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 6月21日。

 天気は快斗の眼のように透き通った青が広がり、雲ひとつない快晴。
 降り注ぐ日光に目を細めたひじりは携帯電話で時間を確かめ、約束の時間が近いのを見て昨日快斗に指定した場所へと足を進めた。





□ 誕生日 3 □





 当日、快斗は一日中そわそわと落ち着きがなかった。
 クラスメイトや寺井達には日付が変わると同時に祝いのメールが来て、ひじりからも直接電話で「誕生日おめでとう」と祝いの言葉をもらった。

 ひじりが指定した19時まで時間があるものの日に何度も時計を確かめて、訝ったクラスメイト達が心配するのも心ここにあらず、青子がひじりの話を出したことには反応を示したが、それよりも早く放課後になれと気が急いていた。
 どうせひじりさんと会うんでしょ、とにやにや笑われながら問われて頷きはしたが、何と言ったのかは憶えていない。
 そして担任の号令で放課後となった瞬間、快斗は担任より早く教室を飛び出した。


(あと2時間弱……一旦着替えに戻っても余裕だな)


 時間的には余裕だが精神的に余裕はなく、帰宅して自室で私服に着替えた快斗は、財布と携帯電話を小さなバッグに詰め込むと時間を確かめて深呼吸した。
 大丈夫、昨日の様子ではひじりは可愛い嫉妬をしてくれたが怒った様子ではなかった。だから大丈夫と自分に言い聞かせるが、ひじりの機嫌が気になってそわそわしているわけではないことは、快斗自身が一番よく分かっている。

 自分の誕生日に、好きな人が会ってくれる。
 今までは青子や友人達が企画して誕生日会を開いてくれていたが、今日は初めて恋人と過ごす誕生日だ。
 何をしてくれるのだろうか。否、何もしてくれなくても、直接会って祝いの言葉ひとつくれるだけできっと飛び上がるほど嬉しい。
 今日という日がいっそう特別に思えて、早くひじりに会いたくて、まだ時間はあるのに落ち着かない。


(本当、オレの誕生日を一緒に過ごせるとか、マジで夢みてぇ)


 どきどきと早鐘を打つ心臓をなだめながら、少し早いが待たせるわけにもいかないので出ることにした。
 家に鍵をかけて駅に向かう道中、快斗はひじりとの出会いを思い出す。

 黒羽快斗として出会ったあの日から彼女が消えるまで、長くはないと直感的に悟っていた。
 いずれ彼女はあの檻の中へと戻ってしまう。そうさせないために手を伸ばし続けていたが、無駄かもしれないと。
 だから自分の誕生日を共に過ごせるだなんて夢にも思っておらず、それが叶うことが言葉にできないほど嬉しい。
 今年も、来年も、再来年も、そのずっと先も。一緒にいたい。


「……あれ?そういやひじりさんの誕生日はいつだ?」


 快斗が唐突にそう思い当たったのは、トロピカルランドのゲート前に着いたときだった。
 そういえば、自分はひじりの誕生日を知らないのだ。お返しもしたいし、会ったときに訊こうと決めてゲートをくぐる。
 逸る気持ちを落ち着かせるためにゆっくり来たため、時間を確かめると18時半を少し過ぎていた。少し早いが待てば問題はないだろうと観覧車へと向かう。

 ひじりと最後に乗ったアトラクション。悲しい思い出が詰まったゴンドラが、ゆっくり動いている。思わず足を止めて観覧車を見つめ、ふっと息を吐いた。
 大丈夫、もう悲しい思い出はつくらない。今日は快斗の誕生日で、ひじりがそれを祝ってくれる。喜びで上塗りできる。だからこそ、ひじりもここを指定したのだろうか。
 陽が落ちはじめた空を背景に観覧車を暫く見つめていた快斗は、再び足を進めた先、ベンチに腰かけている女性を見て思わず声を上げた。


ひじりさん!」

「快斗」


 快斗の声に応じてひじりが振り返る。初夏らしく涼しげな格好だが、左肩の傷を隠すためか薄手の上着を纏っている。
 立ち上がったひじりに駆け寄った快斗は、待たせたことに申し訳なさそうに肩を下げた。


「すみません、待たせましたか?」

「ううん、待ってないよ。それに、まだ待ち合わせ時間前だからそんな顔しなくても大丈夫」

「けど…」

「私が待ちたかったの。気にしないで」


 そこまで言われてそれ以上食い下がるわけにもいかず、快斗は素直に「分かりました。ありがとうございます」と笑顔を見せた。
 ひじりが僅かに表情をゆるめる。そして自分から快斗の手を取ると観覧車の方へと引っ張った。その手には2人分のチケット。チケット代、と快斗が言うが「誕生日なんだから」と言外に断られる。
 ひじりはチケットを係員に見せてさっさとゴンドラに乗りこみ、快斗もそれに続いた。
 ガシャンと扉がロックされる。外の客や係員から2人の姿が見えなくなる頃、ひじりが口を開いた。


「誕生日おめでとう、快斗」

「ありがとうございます。……あの、ひとつ訊いていいですか?」

「ん?」

ひじりさんの誕生日は、いつなんですか?」


 ひじりは軽装で、鞄も小さくプレゼントなども持っている様子はない。
 物が欲しいわけではないので単純に面と向かって祝いの言葉を言われたことで満足した快斗は、ひじりが好きだと言った笑顔で礼を返して訊いた。
 あっさり答えが返って来るものとばかり思っていたが、ひじりは快斗の問いに無表情のまま暫く沈黙し、もしかして訊いてはいけなかったかと少し後悔しはじめたとき、思ってもなかった返答があった。


