが言ったように、種からもう一度。けれど今の2人には、種を育む思い出という土があるから、きっと大丈夫だ。


「もう一度、再会からやり直しましょう。
 ……お久しぶり、あのときは私を護ってくれて、レモンティーをくれてありがとう!私ね、小百合っていうの!あなたの名前を聞いてもいいかしら?」

「ああ……俺の名前は、…俊彦。俊彦って、いうんだ…」



 レモンティー編 end.



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