「ない」

「え?」

「私の誕生日は、ないの。……戸籍上は4月のはじめになってる」


 それはいったい、どういうことなのか。
 ひじりは小さくため息のような息を吐くと、淡々とした口調で説明した。

 ないと言うか、分からないというのが本当のところ。
 ひじりは戸籍通り4月のはじめが自分の誕生日だと思って疑っていなかった。だが中学生になったばかりのとき、もうすぐ自分の誕生日だと言ったひじりに対し、父親は「本当は違う」と口を滑らせてしまった。当然どういうことかとひじりも問い詰めたが、父親は決してそれ以上口を割らず、真偽を確かめることもできなくなった。
 なぜ自分の誕生日が違うのか。本当はいつなのか。アルバムにそんな記載はなく、母子手帳すら家にはなく確かめようがなかった。


「新一や蘭達は、前みたいに4月に祝ってくれて、快斗にも言おうと思ってはいたけど…。本当は違うのにその日だと教えるのもどうかと思って、何となく言い出せなかった。ごめん」

「いえ、ひじりさんが謝ることじゃ…」


 手を振り、まずいことを訊いてしまったと内心で舌打ちする。
 ひじりが言い出せなかったのは、偽りの誕生日に祝われるのが複雑だったからだ。
 快斗とて、本当は今日の誕生日が違うのだといきなり言われ、ろくな説明もないままでは、納得できるものもできずに公言できなくなるだろう。
 大人になれば気にしなくなるのだろうが、おめでとうと言われるたび、本当は違うのだと小さな否定がトゲとなって心に刺さる。それはやわらかなひじりの子供の心を傷つけ、そしてそれが癒されぬまま、父親ごと真実は闇に消えてしまった。
 だから言い出せなかった。それが理解できて、知らなかったとはいえ訊いてはいけないことだったと快斗に後悔させる。
 だがここで謝っては、快斗は気にしないでと言ってひじりがまた謝ってしまう。それは快斗の望むところではない。何か、何かかける言葉はないかと顎に手を当てていれば、ふいにぽんと妙案が浮かんだ。


「じゃあ、今日にしましょう!」

「え?」

ひじりさんの誕生日!オレと一緒で、今日にしませんか。本当の誕生日が判らないんだったら、いつでもいいじゃないですか」


 快斗の提案は子供らしく単純なものであったが、ひじりにとっては思ってもなかった考えだった。
 軽く目を瞠って何度か瞬かせ、「……私の、誕生日を…今日…」と呟く。快斗は笑顔で大きく頷いた。


「今日はオレとひじりさんの誕生日。嘘もつき通せば本当になる。そうでしょう?」

「……」

「それに、嘘じゃなくせばいい。今日はひじりさんが新しいひじりさんに生まれ変わった日だ。オレを祝ってくれて、オレが祝うひじりさんになった日」


 呆然とするひじりの手を取り、手の甲にキスをひとつ落とす。
 多少強引な気もするが、良い案だと自分でも思う。それに、自分と同じ誕生日だなんて、何とも運命的ではないか。
 にっこり笑う快斗を見下ろしていたひじりは小さく首を傾けて思案し、遠くなる地上を一瞥して頷いた。


「そっか…そうだね、今日が私の誕生日。快斗と、同じ」


 やわらかく黒曜の目が細まる。どうやら納得して受け入れてくれたらしい。


「誕生日おめでとうございます、ひじりさん」

「ありがとう、快斗」


 祝いの言葉を紡げば嬉しそうに頬をゆるめられて、その小さな微笑を正面から見た快斗は微かに頬を染めた。
 そんなに喜んでもらえたのなら自分も嬉しい。ああそうだ、今日はひじりの誕生日でもあるのだから、何かプレゼントでもしようか。
 頭の中でプレゼントの吟味を始めた快斗は、しかしひじりに軽く手を引かれて思考を中断させた。


「実はね快斗、本当は誕生日プレゼントを用意してたんだけど、渡すのはどうかなって思ってて、でも私の誕生日でもあるんだから、受け取ってもらえるのが私への誕生日プレゼントになるんだけど、どう?」

「そんなことでいいのなら、喜んで」


 なぜ渡すのかを思案したのかは分からないが、ひじりからもらえるものだったら消しゴムひとつでも後生大事にするし、受け取ることがひじりへの誕生日プレゼントになるのなら断るはずもなく、快斗は即座に快く頷いた。
 もしかしたら誕生日を知ったのが急なこともあって、男子高校生へ渡す適当なものが思いつかずに結局ズレたものになってしまったのかもしれない。
 だがそんなこと快斗は気にしない。リボンだろうが首輪だろうが喜んで受け取る所存である。

 快斗の返答にひじりはほっと息を吐き、財布と携帯電話しか入っていないような小さな鞄を開けた。
 取り出されたのは小さな藍色の箱。え、と思わず目を瞬く。漫画やドラマでよく見るそれはもしかして。
 奇しくもゴンドラが頂上についたと同時、ひじりは両手に持った箱を開いて真顔で言った。


「私と結婚してほしい」






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